第5話 坂

 ようやく坂を登り切ったと思ったら、足元には下り坂が広がっていた。まるでスキー板に乗って雪山から降りて行くような恐怖を感じる。道幅の狭い道路で、両側はブロック塀に囲まれた民家が連なっている。歩道はない。民家の庭ではヒヨドリが鳴いて、蝶が飛んでる。桜を植えている家がある。庭に桜があるなんて風流だなと感心する。向こうから車が来た。外車だ。ハンドルが左にあるから、すぐわかった。ぎりぎりすれ違えるくらいしか幅がない。


 妻は肩で息をして、しばらく休んでいた。これからの下り坂はブレーキを効かせながら腕力で車椅子を引っ張らなくてはいけない。登りも下りもどっちもきついだろう。


 何でこんなエリアに住んだのか。でも、選んだのは妻だ。最近は憎らしく感じているから、同情はしない。


 こっちに向かって来る車はシルバーのベンツ。ハンドルを握っているのは男性だ。俺もベンツに乗れるほど稼いでいたのに。あっちは勝ち組で、俺は完全な負け組だ。


 もう一回人生をやり直せるなら…ベンツなんてどうでもいい。ただ言えるのは一つだけ。性悪な女たちのことなんてさっぱりと諦めて、性格のいい奥さんと結婚したかった。静流は恐ろしい女だ。


 まだ一年未満だが、結婚して後悔している。


 静流が車椅子を押し、俺は前に進み始めた。

 ブレーキを引いていない!おかしい。ふと、体がふんわりと浮かんだ。こいつ手を離したんだ!


 くそ!俺を殺すつもりだったんだな!

 死にたくない!

 まだ、やり残したことがある。


 俺の金は静流には渡さない。

 絶対にだ!


 俺は咄嗟に車椅子から飛び降りた。まるでB級アクション映画のヒーローだ。自分自身が二十代の白人イケメンに脳内変換されている。俺は立ち上がって前に飛び込む形になったから、コンクリートに顔を擦ってしまった。さらに、腹や膝を強く打ってしまい、苦痛に悲鳴をあげる。痛てっ!


 待って!

 俺は車いすを目で追った。

 ぶつかる!!!


 俺は坂道で腹ばいになったまま倒れていたが、主を失った車椅子は重力に従い、ゆるゆると坂を下っていく。それ自体にも二十キロくらいの重さがあるからだ。やばい!車に衝突したら修理代が馬鹿にならないじゃないか!すると、ベンツが止まったて、慌てて人が降りて来た。スーツ姿の金持ちっぽい人だった。車椅子を止めようとしているんだ。愛車に傷がつかないように。かっこいいなぁ。俺はほれぼれした。俺とその人には決定的な違いがある。スピーディーに動けることと、判断力だ。だから俺は貧乏なんだと納得した。


 しかし、止まっていた車が後ろに下がり始めた。サイドブレーキで止まったんだ。何てことを!俺は慌てて手を前に差し出す。


「危ない!ぶつかる!」


 俺は叫んだ。

 俺と同世代のその立派な人は、笑顔で車椅子を止めてくれた。加山雄三みたいな日焼けしたイケメンだ。ゴルフ焼けだろうか。


「大丈夫ですか?」


 しかし、車が下って行く方向には、保育園児のお散歩の列が見えていた。みなピンクや黄色、緑の色とりどりの体育帽を被っている。小さい子をカートみたいなのに乗せて、ちょっと大きな子たちは徒歩で歩くという平日の午前中によく見る光景だ。園庭のない保育園はそうやって近くの公園なんかに行くもんだ。


 俺は叫んだ。気が狂ったように、何度も何度も叫んだ。

「逃げろ!!!危ない!!!」

 散り散りになった子どもたちの真ん中にベンツが突っ込んで行った。オーナーは叫び声をあげていた。「うぉぉぉぉ・・・・!!!」というような言葉にならない悲鳴だった。その瞬間、俺は人がすべてを失うところを見た。地位、名誉、家族、家、財産。彼には罪悪感と汚名が残った。


 泣き叫ぶ子どもたち。

 崩れ落ちるオーナー。


 俺は思った。

 あの人の人生じゃなくてよかった!

 俺の車いすなんか、気にしなきゃいいのに。

 車なんかぶつけてもいいじゃないか。

 所詮、車は車だ。


 十人もの死傷者を出して事故は大きく報道された。

 

 静流はそれっきりいなくなった。警察によると俺の預金はほぼ0円になっていた。それに、後からわかったのは、俺は結婚していなかったと言うことだ。婚姻届が提出されていなかったからだ。俺は人気の都営から、わざわざ不便で古くて人気のない単身者向けの都営住宅に引越していたのだ。


 俺はその後、もう一回脳梗塞をやって施設に入っている。

 今は歩くこともできなくなった。


 静流は今も行方不明のままである。



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