第3話 内なる怪物
先生の家の前に来ると、インターフォンを鳴らした。随分前に帰宅したところを見たのに先生は一向に出てこない。私は苛立って何度もインターフォンを鳴らしまくった。
「杏ちゃん! 近所迷惑だからやめなよ!」
「だって、暑いんだもん! 先生いるでしょう〜!」
私達が玄関先で押し問答をしていると、先生がドアを開けた。
「静かに!」
いつもは穏やかな先生が明らかに怒った表情をしている。
「あ、ごめんなさい!」
私は慌ててペコリと頭を下げて謝った。
「どうしたの?」
「え、と、この子、蘭ちゃん。今日から団地に引っ越してきたから先生に紹介しに来ました」
「私、蘭です」
蘭ちゃんは先生をまじまじと観察しながら挨拶している。
「あぁ。暑いから上がっていくと良いよ」
先生が笑顔に戻った瞬間、蘭ちゃんはドアを無理矢理開けると先生の脇を通り土足で家に上がった。
「ら、蘭ちゃん!」
「こらこら! 靴を脱いで」
先生が制止しても、蘭ちゃんは聞かない。
蘭ちゃんは普段は襖で締め切られた奥の部屋へと向かっていた。
「勝手に入らないで!」
先生が怒鳴り声を上げた。その怒声に思わず肩が跳ねる。蘭ちゃんは構わず襖を開け放った。
私は寝室を見つめた。そこは西日に燦々と照らされていて、ベッドが置かれている。ベットサイドにはビデオカメラが脚立で固定されていた。シーツやブランケットが乱れたベッド。初めて寝室を見たはずなのに、見覚えがある。頭の中に、固いスプリングのベッドの感触が蘇って来るような既視感。先生の香りと高齢特有の皺になった肌質……。
あぁ、他にも何か思い出しそう。舌触りや 鼻腔を通る匂い……。
先生は蘭ちゃんの元に駆け寄ると腕を掴み、玄関まで引っ張り出した。先生は怒りで真っ赤になっている。
「やめなさい!」
私達を外に追い出すなり玄関のドアを勢いよくバタンと閉めてしまった。
♢ ♢
「蘭ちゃん!」
私も怒り心頭だった。突然、勝手なことをしたことに苛立ちが隠せない。だが、蘭ちゃんは笑っていた。
「あの、寝室知ってるでしょう」
「寝室……? 初めて見たよ」
「嘘つき! あそこで何人も殺したくせに」
「何言ってるのよ!」
「私も殺される」
「……やめよて!」
「先生なんて嘘つきだ! あんたも嘘つきだ!」
蘭ちゃんは玄関先で大声をあげた。それから訳の分からない言葉を大声で喚き散らした。
「蘭ちゃん! やめて」
次の瞬間、怒りの形相で真っ赤になった先生がドアを開けた。
「うるさい! やめるんだ!」
「人殺し!」
蘭ちゃんが叫んだ。
「こいつ、狂ってるぞ! 黙るんだ!」
先生は私を突き飛ばした。
「よくしてやったのに!」
「あ……先生ぇ」
私は半泣きで訴えかけようとしたが、先生はバタンとドアを閉めてしまった。
蘭ちゃんはニタニタと笑った。
「はぁ、せいせいした」
「ひどいよ……ひどいよ! 先生は私の居場所だったのに!」
私がショックのあまり部屋に向かって走り出すと、蘭ちゃんはピッタリと横をついて走り出した。
「来ないでよ!」
「やぁだよ」
カッとなった私は思わず蘭ちゃんを階段で思い切り突き飛ばした。蘭ちゃんの体は一瞬だけ宙に浮き上がり、踊り場に落ちた。
やってしまったと、私は内心青ざめて周りに誰もいないかと周囲を見回した。誰もいない。
蘭ちゃんはピクリとも動かない。私は少しだけ近寄ると顔を覗き込んだ。青白い肌、遠くを見つめる濁った瞳、そして、頭から血を流している。
「あ……」
怖かった。人を階段で突き飛ばすなんて恐ろしいことをしてしまった。
「ら……蘭ちゃん?」
返事はない。私は後退りした。
「ご、ごめんなさい!」
私は部屋へとダッシュし、鍵をポケットから取り出すと大慌てで鍵を回した。その時、廊下から足音が聞こえてきた。それと同時に蘭ちゃんの笑い声が廊下に響き渡った。
「もう、どっか行ってよぉ」
私は涙ながらに家の鍵を開けると部屋に滑り込み、すぐに鍵を掛けた。不思議なことに家に入った瞬間、蘭ちゃんの声は聞こえなくなった。
私は玄関の覗き穴から蘭ちゃんが現れないかとビクビクしながら見つめた。さっきみたいに怒鳴り声をあげたらどうしよう。心臓が破裂しそうにドクドクと脈を打ち、血液が全身に流れるのを感じる。額から汗が流れ、髪が顔に張り付いた。Tシャツが背中にもベッタリと張り付く。
それからしばらくしてからも蘭ちゃんが現れることは無かった。安堵のあまりドアにへたり込むと、私は泣いてしまった。
♢ ♢
私は落ち着くと鼻を啜り上げた。どれ程時間がたったのか。
熱気の籠った室内に悪臭が充満していることに気付く。朝から窓を開けていたので、カーテンが風で揺れている。
奥の部屋の布団の上に横たわるお母さんのシルエットが見えた。太陽に照らされた母はなぜかどす黒い塊に見える。
「お母さん、まだ寝ているの? 何、この臭いは?」
私がホッとしてお母さんの近くに歩み寄った瞬間、強烈な悪臭が鼻腔に入りその場に嘔吐した。腐臭が部屋中を覆い尽くしている。私は鼻をつまみ、息を殺しながらお母さんに近寄った。
お母さんは、本当に黒い塊だった。
お母さんの体からネチョネチョと不気味な音が響き渡り、全身がさざ波のようにわずかに動いている。体中にウジ虫が湧いて動き回っていた。
窓からオレンジ色の夕焼けが鮮やか室内を照らす。それを理解するまで、しばらく時間が掛かった。
そこにいたのはお母さんであって、お母さんではなかった。体は腐ってどす黒く皮膚が溶け、布団や畳に赤黒い液体が垂れ流れている。髪が頭皮から抜け落ちて畳の上にへばりついていた。数千ものウジ虫が湧いてお母さんの体中を、目玉の中を、口内を、穴という穴からうようよと這いずりだしては蠢いている。更には室内を蝿が飛び回り壁や天井を黒く覆っていた。
「あ……あ……」
私はそこで失神した。
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