おっぱい丸出しで学校に行く

田中鈴木

おっぱい丸出しで学校に行く

「お父さん。私、明日から服は着ない。学校にも、それで行くから」


 中学生の反抗期の娘から、夕食後に突然そう告げられた父親の心情を答えなさい。

 …いや、本当に思考が止まるというのがあるんだなと思った。片手に麦茶を注いたコップを持ったまま、椅子を引こうとした中途半端な姿勢で完全に動きまで止まってしまった。


「…うん?」

「もう決めたから。じゃ」

「うん。…うん?ちょっと待って?」


 とりあえず麦茶をテーブルに置く。点けっぱなしのテレビから聞こえるバラエティ番組の音声が、なんだか異国の雑踏のように聞こえる。


「あー…何?」

「だから、服はもう着ないから」

「うん、それは分かった。いや、分からないんだけど」

「ああ、下はちゃんと着るよ。上だけね」

「ええと、そういうことではなく?」


 どうしよう、娘が何を言っているのか分からない。一応仕事で変なクレーム対応とかは数をこなしてきたつもりだったが、まだまだ甘かったようだ。


「申し訳ないんですが、説明してもらえますか?」


 動揺しすぎて敬語になってしまった俺に、娘が滔々と語る。

 まあ要約すると、フェミニズムとかマイノリティの権利とか、そういう話だった。女性の胸を恥ずかしいものとして隠すのは女性差別だ、的な。そういえばニュースで欧米ではそういう政治運動があるみたいな話をしていたなーと、妙に冷静になった思考の一部分が思い出している。大部分の俺は適当な相槌を打つくらいしかできていないが。


「だから、もう服で隠すことはしない。私から変えていかなきゃ」

「いやいやいやいや」


 これはあれだ、若気の至りとか厨二病とか、そういうのの派生形だ。やってる最中は吹き上がってるけど、後から振り返ると正視できない黒歴史になるやつ。いや黒歴史というか、誰かに晒されて永遠にデジタルタトゥーとして残るやつだ。


「あのな、落ち着け?おかしいって」

「おかしいのは女性を性的に搾取する世の中でしょ?誰かが変えなきゃいけないんだよ」

「いやあのな?」


 親の欲目かもしれないが、うちの娘はかわいい方だと思う。中学生になって体付きも変わってきた。それが上はすっぽんぽんで、下だけ制服を着ておっぱい丸出しで学校に行く?言っちゃ何だが、何の企画物AVだよ。


「どう考えてもまずいだろ。そんな格好で外をうろつくなんて…」

「それを性的だと思う人が悪いんでしょ?そうやって女性を抑圧して弱い立場に追い込んできた歴史が」

「ちょっと待て論点はそこじゃなくてだな」


 何をどう言えば伝わるんだろう。夜勤で家にいない妻が恨めしい。一人でこの思春期モンスターと戦わなきゃいけないのか?


「とにかく、一度きちんと話し合おう?お母さんも交えて、きちんと」

「いいよもう。決めたから」

「いや待って…」


 呼び止めるのも聞かず、娘は自分の部屋に引っ込んでしまった。カチッと鍵を掛ける音が聞こえる。残された俺は、呆然とリビングの椅子に座っていた。

 テレビがバラエティからニュースに切り替わる。遠い外国で何人死んだ、みたいな話と同じくらい、今目の前で交わされた会話が自分とは関係のない世界のことのように思えた。




 明日になれば全て夢だった、ということにならんかなという俺の儚い思いは、実際におっぱい丸出しの娘の登場で粉々に打ち砕かれた。

 そこから時系列が曖昧だ。叫び、怒鳴り、泣き喚き、物が飛び交い。ギャン泣きする娘を前に、それでも硬いものを投げずにクッションとかにしてるんだなと妙に感心したのだけは鮮明に覚えている。精神的にも肉体的にもボロボロになりながら、なんとか娘の体にブラウスを被せて、グチャドロの顔をタオルで拭って送り出したのが9時過ぎ。茫然自失の中、会社に遅刻の連絡を入れた自分を褒めてあげたい。

 荒れたリビングを片付ける気にもなれず、妻に「ごめん」とだけメッセージを送っておく。夜勤明けでこれだけ見たらどうだろうとも思ったが、昨日から今までの俺の心労に比べればどうということはないだろう。少しはこの負担をおすそ分けしたい。

 いつもより空いた電車に乗り、オフィスに入る。遅刻の謝罪をしつつ自席に座ると、心の底から安堵した。何気ない日常の有り難さが身に染み入る。スマホがずっと震えているが、たぶん妻からなので気付かないふりをした。




「あの、永田さん。お電話です、その…警察から」


 11時半を回った頃に、新人の女の子が緊張した声で俺に告げてきた。ざわついていたオフィスが、一瞬で静寂に包まれる。


「…回して」


 視線こそ向けてこないが、皆の耳が俺に集中しているのが分かる。メモ用紙とペンを用意し、ふーっと長く息を吐く。

 何気ない日常というのは、ふとした拍子に二度と手に入らなくなるものなんだな。

 どこかのヒーローのようなことを思いながら、俺は内線の受話器を取り上げた。


 少年課のカワカミを名乗る女性が、電話の主だった。本人確認じみたやりとりの後に、「実は」と深刻そうな声色で本題が始まる。


「アイラさん、お嬢さんをこちらで保護していまして」

「はい?」


 声が裏返る。夜の衝撃発言、朝の乱闘に続いて、今度は昼の警察沙汰。イベントが重なりすぎじゃあないか。


「その、通報がありまして。上半身裸の少女が、泣きながら歩いている、と」

「ああ…」

「それで警らの方でお嬢さんを見つけまして、一応保護というかですね、事情を聞いたんですが。どうにも要領を得なくて」

「ああ…」


 言われている意味は理解できるが、理性が理解を拒絶している。

 どうやら娘は、家を出た後すぐにブラウスを脱ぎ捨てたらしい。家を出る時には既にぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔をしていたし、そんな子供が道を歩いていたらそりゃ通報もされるだろう。俺でもそうする。普通に考えれば性犯罪の被害者だ。

 出動した警察官も、最初は事件に巻き込まれて混乱しているのかと思ったのだろう。ジャケットを肩から掛けようとしても払いのけ、私は悪いことをしてないと泣く娘をパトカーに押し込み。署内の取調室で少年課の女性職員が色々話を聞いてみれば、口にするのは女性の権利。


「保護者の方に連絡をと思いまして、お嬢さんのスマホで連絡先を確認させていただいたのですが。ご両親とも携帯には繋がりませんでしたので、お勤め先に連絡させていただきました」


 尻ポケットからスマホを出すと、妻からのメッセージ以外に見知らぬ電話番号の着信が数件あった。末尾が110。警察署か。妻のスマホにも連絡は行っているはずだが…あいつは一度寝たら起きないタイプだ。たぶん荒れたリビングを見て、そのままふて寝したんだろう。


「申し訳ありません。何だか昨日からその、情緒不安定でして。ご迷惑をおかけしました」

「いえいえ。それでその、どうしましょう?警察としてはですね、事件性が無ければ特に手の打ちようがなくてですね。一応説諭と言って、こういうことはしちゃダメだよ、と言うことはできるんですが」

「重ね重ね、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「かなり不安定な様子ですし、ご家族に迎えに来ていただいた方が良いと思うのですが。署まで来ていただくことはできますか?」

「あー…少々お時間いただくことになるかとは思いますが」

「では、目処がつきましたらご連絡ください。電話番号をお伝えしますね」


 警察署の電話番号と少年課の内線番号をメモに残しながら、なんだかふわふわする頭で今後の段取りを考える。

 まず有休を申請して、午後休にして。今日の業務引継ぎはすぐ終わるから、昼休みまでには出られるか。警察署は免許の更新で行ったことがあるし、なんとなく場所は分かる。午後イチくらいには警察署に着いて…着いて?

 それから、どうする?

 受話器を置いて、メモを前に動きが止まる。

 何かしら事務手続きみたいなものがあって、娘と会って。それから。それから…。

 こんなことはもうするなと、迷惑をかけるなと言えばいいんだろうか。泣き喚き、物をぶん投げていた娘に、そんな言葉が通じるのか。

 急に娘が異質な存在に思えて、ぞわっと両腕が粟立った。昨日までだって、年頃の少女を理解できていたなんて思っていない。だが既にそういう話ではなく、完全に別の文脈で動く異世界人を前にしたような感覚に、理解したいという思いよりも拒絶感が勝っていく。


 かわいい娘、だった。間違いなく。

 これから顔を合わせて、そう思えるだろうか。

 足元が覚束ない。波打ち際で引き潮に砂が浚われていく時の、心細いような感じ。当たり前だと思っていた世界が終わったんだと、俺の中を静かな諦めが満たしていった。

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