序章 1-2


 軍事演習はまるで両軍が示し合わせたかのように、同時に放たれた無数の矢によって幕を開けた。それは神々しくも一切の慈悲を許さぬ天の裁きのようであり、虚空に放物線を描いた後、矢尻を翻して大地へと舞い降りた。


 標的は無残に貫かれ、原型すらも留めないだろう。陣幕の者たちがそのような凄惨な光景を想像する中、彼女はただ黒衣だけを見つめていた。


 やがて、先陣の矢が標的に到達しようとした瞬間、まるで時が止まったかのように空中で静止した後、傾きをへんじて地面へと突き刺さった。


 その現象は後続の矢にも伝播でんぱし、気が付けば両方向から放たれた無数の矢は、まるで初めからそうであったかのように、黒衣の足元へと無造作に散らばっている。


 陣幕の者たちも前線に立つ兵士たちも、しばし目前の現象に理解が追い付かず、ただ呆然とその光景を眺めていた。


「未投射の障壁です」


 静寂に包まれた陣幕の中で清廉とした彼女の声が響いた。ただ一人、現状を把握していると思しき口振りに、たちまち皆の視線が彼女へと集中する。


「ミストリアの魔法です。弓矢だけでなく、手槍や投石などの投擲とうてき行為に対応しています」


 にわかには信じ難い言葉に陣幕内がざわめいた。皇帝も国王も口を閉ざしたままだが、臣下の動揺を抑えることは出来ないようだ。やがて、一同を代表するようにして帝国の老魔術師が彼女に問い掛けた。


「さて、障壁を展開する素振りは見られませんでしたが、いったいどのようにされたのですかな」


 両方向から放たれた無数の矢を弾く障壁など、如何いかほどの魔力と時間を費やせば成し得るのか。老魔術師の疑問は帝国だけでなく王国側にとっても同様であろう。


 斯様かような詮索に対して彼女は返答にきゅうしていた。彼女とて障壁の仕組みを完全には理解していないのだが、例え断片的な事項であっても帝国に明かすべきか悩んでいるようだ。


 しかし、皆の視線が先の矢の如く、痛いほどに集まっていることを感じ取ったのか、渋々といった様子で言葉を返した。


「最初に申し上げたとおり、ミストリアは常在戦場でございます。障壁もまたしかりです」


 その何とも掴み所のない返答に、老魔術師が驚愕の表情を浮かべて彼女を凝視する。しかし、すぐに元に直って一礼すると再び視線を演習地へと戻した。一見すると不遜な態度のようであるが、存外とその言葉は的を射ていた。


 程度こそ違えども、魔術師が自らに対して恒常的な防性魔法を施すことは珍しくない。それが天人てんじん地姫ちぎともあれば、納得するより他ないだろう。


 いずれにせよ、弓矢に対して防衛策を講じているのであれば、近距離まで接近して斬り伏せるか、攻性魔法を放つしかない。それは前線の指揮官も感じ取ったようで、次の瞬間、帝国軍側から消魂けたたましい音を立てて炎の弾丸がほとばしった。


硝煙弾雨ファイア・バレッド


 帝国の魔術師が得手とする火属性の攻性魔法である。第1師団には約三百名の魔術師が配属しており、集中運用による一斉掃射はこれまでに多くの城砦じょうさいを陥落させてきたという。


 一方で、王国軍は静観を保ったままであった。王国も市井しせいには多くの魔術師が暮らしているが、帝国軍のように組織化されてはいない。それが帝国と王国の戦力差の一端でもあるのだが、王国は魔術師を軍属として徴用することには消極的であった。


 迫りくる炎弾の嵐を前にしても、黒衣はまるで気付いてすらいないかのように、何らの動きも見せないでいた。やがて、到達した炎弾が標的を覆い尽くそうとした瞬間、先ほどと同様に空中で静止し、吹き消されるように霧散消滅してしまう。


 再び、陣幕内の視線が彼女へと集中した。ここにきてようやく、なぜ彼女が皇帝の傍にはべっているかを理解されたようだ。天人てんじん地姫ちぎと呼ばれる人智の及ばぬ存在……その秘密をるのは彼女だけなのだ。


「不干渉の障壁です。攻性魔法に対応した障壁で、四大属性全てに効果があります」


 皆の驚愕の視線が以前にも増して突き刺さったが、もはや彼女はそのことを気に留めてはいないようだ。こうして天人地姫の力を衆目に晒した以上、出来得る限りその威光を喧伝しようと方針を切り替えたのだろう。もとよりそれが彼女たち一族の御役目なのだから。


 両軍の弓矢と魔法を無力化し、尚もその力の片鱗すらも見せない超常の存在。神代しんだい人代じんだいくさびを打つ半神半人の巫姫ふき


 そして、彼女の幼馴染であるミストリア=シン=ジェイドロザリーの存在が、王国に永年の平和をもたらし、帝国が大陸統一を断念した唯一にして絶対の理由であった。

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