どうされましたか?

常世田健人

どうされましたか?

私が感じる日曜日午後三時の駅構内の様子。


「どうされましたか?」

 その声を聞いた瞬間、感動がこの身を包みました。

 そこそこの人数が一階に降りようとしている中で――ベビーカーを手にもつ女性が階段の前で立ち止まっていました。

 エスカレーターを使おうとしたところ、降りではなく昇りしかないことに気づいたのでしょう。そのまま階段の前に移行したは良いもののやはりどうにも降りられず、一瞬躊躇していた状況でした。

 その状況を見て、誰しもが『移動してエスカレーターかエレベーターを使えば良いだろう』と思い、声をかけることはありませんでした。

 私もその一人です。社会人三年目の営業として頑張ってきてようやく一泊二日で帰省ができる心の余裕を手に入れた私は、明日からまた上長からの若干のセクハラに悩まされながらも何とか頑張らなければと思っておりました。夏真っ盛りの暑さということもあり、重労働をしたくなかったということも背景にあったでしょう。それ故、ベビーカーを手に持ちながら逡巡している女性を横目に、そのまま階段を降りようとしておりました。

 階段を三段降りた際に――件の声が聞こえてきました。

 同様に階段を降りる方が私の背後に居たため、その場で立ち止まって振り返ることができなかったことが非常に残念でした。一瞬だけ視線を後ろにした時に見えたのは、おそらくスーツを着た――声質から恐らく男性が――ベビーカーの前輪あたりを持ち上げようとしている様子でした。顔どころか体型すらも確認することが出来ませんでした。

 階段を降りながら、自らを恥じていました。

自分のことしか考えられなかった――非常に情けなかったです。

あの男性は、どんな人なのでしょうか。




俺が感じる日曜日午後三時の駅構内の様子。


「どうされましたか?」

 その言葉を発するしかなかった状況に苛立ちを覚えていた。

 ――日曜日午後三時の新幹線改札構内。

 対個人の営業のため日曜日にもスーツを着て外回りをしなければいけない自分の身分というものにため息をつくしかない。元々こんな職業に就きたいと思っていなかった。新卒でどこかの会社には入らなければいけないと思い色々な会社を受けて唯一内定を得た会社だった。総合職で週休二日制と聞いていて、てっきり土日休みだと思ったのが運の尽きだった。あの時もっと深掘りしていれば、完全週休二日制ではなく週休二日制のため、土日が絶対休みではなく、ひと月の中で最終的に週休二日分の休みが取れていればオーケーという状況らしい。変形労働時間制という制度も合わせて存在しているらしいが、もうそんなことはどうでも良かった。

 とにもかくにも、営業中の俺は、階段の手前でベビーカーを手に持ちおろおろしている女性を見かけてしまった。

 普通なら素通りが正だろう。階段から離れてエレベーターやらエスカレーターやらを使って降りれば良い。誰だってそう思うしそう判断するからこそ、俺以外の誰しもが階段を降りていく。

 俺だってそうしたい。

 けれども――俺はこう思ってしまうんだ。

 ――ここで素通りしてしまうと、素通りしてしまったという事実が俺にずっと乗っかってしまう。

 再度言おう、俺は今、仕事中だ。この後新規契約獲得のために何十件とインターホンを鳴らさなければいけない。新規契約を獲得するまで、この『作業』は続く。だからこそ、一分一秒でも惜しい状況だ。

 それでも俺は――声をかけてしまう。

 自分が良い人間という訳ではない。

 その女性のためという訳ではない。

 俺自身が納得するために、声をかけざるを得ない。

「ありがとうございます」

 ベビーカーの前輪を持ち、階段を降り切った後に女性から言われた。

「お安い御用です」

 そう言って女性を見送った後、大きくため息を吐いた。

 夏故に、汗が止まらない。

 こんなみすぼらしい状況でも、仕事はしなければならない。

 嫌々ながらも午後七時までインターホンを押しまくったが、新規契約は取れなかった。


 *


私が感じる金曜日午後三時の十字路の様子。


「どうされましたか?」

 その一言を聞いた時、私は営業車に乗っていました。

 赤信号が青信号に切り替わり、ハンドルを右旋回していた時に――開けていた左の窓から聞こえてきた一言でした。

 車を右折中故、視線を完全に向けることはできなかったのですが――サイドミラー経由でその男性を視認することが一瞬だけ出来ました。大柄の男性で、その日もスーツを着ております。優しげな表情ではありますが大柄なため威圧感があります。日曜日にもスーツを着ていたため、BtoCの営業担当の方かもしれませんが、正直なところ訪問販売は向いていなさそうだなという感じの印象でした。

 スーツを着ている男性は――とても大きな荷物を置いている男性に声をかけていました。

 青信号になったにも関わらず動き出さなかった男性を心配に思ったのでしょう。大きな荷物は段ボールに包まれており、一å人の男性が両腕で抱えれば何とか持ち運べそうな大きさでしたが――力尽きて床に置いて休憩をしていた瞬間だったのだと思われます。

 その瞬間に――その刹那に――スーツを着ている男性は声をかけられたのです。

 聖人という他ありません。

 スーツを着られているということはおそらく業務時間内でしょう。信号を渡った先には住宅街が広がっているため、飛び込み営業をする方なのかもしれません。飛び込み営業。私には難しい仕事です。対個人の新規営業なんて、神経をすり減らす上に、最上級にコミュニケーション能力をもつ逸材でしか成立しない業務です。だからと言って私が対法人ルート営業をうまくいっているかと聞かれたら別にそうではないですが――相反するように――だからと言って対個人新規営業ができるかと聞かれたら間違いなくノーです。

 そんな気苦労をされている中でも、他人に気遣いが出来る。

 尊敬せざるを得ません。

 あの方は、どんな方なのでしょうか。

「私も頑張らないと」

 車のアクセルを踏みながら――あの方にもう一度会いたいと思った次第です。


 


俺が感じる金曜日午後三時の十字路の様子。


「どうされましたか?」

 言わなくても良かった。

今日は、本当に、言わなくても良かった。

大きな荷物を抱えて歩いていた男性だ。十字路で赤信号になる前までは歩いていたんだ。若干しんどそうにしながらも歩いていた男性が、十字路で荷物をおろし、一呼吸置いた後持ち運ぼうとした瞬間――辛そうな表情を見てしまった。

しかも、すぐには持とうとしなかったんだ。

『もう一度これを持ち運ばなければならないのか』というしんどさが目に見えてしまったんだ。

 だったら見て見ぬ振りは出来なかった。

 我ながら損な性格をしていると思う。

 俺は今営業中なんだ。新卒入社後三年経つのに、月間営業目標数値を超えたことは片手で数えられる程度しかない。そんな給料泥棒が、こんなことをしている時間は無いんだ。

 それでも、見過ごすことが出来ない。

 どうせ後悔することが目に見えているからだ。

 いや、待てよ――声をかけても後悔しているよな。

 つまり俺は、こういう状況に陥った時に、どう転んでも後悔するようにしか出来ていないんだ。

 だったら、どちらを選ぶか――

 まだマシな方を選ぶとしたら――

 声をかける方を、選ぶ。

 完全にマイナスの後悔よりかは、若干でも良いから人のためにプラスになっている後悔をしたほうが良いだろう。

 ――こうして俺は、後悔をしながら善行とやらを重ねていく。

「ありがとうございました」

 とある住居まで荷物を持ち運んだ後――その男性はこう言った。

「ちなみに、貴方は営業を頑張っている方ですか? 助けていただいたので、話だけになるかもしれないのですがお伺いしたいです」

「……こちらこそ、ありがとうございます!」

 こういう時に自分がどんな営業担当で、どんな商品を売っているのかを言わない方が美談になるだろう。

 でも俺は、別に自分のために「どうされましたか?」と声をかけている訳ではない。

 だからこそ、こう言った。

「生命保険の営業です」

 そうして、何とか一件獲得できた。

 その一件を、心の底から喜ぶことは出来無かった。


 *


私が感じる土曜日午後十一時のラーメン屋前の様子。


 その日、私はラーメン屋の行列に並ぼうとした際に――件の男性を見つけました。

 その男性はラーメン屋の行列の中盤に並んでいました。このラーメン屋の行列は非常に長いため、おそらく二十分は既に待っているのだと思います。相も変わらずスーツを着ておりました。土曜日にも――というよりかは土曜日だからこそ――業務時間内なのでしょう。それでもラーメンの行列に並んでいる様子が何とも微笑ましかったです。いつも大変そうだなとは思っておりましたが、ラーメン屋の行列に並ばれる心の猶予はあってホッとした自分が居ました。

 ここまで来て、ようやく私は気づきました。

 件の男性には、何とか幸せになって欲しいと思っていることに。

 私如きが何を言うかと自分でも思いますが――件の男性が誰かのためになる善行を積み上げているならば、その分、件の男性が幸せにならなければおかしいでしょう。

 それこそ、営業方法で何か悩んでいることがあるならば相談に乗ってあげたいです。一応何とか目標達成はしていますし、新規営業も少しは触れておりますので、何かお手伝いができるかもしれません。

 ――二度あることは三度あるとも言いますが、三度目の正直とも言います。

 相反する二つの諺が突きつける事実は――四度目は無いかもねという事です。

 ここを逃すと、次回、いつ邂逅出来るか皆目検討が尽きません。

 行列を抜けて件の男性に声をかけようとしたその瞬間――件の男性は――ラーメン屋の横を見ておりました。

 そこにあったのは――


 

 

俺が感じる土曜日午後十一時のラーメン屋前の様子。


 仕事辞めよう。

 そう思って、ラーメン屋の行列に並び始めた。先日の新規契約一件をもってしても、目標達成には到底近づかない。この仕事、向いてなさすぎる。もう辞めた方が――会社のためになる――そう思った。

 思ってしまった。

「ハハッ」

 笑ってしまった。

 この期に及んでも俺は、自分がそうしたいからではなく、外部のためにこうした方が良いと思っているらしい。

 何が『会社のため』だ。

 『自分のため』でしか無いだろう。

 俺は、この仕事が、しんどいんだ。

「なんでこんな会社を受けたんだっけな……」

 思い返してみると――そうだ、そういえば――婆ちゃんが理由だ。

 婆ちゃんは、他界する間際、こう言ったんだ。

――「ろくなお金残せなくてごめんね」

これが最期のセリフだったかもしれない。父も母も俺も見守る中で、今際の際でこう言ったんだ。

自分が一番辛いはずなのに、まだまだ生きていく子孫のことを気に掛ける様子に、思わず涙を流してしまったんだ。

だから、生命保険の営業という仕事を選んだんだった。

死ぬ間際に子孫のことなんて考えなくて良いように、できる限り多くの人に生命保険に入ってもらうことが良いのでは――

そんな青い考えでこの会社に入ったんだ。

「馬鹿だなあ」

飛び込み営業なんて、迷惑でしかない。

多くの人は、死ぬ間際ではなく今を考えて生きているから――営業をされても嫌な顔をされるだけなのに――

誰かのために少しでもなるのなら、この仕事を続けたいと思っていた。

蓋を開けてみればどうだ。

誰かのためになるよりも先に、多くの人の迷惑につなげてしまうかもしれない。

「もう、どうでも良い……」

 辞表を突きつけるなら、最後くらい、営業時間中にラーメン屋の行列に並ぶくらい良いだろう。

 そう思って二十分程度並び、行列の中盤にようやく差し掛かった頃――ふと、目についてしまった。

 ラーメン屋の扉が開いたと思ったら、おしぼりが外に出てしまった。

 風が強いせいで転がっていってしまう。

 ――行列から抜ければ、そのおしぼりを取りに行ける。

 ――行列から抜ければ、もしかしたら並び直しになるかもしれない。

 俺は、ずっと、こんな人生を紡ぐしか無いのだろうか。

 泣きそうになりながら行列から抜けようとしたその瞬間に――驚くべき光景を見た。

 行列の後方から女性が飛び出していき、転がり続けるおしぼりをキャッチした。

 そのおしぼりをポケットにしまった。

 その女性は、輝かしいばかりの笑顔だった。

「……凄い」

 俺だったら、こんな笑顔、見せられないと思う。

 嫌々描くしかない笑顔に、あの女性のような魅力は無いだろう。

 俺なんかよりも素晴らしい人が、この世には居る。

 それがわかっただけでも嬉しかったのか、何なのか――

 水滴が、両の目から流れ始めた――

 何で、こんな、何で――

 わからない。

 自分が今、どういう状態かわからない。

 そんな俺に、彼女は何故か近づいてきて――心配そうな表情でこう言った。

 その言葉は何の気無しに俺が言ってきた言葉で――

 言われた瞬間に、嬉しさしか込み上げてこなかった――

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