序章 3-4


 霊峰タカチホへの御幸ごこうは、原則として天人地姫の単独行とされている。それは儀式の詳細を秘匿するためでもあるが、一番の理由は護衛など却って足手まといになるからだ。


 大陸を南北に縦断する旅路は厳しい自然との闘いであり、また途上には危険な魔物も生息していることから、知勇に優れた者でなければ踏破は困難とされている。


 モリヤ将軍の言を端的に表せば、ミストリアが出立した後であれば、彼女を如何いかようにしようとも問題はないというものであった。


然様さようでございますな。まずは、御幸ごこうを済ませてからと致しましょう」


 モノノベ家の同意により、王国側は一枚岩となって反論することが出来なくなってしまった。また、ソガ家とナカトミ家は沈黙を守っており、国王も皇帝の手前、表立っての対立は避けたいようである。


 彼女を守ろうとする声は、次第に弱く小さなものへとなっていき、帝国の提案を容認する構えがその場を支配しつつあった。


 そして彼女はようやく、自分が宴席に呼ばれた本当の理由を悟った。帝国は天人地姫への牽制として、彼女の身柄を抑えようと画策していたのだ。


 最早、自分を守ってくれる者はこの場にはいない……そのような諦念を抱き始めていた彼女であったが、隣で黙していたオヒトが意を決したかのように声を上げた。


「か、彼女の、レイネリアの気持ちも考え……」


 それは声色のみならず身体までをも震わすものであったが、それ以上は兄であるノイテの制止により阻まれた。皇帝と国王を始め、両国の重鎮が一堂に会する場において、彼のような若輩が発言することなど許されないのだ。


 一方、残る五大諸侯のキノ家はというと、このハジ家のやり取りを目ざとく見ていたのか、オイワ将軍が下卑た笑いを浮かべながらモノノベ家に追従しようとした。


「またハジ家では血が濃すぎてしまいますな。なぁに、ホーリーデイ家は交流が盛んですから帝国でも安泰でしょう」


 そのあまりにも品性に欠けた発言には、しものモリヤ将軍も苦笑いを浮かべていた。しかし、演習時のミストリアへの不埒な態度から、モリヤ将軍も同じ認識を持ち合わせていることは明白であろう。


 ホーリーデイ家は女系の一族であり、また権力は持たずとも国内外に強い影響力を持つことから、習慣的に各国の有力家を伴侶に迎えてきた。


 その系譜を紐解けば、王家を始めオオトモ家や五大諸侯の出身者も多く、無論そこにはモノノベ家も含まれているのだが、どうやら快く思われてはいないようだ。


 演習での一件は彼女の耳にも届いており、恐らくは天人地姫からホーリーデイ家の影響力を削ぐために、帝国の策に便乗しているのだと思われる。


 しかし、それはあまりにも早計で短慮な愚考であった。斯様かようにも姑息な方法で両者の関係を引き裂けるのであれば、うの昔にその縁は切れていたことだろう。


 天人地姫とホーリーデイ家の間に、どのような経緯があったのかは定かではないが、それはとても古いもので一説には王国の建国時にまで遡るとも言われていた。


 彼らの多くが誤解しているが、天人地姫は王国にいるのではなく、ホーリーデイ家にいるのである。次期当主たる彼女こそがホーリーデイ家である以上、天人地姫は王国を離れ、帝国に身を寄せることになる。


 しかし、モノノベ家とキノ家の横槍など結局は些事に過ぎなかった。王国と帝国の関係を顧みれば、諸侯が団結して反意を述べたところで覆すことは難しく、また仮に成し遂げたとしても後々まで禍根を残すことは必定であった。


 天人地姫という一国を凌駕する力を抱えながら、実権力を持たないホーリーデイ家にとって、このような無理難題は日常茶飯事である。いつしか彼女の顔からは険しさが抜け、研ぎ澄まされたような怜悧な表情が浮かんでいた。


 武芸も魔法の才もない彼女にとって、考えることだけが自分の武器だ。力を持たぬ者が絞れるのは智慧ちえしかなく、恐らくは彼女の祖先もそうであったのだろう。


 ホーリーデイ家として生きるということ、その本当の意味での自覚が彼女に芽生え始めようとしていた。


『封禅の儀への配意であれば、出御しゅつぎょあそばされてからでもよろしかろう』

然様さようでございますな。まずは、御幸ごこうを済ませてからと致しましょう』


 ミストリアの出立を待つことには帝国側も同意している。如何に厚顔無恥な要求をしようとも、封禅の儀に対して不敬を働くわけにはいかないからだ。


 しかし、それを遅らせることは出来ない。儀式の詳細が分らぬ以上、どのような悪影響が出るかも知れず、それこそ天人地姫の御心を捻じ曲げたとのそしりを受けかねない。


「あぁっ……」


 不意に、彼女の口から嬌声が漏れ出た。それは普段、人前で発するものよりも少々艶めかしい声色であったが、隣にいるオヒトが何らの反応も示さなかったことから、実際には限りなく小さなものであったのだろう。


 彼女は皇帝を仰ぎ見ながら立ち上がると、先の陣幕のときのように仄かに笑みを浮かべてこうべを垂れた。


「皇帝陛下の恩寵おんちょうを賜り、恐縮至極きょうしゅくしごくに存じます。しかし、封禅の儀を間近に控えた今、長期に渡り陛下の御心をわずらわせてしまうことは大変心苦しく、どうか辞することをお許しください」


 彼女の申し出を受けて、一同は真意を計りかねていた。封禅の儀は間近であるのに、なぜ長期に渡り煩わせることになるのだろう。


 演習では大層な振る舞いを見せてはいても、所詮は年若き処子であり、道理が通らぬことを申していると嘲笑う者もいた。しかし、そんな外野の声を諌めるかのように、沈黙を守り続けていたシバイ皇太子が口を挟んだ。


「其の方らには分からぬのか。レイネリア殿は天人地姫の御幸ごこう陪従ばいじゅうすると申しているのだ」


 皇太子の予期せぬ発言に、場内は水を打ったように静まり返ってしまった。御幸に陪従するとはつまり、封禅の儀への旅路に同行するということである。


 にわかには信じ難い話に、帝国はおろか王国側にも動揺が広がっていた。しかし、図らずも皇太子が口添えをしたことにより、誰もが異を唱えることを躊躇っているようであった。


「国王よ、今の話は真か」


 ただ一人、皇帝だけは意に介さず、隣に座していた国王に疑問を投げかける。これまで以上に張り詰めた空気が場を支配する中、国王がようやく重い口を開いた。


「御幸の陪従は天人地姫の定むることではありますが……、の者であれば許されるやも知れましょう」


 国王のけむに巻いたような返答に、皇帝もそれ以上は重ねて問うことはしなかった。以降、この話に触れる者はなく、褒美の件はそのまま立ち消えとなった。


 苦渋の策が功を奏し、彼女は安堵の息を漏らした。国王もまた他の者に気付かれぬようひそかに頷きを向ける。


 やがて宴もたけなわとなり、幾多の策謀が交錯した宴席は閉会となった。

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