序章 4-2


「おかえり、思ったよりも早かったじゃない」


 穹廬きゅうろの入口をくぐった彼女を迎えたのは、腰まで伸びた金色の髪を絹糸のようにく美しい少女であった。


 野営地でありながら、まるで湯浴みをしたかのように艶のある肌。そして、着衣も漆黒の外衣ローブから淡黄蘗うすきはだの寝衣に着替えたことも相まって、不思議と心臓が早鐘を打ってしまう。


「ただいま……もう、寄り道なんてしないったら」


 そうして照れ隠しのようにむくれる彼女を見て、ミストリアは優しく微笑みながら奥の方へと促した。内部には天蓋てんがいが施された寝台が二床ふたしょう、その他にも豪華な調度品が並べられており、さながら王族への待遇のようである。


 これも帝国が如何に天人地姫を厚遇しているかの証左であろう。暫し、その光景に恐縮してしまう彼女であったが、ミストリアが欠伸を噛み殺したのを見て、自然と笑みが零れてきた。


 既に夜もけて久しいが、ずっと眠気を押して待ってくれていたのだろう。一方、そんな彼女を訝しげに眺めるミストリアであったが、やがて怪しげな表情を浮かべて詰問してきた。


「それで、今夜は誰に随伴してもらったのかしら?」


 それは詮索のようであり、既に答えを持ち合わせているようでもある。或いは、敢えて本人の口から語らせたいという意地悪さを孕んでいるのかも知れない。


「ええ、夜道は危険だからメイラ将軍が送ってくれたのよ」


 しかし、その答えは予想だにしないものであったらしい。ミストリアは目を丸くして彼女を見つめるが、やがて落胆したかのように深い溜め息を吐いた。


「まったく、メイラ将軍も気が利かないこと。国王の補佐というのだから、もう少し周りにも気が配れないものかしら」


 いったい、何をそんなに嘆いているのか。今一つ話が呑み込めぬまま、彼女は先のメイラ将軍とのやり取りを説明した。すると、どうやら合点がいったのか、ミストリアが興味深そうに目を輝かせる。


「なるほど、メイラ将軍も苦労が絶えないわね。まあ、あんな陰険な男に惚れたのが運の尽きか」


 ミストリアの口から飛び出した信じ難い言葉に、彼女はしばし唖然としたまま、帰路での様子を思い返していた。


 確かに、あの時のメイラ将軍の様子はどこかおかしかった。あれはそのようなことが理由だったのだろうか。


「同じ志を抱いて修行した男と女だもの、そういう感情が芽生えても不思議はないわ。それに武勇誉れ高きメイラ将軍には、なかなか釣り合う男がいないのよ」


 まるでお芝居の演者のごとく、一人の女性の秘められた想いが赤裸々に語られる。しかし、彼女としては尚も半信半疑であり、そんな様子にミストリアは唇を尖らせた。


「ふん、レイニーったらほんと色恋沙汰には鈍いんだから。これから先が思いやられるわね」


 その悪態に他意がないことは彼女も理解していた。しかし、これから先という言葉が持つ意味を考えてしまい、不意にその表情が曇りだす。それはミストリアが旅立った後のことだからだ。


 伝承どおりであれば、ミストリアは霊峰タカチホで神の子を宿し、彼女もまた誰かと婚姻して子を授かる。そして、二人の子どもたちは共に成長し、やがて同じように別離を迎えることだろう。


 しかし、彼女はその結末を望まず、ミストリアとの旅路を選んだ……いや、選んでほしかった。結局のところ、それを決めるのはミストリアなのだ。宴席で国王が語ったとおり、御幸ごこう陪従ばいじゅう天人てんじん地姫ちぎが定むることである。


 果たして、ミストリアは自分が来ることを望むだろうか。彼女は長きに渡りその問いを胸に抱きつつも、これまでずっと訊くことが出来ずにいた。


 もしも断られてしまったら……ミストリアから拒絶されてしまったら、そう考えると堪らなく怖くなった。


 ミストリアの心のうちが知りたい。自分との今生の別れに、何も苦悩することはないのだろうか。今までずっと一緒にいたのに、寂しくは感じてくれないのだろうか。


 こんなに辛く引き裂かれるように悲しいのは自分だけなのだろうか。ミストリアにとっての自分とは、所詮はその程度のものに過ぎなかったのだろうか。


 際限なく湧き出る悲壮感に囚われ、次第に彼女は黙り込んでしまう。やがて、ミストリアもその異変を察したのか、困惑しながら励ましの言葉を送ってきた。


「だ、大丈夫よっ、レイニーの可愛さは私が誰よりも知っているわ。きっとすぐに良い人が現れるって。ほらっ、あのオヒトだって本当はあなたのことが好きなのよ」


 思わぬ形で好意を明かされてしまったオヒトであるが、宴席での彼の奮起をかんがみれば、その話にも幾らか信憑性が宿ると言えた。


 しかし、ミストリアに陶酔する彼を見続けてきた彼女にはただ虚しく響くだけである。そればかりか、錯綜する思考が不意に紡ぎ出したものは、宴席で耳にした嫌悪すべきはずの言葉であった。


「また、ハジ家では血が濃すぎてしまうわ」


 その瞬間、彼女はハッとして自身の口を噤んだ。いったい何を口走っているのだろう。慌てて弁解しようと顔を上げた先に映ったのは、どことなく軽蔑を帯びたかのようなミストリアの乾いた表情であった。


「ごめんなさい、少し無神経だったわね」


 ミストリアの謝罪に彼女は激しく動揺した。それは誤解だと、あれは自分の言葉ではないのだと、一刻も早く伝えたいのに口からは掠れた息しか出てこなかった。


 もうそこまでだった。今まで張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまったのか、様々な想いが堰を切ったように溢れ出し、自分でも何が何だか分からなくなってしまった。


「ちっ、ちが……うぅ……」


 言葉にならなかった。ミストリアの姿が滲み、目からは大粒の涙が零れ出す。演習や宴席においては、両国の重鎮を相手に堂々としていた口達者が、今は年相応の少女の姿で泣きじゃくっていた。


 本当の彼女はずっと怯えていた。帝国の要請を受け、ミストリアと別れて一人で陣幕に向かうときは、恐怖と緊張のあまり逃げ出しそうになった。


 皇帝のかたわらに立ったときには、威圧感と周囲の視線に足が竦んで崩れ落ちそうになった。帝都に連れて行かれそうになったときも、本当は泣き叫んで誰かに助けてほしかった。


 でも、彼女はホーリーデイ家の嫡子なのだ。これも一族の使命だと、ミストリアの庇護者として相応しくあれと……そう、自分に言い聞かせてここまで耐えてきたのだ。


 それがやっと終わったというのに、問題は何一つ解決しておらず、ミストリアにも酷い人間だと誤解されてしまった。いったい、自分は何をやっていたのだろう。


 尽きることなき想念の瀑布ばくふが、彼女を奈落の底へと押し流そうとしていた。後悔と諦念が重しとなり、微かな希望に向けて藻掻く気力も失われていく。


 しかし、そんな彼女を不意に柔らかく暖かいものが抱き止めた。言わずもがな、それはミストリアであった。


「ミス……ティ……?」


 ミストリアの三種の障壁は常時展開されている。しかし、ある特定の条件下では作用しない仕組みとなっていた。その一つが術者の意思で対象に触れる場合である。それは極めて稀で、そして危険な行為でもあった。


 ミストリアに触れたのはいつ以来のことだろう。幼少期には何も考えずにしていたことが、いつの間にか出来なくなってしまっていた。


 成長に連れて、障壁は彼女にも作用し始めた。その都度、ミストリアから触れてくれていたのだが、やがて気を遣われることに嫌気が差し、彼女の方から避けるようになってしまっていた。


 それでも心では繋がっている……だから構わないと信じていたのだが、直接感じるミストリアの鼓動はとても優しく、そして心地よかった。


「レイニー、大丈夫だから……何があったのか、私に話して」

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