寵愛

紫陽_凛

寵愛

 故国の夜はよく冷えた、とハヌムは思う。冴えた月が浮かぶ玲瓏な夜の空気が恋しい。何より、置いてきた許嫁のことが、頭から離れない。

『もし戻らなかったのなら、私は死んだと思ってくれ』

 そう告げても頑なに首を縦に振らない。強情にも、待っていると彼女は言った。誰にも嫁がず、あなたを待つと。戻らぬのなら、1人で死ぬと。

 きっと彼女なら、交わした言葉の通りに、今晩も1人で眠っているに違いない──ハヌムは、ようやく瞼を持ち上げた。




 人間。少年の眼差しがそこにある。鳶色の瞳。浅黒い肌。腰まで伸びる長い髪の毛──繋げたままの肉体の間に、熱が篭っている。少年はおとなになったばかりのそれで、ハヌムの中へと押し入ることを好んだ。ハヌムは、国のために、そして愛する女のために、それを幾度となく受け容れた。

 苦しくはない。ただ諦めと、軽蔑だけがそこにある。男の尻で快楽を得るなど──しかし、回数ばかり重ねたそれの良さを、ハヌムは身体で覚え始めていた。


「あなたは、王位を狙わぬのですか、皇子」

「──おれが王になることはあるまい」

 従僕の肉体の上に伏して、ハジャはハヌムの頬に触れた。広いハヌムの肉体の上に、ハジャの艶やかな黒髪がヴェールのように流れていた。

「争う相手が多すぎる。機を待つほど余裕もなし、末子らしくおこぼれを貰うのがちょうどいい。ほんとうはお前に、今以上に豊かな暮らしをさせてやりたいのだが」

 すまないな、と告げる吐息が頬に触れた。

「あなたほど賢く強い皇子であれば」

 ハヌムは正直に告げた。

「末子といえど。兄君たちに分譲された領土のひとつやふたつ、容易く取り上げることができるのでは」


 ハヌムに耽溺するハジャをそそのかして、故国の一部でも、という魂胆はあった。けれども、この賢い皇子は、どうも腰が重たい。


「おれは領土には興味がない。争ってまで手に入れるものでも無し。そもそも奴等──」


 体勢が大きく変えられた。浅黒い肌と自分のそれが、一点で交わる。圧迫感にうめくハヌムに、冷えた皇子の声が重なる。


「おれのものと見ればすぐ欲しがる。女も、召使も、何もかも、おれのものを横取りするのが趣味なのだ。おれは、おれの大事なものだけは守らねばならない」


 ハヌムは初めて陵辱を受けた七日間のことを思い出した──そして、それを知ったハジャ皇子の憤怒の行動をも、思い返した。彼はハヌムを犯した男どもを庭先に並べて次々と首を刎ね、それを数日間晒したような、……そんな男でもある。


 長い髪の毛が、一瞬ハヌムの視界を覆う。鳶色の瞳が、黒い帳の中、自分だけを見上げる──。


「奴等が新しい土地にかまけているから、おれはお前とこうしていられるのだぞ、ハヌム」

 ハジャはハヌムの脚をかたほう、抱え上げた。もはや問答は無用とばかりに、それは始まる。暴力に似た鋭さで、ハヌムを抉る。

「なぜ権力に、そこまで無頓着でいられるのか」

 ハヌムは息も絶え絶えに尋ねた。彼が王になれば。王にさえなってくれれば。その間にハヌムが、この皇子を惹きつけておくことができれば──故国は、愛しいあの女は、いま一度ハヌムの元に。

 

「ハヌム。おれに広い領土を治めようという気概はないのだ。王になろうとも思わぬ。なりたいやつがなれば良い。おれの大事なものが奪われぬのであれば、王の座などくれてやるわ」

 ハジャは言った。ハヌムは絶望とともにそれを聞いた。腹の上が、自分のもので濡れていた。

「おれは、おまえのことしか考えたくないのだ」

「……ハジャ皇子」

「ハヌム。無体を強いたな」

 口付けが降ってくる。ハジャの寵愛は我が身をいましめる首輪よりも重たく、堅牢だった。




 この首輪寵愛から抜け出さねば道はない。

 ハヌムは密かに、ひそかに……彼の首を狩るための、刃を研ぎ始める。

 


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寵愛 紫陽_凛 @syw_rin

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