序章 4-3


 彼女は一頻ひとしきりミストリアの胸で泣いた後、宴席での一件をつまびらかに語り出した。


 しかし、封禅ほうぜんの儀への陪従ばいじゅうだけは口にすることは躊躇ためらわれ、国王と皇太子が上手く執り成してくれたことに留めた。


 ミストリアは時折、相槌を打ちながら黙って彼女の話に耳を傾けていた。やがて、一部始終が語られたことを確認すると、そのまま彼女を寝台に寝かせ、自身は脇に備え付けられた華美な椅子に腰を下ろした。


「どう、少しは落ち着いた?」


 ミストリアが柔和な眼差しで覗き込んでくる。彼女は気恥ずかしそうに寝具で顔を覆ったが、しばらくして目から上だけをひょっこりと現した。


 目の前にあるミストリアの表情は慈愛に満ち溢れており、まるで姉ではなく母……或いは、もっと上の存在のようにも感じられた。


「ごめんね、その服を汚しちゃった」


 彼女の言葉と視線を追い、ミストリアが自身の胸元を見下ろす。それは彼女の涙と鼻水で濡れており、豊満とは言わずとも決して小振りではない身体の線を浮き上がらせていた。


「平気よ、レイニーだもん」


 そう言って嫌な顔一つしないミストリアを見て、彼女は自分がうの昔に心の奥底に押し込めた感情が、少しだけ揺り動かされるのを感じていた。


 それはあまりにも出来ない理由が多すぎて、決して起こり得ない……いや、起こってはならないと諦めたことだ。


「……ごめんね」


 そんな彼女の心情を知ってか知らでか、ミストリアは再び謝罪の言葉を口にする。まさか心の中を読まれたのかと慌てる彼女であったが、どうやらそれは勘違いのようで、ミストリアは淡々と一連の事件に関する考察を述べた。


 ミストリアは初めから、この演習には本来の目的とは異なる思惑が潜んでいることに気が付いていたという。


 それは天人てんじん地姫ちぎの力量を確認したいのであれば、彼女ではなく現当主を招聘しょうへいする方が妥当であり、むしろ後者こそが本命ではないかと睨んでいた。


 演習では過剰なまでに兵士の安全に配慮していたのは、それを口実に彼女が不利な状況に陥ることを危惧した故であった。


 もしも演習で死者が出てしまっていたら、それも兵士の常とはいえ、彼女はもっと厳しい立場で宴席に望むことになっていただろう。


 また、ミストリアは演習中も魔法で彼女を監視しており、あらゆる事態を想定して備えていたらしい。しかし、宴席の会場には強固な結界が張られており、無理に干渉しようとすれば察知され、彼女にるいが及ぶ危険性があったという。


「帝国の顔ぶれの中に、高齢の魔術師がいたことは覚えているかしら?」


 ミストリアの唐突な問い掛けに、彼女はしばし返答に窮す。やがて、あの老魔術師の姿が思い浮かんだとき、陣幕でも宴席でも節目で場を動かしていたのは件の人物であったことに気が付いた。


「帝国の魔術研究の第一人者にして、大陸随一の魔術師とも噂されているわ。きっと、あの結界もその手によるものね」


 ミストリアがそこまで他人を褒めることは珍しい。しかし、肝心の老魔術師がそれを聞いたら、ミストリアにだけは言われたくないと怒り出すことだろう。


 彼女は思わず苦笑いを浮かべてしまったが、それは心に余裕が戻りつつあることの証でもあった。そして、ミストリアが妙に詳しいことにも疑問を覚えた。


「もしかして、それは例の記憶なの?」


 ミストリアには歴代の天人地姫の記憶が部分的に継承されている。それは心身の成長を契機として、段階的に甦るものなのだという。


 特に魔法に関する知識は早い段階で現出する一方、人物に関してはひどく曖昧らしく、ホーリーデイ家でも現当主より前の世代は希薄である。


「まあ、相手が誰であろうとも、私が傍にいる限りは指一本触れさせないわ」


 その何ものにも代えがたい心強い言葉に、彼女は改めて自分がミストリアに守られていたことを痛感する。そして、今日の行動が如何に無謀であったかと自省し、宴席で克己こっきしたはずの覚悟はすっかりとしぼんでしまっていた。


「私にはメイラ将軍のような武芸の才能はないし、それどころか魔法を使うことだって……ほんと、何にも出来ないなって嫌になっちゃう」


 それは演習や宴席における彼女の所作を見た者からすれば、否という他ない不当な評価である。そんな彼女に対してミストリアは居住まいを正すと、いつになく真剣な眼差しを向けてきた。


 その吸い込まれるような翡翠の瞳に、彼女は思わず物怖じしそうになる。しかし、何とか踏み止まりながら視線を交えていると、やがて慈悲深い声が耳に響いてきた。


「あなたの本当の強さに気付いてほしい。それは武芸でも魔法でもない、あなただけが持つ特別な力なのよ」


 本当の強さ、特別な力……そんなものが自分にあるのだろうか。天人てんじん地姫ちぎを庇護する一族と称されながら、逆に護られてばかりの自分にいったい何が出来ると言うのか。


 尚も無力感が彼女を苛んでいた。それほど、彼女が歩み続けた苦悶の日々は根深いものだった。しかし、ミストリアはそんな胸中を見透かすかのように微笑みを絶やさなかった。


「あなたのお母様も、かつては理想と現実の隔たりに思い悩んでいた。でも、次第に周囲に意識を向けるようになってからは、持ち前の洞察力から外交分野で頭角を現すようになっていったわ」


 それは初耳であった。彼女の母はホーリーデイ家の特殊な立ち位置に目を付けられ、王国に利用されているとばかり思い込んでいた。しかし、実態は母こそが王国の外交の主導的立場にいるのだという。


「キノ家の発言力が低下したのは、帝国以外の周辺国家が滅亡したことによるものではなく、お母様の外交手腕が認められているからなのよ。まあ、どのみちオイワ将軍に外交は任せられなかったけどね」


 宴席におけるオイワ将軍の振る舞いを思い返す。あの嫌悪すべき発言はモノノベ家への追従だけでなく、ホーリーデイ家に対する恨み節でもあったのだろう。


「だから、あなたもきっと上手くやっていけるわ。もっと自分を信じなさいな」


 そうして胸を張ったミストリアの姿に、彼女は緊張がほぐれたのか、自分でもよく分からぬままに満面の笑みを溢した。


 ここまで太鼓判を押されて、落ち込んでなどいられるものか。すっかり気を取り直した彼女は、思考を澄ませながら改めて今回の一件を考察してみることにした。


「そもそも……帝国は本当に私を連れて行くつもりだったのかしら」

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