序章 2-2


 前線で泡人形と兵士が干戈かんかを交える中、ミストリアは攻性魔法で迎撃することもせず、静かにその光景を眺めていた。もしも攻撃の意思があれば、両軍はこの時点で潰走のき目に遭っていたことだろう。


 魔法を行使するためには、自然界に存在するマイナと術者本人に宿るプラナが必要とされている。魔法障壁に加えて多数の魔法人形を生み出したことで、大量のプラナを消耗したとも考えられるが、少なくとも疲弊した様子は認められなかった。


 ミストリアの行動には不可解な点が多々あった。しかし、少し着眼点を変えてみると、一つの推測が垣間見えてくる。人的被害を最小限に抑えようとしているのではないか、と。


 そうなると、地面に散らばる矢を撤去したことも、敢えて周辺環境にはそくさない水泡で下僕を形成したことにも合点がいくのだ。


 不運にも騎兵同士の衝突で負傷者を出してしまっていたが、帝国の軍事演習では死者が出ることも珍しくないため、むしろその程度の被害は僥倖ぎょうこうであった。


 それは同時に、両軍は明らかな手心を加えられても、なおミストリアに接近すらも叶わないことを示している。


 しばしの間、前線では膠着状態が続いていた。ミストリアは眼前の光景を眺めながら、時折退屈そうにに輝く髪を手指しゅしいじる。しかし、やがて戦局に変化が生じ始め、防壁の最深部にまで到達する部隊が現れた。


 両軍ともに防壁の全てを破壊するのではなく、空けた穴に戦力を集中させ、強引に押し進む戦術をっていたのだが、ようやくその成果が現れようとしていた。


 最深部へと到達したのは、帝国側はシバイ皇太子、王国側はモリヤ将軍、いずれも指揮官とその腹心からなる精鋭中の精鋭である。しかし、双方ともに別々の箇所からの突破を試みており、決して共闘しようとはしなかった。


 両者ともどちらが先にミストリアの元へと辿り着き、その剣戟けんげきを振るうかを競っているかのようである。軍事演習はあくまで両国の友好と協働を目的としたものだが、誰もがそれが建前論に過ぎないことを理解していた。


 今回の演習は天人てんじん地姫ちぎという仮想敵を介してはいたが、実態は帝国から王国への軍事的な示威行為である。逆に王国側としては自国の主体性を保つため、戦力が健在であることを顕示せねばならなかった。


 故に協力して事に当たることは出来ず、それが防壁の攻略に少なからぬ影響を与えていたのだが、ついに両軍の執念が実ったのか、最終防衛線を突破する者が現れた。


 それは奇しくも両軍の指揮官であり、二人はミストリアに向けて気勢を放つと、前後からほぼ同時に斬り付けた。


 両軍の総力を結集した攻撃がようやくミストリアに届いたかに思えたが、無情にもその斬撃は先と同様、目に見えぬ障壁によって阻まれてしまう。


 ミストリアの周囲には、投擲とうてき行為に対応する『未投射』、攻性魔法に対応する『不干渉』に留まらず、斬撃や衝撃に対応した『非接触』の障壁が展開されていたのだ。


 幾多の部下の献身の末に放った乾坤一擲けんこんいってきの一撃でさえ、ミストリアには指一本触れることは叶わない。そのあまりの無様さに屈辱を隠せない二人は、そのとき初めて不倶戴天ふぐたいてんたる敵の尊顔を拝んだ。


 それは殺風景な荒野には似つかわしくなく、月光を浴びた湖水が如き金糸の髪に、ほとりいろどる新緑のかおる瞳が覗き、この世のものとは思えない美しさをたたえていた。


 二人がその美貌に目を奪われていた一方、ミストリアもまた両者を観察していたが、やがて興味を失ったのか、おもむろに陣幕の方へと振り向いた。それは皇帝たちに向けられたものであり、演習の終了を催促するものであることは誰の目にも明らかであった。


 もはやこれ以上演習を続ける意味はない……その様な空気が荒野に漂い始めたとき、モリヤ将軍が憤怒の表情を浮かべながら叫声きょうせいを上げた。


「貴様、なぜこれだけの力を持ちながら売女ばいたの一族のもとにいる! この力さえあれば、王国は帝国の属国にならずに済んだものを!」


 その瞬間、まるで昼夜が逆転したかのように少女の纏う空気が変質した。


 ゆっくりと不埒ふらちな声の主へと向き直ったその瞳は、先ほどまでの湖面に映える新緑の如き美しさは既になく、獲物を睨む蛇のような潜在的な恐怖心を想起させるおぞましさを宿していた。


 二人は気圧されるように後方へと飛び退いた。それは生存本能に根差した行動であり、よもやミストリアが王国の重鎮に手を掛けるとは考え難いが、そう思わせるだけの異様さが空間を支配していた。


「彼女に謝罪したまえ。先の発言は騎士として看過できるものではない」


 皇太子は周囲を一瞥いちべつすると、未だ恐怖心が冷めやらぬ様子のモリヤ将軍に畳み掛けた。


「しかも、我が妃となるやも知れぬ貴人に対して何たる侮辱か! 重ねて述べるならば、貴国は決して属国などではあるまい」


 そのあまりの剣幕にモリヤ将軍は我に返ると、こうべを垂れて謝罪の言葉を述べた。それはもっぱら皇太子に向けたようにも見受けられたが、もうミストリアの異変は霧のように立ち消えており、先の見惚みとれるような優美さを取り戻していた。


 緊迫した事態が収まり、威儀いぎを正した皇太子がミストリアに声を掛けようとしたとき、陣幕の旗旒きりゅうが降下し、軍事演習の終了が告げられた。

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