綱渡りの恋人日記 ~間違えてはいけない彼(彼女)との歩み方~

かみさん

綱渡りの恋人日記 ~間違えてはいけない彼(彼女)との歩み方~




 今日は初デートの日。


 こちらから告白して。

 その後、すぐに逃げてしまって。

 少し後に返事をもらって。


 幸せ——黒髪の少女、華怜かれんの今の心境はまさにこれだろう。

 前日に美容院へ行き、その日に一時間以上悩んで購入した衣装を身にまとい、メイクにも普段の倍以上の時間をかけた。

 その姿は華怜にとって最高の出来栄えで、これを見れば彼も惚れ直すはずで。


(まだかな……?)


 早く見てもらいたくてそわそわと体を揺らす。


 時計を見れば、待ち合わせまであと五分。さっき見たときは六分だった。

 すでに一時間以上待っている華怜ではあるが、この一分が一時間より長いと感じてしまう。


(トイレにもさっき行っておいたし、メイクも崩れてないか確認したし、服のタグもちゃんと外したって確認したし……)


 一つ、二つと指を折り、これまでの準備を反芻はんすう


 初めての彼氏であり、初めてのデートであり、初めての異性とのお出かけだ。


 何度も何度も確認した。

 それでも全く安心できなくて。


「もう一度行ってこようかな?」


「え? どこに?」


「えっ?」


 独り言のはずの言葉は誰かに拾われ、その聞き覚えのない声に華怜は一瞬意識を奪われた。

 それでもすぐに我に返り、俯かせていた顔を上げて声の方向へ。

 そこには——


「やあ 待った?」


「……?」


 見覚えのない女の子が立っていた。

 茶色のショートカットに季節に合ったラフなシャツとショートパンツ。

 普段から大人しい華怜には着れそうにない明るい格好。そんな恰好をした彼女は明るい茶色の髪をなびかせて笑みを浮かべている。


「え、誰ですか……?」


 後ずさりして身構える華怜。

 その口から出た言葉は、同じ状況なら誰でも同じことを言うであろう言葉。

 しかし、そんな言葉を向けられても、目の前の女の子の笑みは崩れることはない。

 それどころか、彼女は自然な動作で華怜の手を握って。


「んー、その辺りも説明したいからさ。とりあえず喫茶店でも入らない?」


「え? きゃっ!?」


 不意に引かれる手。

 その意外な力強さに驚きながらも華怜は抵抗する。

 しかし、普段から運動をしない華怜の細腕では敵うわけもなく、ズルズルと街の中へ引きずられていった。



   *   *   *



「——というわけなんだよ」


 場所は喫茶店。

 引きずられるように連れていかれた華怜は、小さな喫茶店のカウンターに並んで座り、隣から聞こえてくる声に耳を傾けていた。


「…………」


 言葉が出ない。


 話の内容は簡単にまとめるとこうだ。


 ① 彼女は華怜の彼氏——瑞貴みずきで間違いない。

 ② ある切っ掛けがあると、翌日に女の子になる。

 ③ 何でなってしまうようになったかは分からない。

 ④ 女の子の時の名前は瑞姫みずき


「…………」


 やっぱり言葉が出ない。


 だってそうだろう。華怜は初めての彼氏とのデートを楽しみにしていたのだ。

 それなのに、当の彼氏は瑞姫という女の子になっていた。


 ……意味が分からない。


 華怜の頭の中はその言葉で埋め尽くされている。

 しかし、そんな華怜の心の内は瑞姫には分からないらしい。


「ということでよろしくね♪」


「よろしくね♪……じゃないですよぉ……」


 頬杖をつきながらニッコリと笑顔を見せる瑞姫。

 そんな彼女の態度に耐え切れず、華怜はテーブルに力なくに突っ伏した。


 ……なんでこんな重要なことを最初に言ってくれないのか?


 前日の内に頑張った準備も。

 朝の緊張も。

 そわそわしながら待った一時間も。


 ……分かっていたら。

 ……知っていたら。


 ……こんなことになってはいないだろう。


 華怜は顔だけを横に向け、瑞姫の表情を伺う。

 男の子の時の顔つきを完全に崩すことはなく、どこか鋭さを感じる瞳は少しばかりきつい印象を覚える。

 しかし彼女は今、そんな瞳をニコニコと楽しそうに緩ませて華怜を見下ろしていた。


「まあまあ、そんな不貞腐れないでよ♪」


「誰のせいだと思ってるんですかぁ……」


 今までの頑張りが無駄になったような気がして、華怜の声はすでに涙声だ。


「本当に楽しみにしてたんです……二年間、ずっと好きだったから……ようやく勇気を出して告白したんです……なのに……なのに……」


 視界が揺れる。

 瑞姫の輪郭が揺らぎ、ぼやけ始め、瞳に溜まり始めた雫が頬を伝おうとその大きさを増していく。

 そして、目を閉じた瞬間。


「ごめんね」


 短い言葉と共に、華怜の目元に暖かさが触れた。

 その感触に目を開けば、瑞姫の指が決壊しそうになっている華怜の涙を受け止めている。


「なんで……?」


 目を瞬かせる華怜。

 その視界はいまだに揺らいでいるものの、溢れ出そうとしていた涙は驚きからか止まっていた。


「突然でわけわからないよね? 気持ちは分かるよ……私も初めはそうだったから」


 優し気な視線を華怜に向け、ゆっくりと、ゆっくりと瑞姫は口を動かしていく。


「だから話そう? 自分の気持ちから想いまで全部……まだ付き合い始めたばっかだし、気の合わないところもあると思うし……でも、好きなところがあったから付き合ったんだよ?」


 普段の瑞貴からは考えられないような優しい瞳。


 ……彼はいつもかっこよくて。

 ……彼は自信にあふれていて。

 ……彼はいつも誰かの前に立っていて。


 目を離すことが出来ない。

 視線は交差し、お互いがお互いだけを見つめている。


 ……どのくらい時間が経ったのか?


 華怜自身もう分からなくなっていた。

 それでも、この時間がなぜか心地よく感じてしまっていて、華怜の心の内は複雑な想いが渦巻いている。

 そんな中、華怜を見つめていた瑞姫の顔つきがいたずらっぽい笑みに変わった。


「……でも、今はまずやるべきことがあるよね?」


「……?」


 首をかしげる華怜。


 瑞姫の言う「やるべきこと」が華怜には分からない。

 唸り声をだして悩んでみるけれど、やっぱり瑞姫の言った「やるべきこと」の答えが浮かんでこない。


「分からないの?」


「はい」


 不思議そうに見つめてくる瑞姫に素直に頷く。

 すると、彼女はやれやれといった風に肩をすくませて。


「いやだって、今日はせっかく二人でのお出かけだよ? だったら楽しまないと!」


「……は?」


「いや、だからぁ! これからお出かけしようよ! 遊ぶの! 二人で!」


 少し興奮気味に声を荒げる瑞姫。

 その姿が新鮮で、華怜はパチパチと瞬きを繰り返す。

 しかし、そんな華怜の態度が気に入らなかったのか、瑞姫は眉を吊り上げた。


「なに呆けてるのさ! ほら行くよ! ここでの説明に時間かけちゃったから予定が詰まってるの? これでも一生懸命考えてきたんだから!」


 そう言って彼女は席を立つ。

 続いて、その細く綺麗な手を華怜に差し伸べた。


 華怜の目の前で止まる手のひら。

 その手は若干震えていて、華怜を必死に元気づけようとしている彼女の心が表れているようだ。


「……ふふっ」


 思わずこぼれる笑み。


 ……そんな自分の声に少し驚いて。

 ……それでも何故かそれがうれしくて。


 華怜は笑みを深めると、差し伸べられているその手を取った。



   *   *   *



「そこだぁっ!!!」


 猛スピードに迫る円盤パック

 ゴールに向かって一直線で進む円盤パックをどうにか止めようと華怜は手を動かす。しかし、その努力も空しく円盤パックはゴールに吸い込まれて。


「あっ……」


 カコンという音と共に、華怜は茫然と声を漏らした。


 喫茶店から二人で飛び出して。

 最初は遊園地。

 次はお昼を食べてから水族館。

 その次の映画館はチケットが取れなくて断念。


 そして華怜たちが今いるのは、瑞姫の家の近くにあるゲームセンターだ。


「やった!」


 年甲斐もなくはしゃぐ瑞姫を暖かい眼差しで見届けて、華怜はフゥと息を吐き出す。


(少し疲れたな……)


 喫茶店から出た後の動きは想像以上にハードだった。

 遊園地ではお互い体力が残っていたからか、休む暇なく色々なアトラクションに乗ってしまったし、はしゃぐ瑞姫の姿につられて華怜も思いっきり楽しんでしまった。


 それでも瑞姫の予定は押していたらしく、すぐに彼女が予約を取っていたレストランへ。

 そこで食べたパスタは美味しかったし、少し交換してみたりして話題も弾んだ。


 水族館では落ち着いた雰囲気の水の回廊を二人で巡り、魚たちが起こす煌めきに声を弾ませ、イルカショーの迫力と可愛さに二人で興奮した。

 ぬいぐるみなんかも買ってもらったりして、華怜としてもとても嬉しいひと時でもだった。。


 しかし、ここまで遊び倒せば疲れも出てくるというもの。

 もともと華怜は大人しく、外で遊ぶタイプでもなかったため体力はそんなに多くない。それでも、瑞姫に楽しんでもらいたいという一心で彼女のペースに合わせたのだ。

 とはいえ、別に華怜も無理をして合わせていたわけではない。


(でも……楽しいな)


 楽しかったのは確かなのだ。

 一緒に映画を見れなかったのは残念ではあるけれど、休憩しようと瑞姫の家に向かう途中、ゲームセンターを見かけた。

 気まぐれで寄った所ではあるけれど、こんなにもはしゃぐ瑞姫を見ることが出来て華怜もその表情をほころばせてしまう。


「——次は何する?」


 年甲斐もなくはしゃぎ、楽し気に頬を緩ませる瑞姫。

 そんな彼女に微笑みで返し、華怜は少しばかり考える。


 時刻は夕方。

 ずっと二人で遊び続けられるわけではなく、ずっとあやふやに出来るものでもない。


 ……このまま楽しんでしまうのもいいかもしれない。


 脳裏に浮かんでくる言葉を、頭を振ることで追い出して華怜は考えを巡らせる。


「どうしたの?」


 そんな華怜の様子に疑問を持ったのか、瑞姫が不思議そうにしながら華怜の元へ。


 ……言うのが怖い。

 ……でも言わないと。


 恐怖と義務のぶつかり合い。

 いや、恐怖と願いといってもいいだろう。


 ……二人で歩んでいくにはそれが必要で。

 ……でも、それはとても怖いもので。


 すでに瑞姫は目の前だ。

 何か言わないといけないのに、のどが震えて言葉を紡ぐことが出来ない。


 顔は自然と下を向き、表情を見せたくないと影を落とす。

 負けそうになる意志。

 しかし、もう一度瑞姫の表情を見た時、華怜の脳裏にある光景が浮かび上がる。


 ——それは、喫茶店での瑞姫の姿。


(もしかして、こんな気持ちだったのかな?)


 ……失望されるかもしれないという恐怖。

 ……否定されるかもしれないという恐怖。


 初めは怖いのかな? というあやふやなものだった。

 でも、今自分に降りかかっている恐怖と。それを同じものを乗り越えて差し出された手だと気づいて。


(……そうだよね)


 いまだに怖い。それでも——


「そろそろ行きませんか?」


 胸の中にある微かだけど確かにある勇気を奮い立たせて——


「お話ししましょう……気持ちと想いを。いっぱい話しましょう……二人で」

 華怜は瑞姫に手を差し出した。


「…………」


 真っ直ぐに伸ばした手。

 瑞姫を誘う手であり、瑞姫の覚悟を問うための手。

 その手を前に、彼女は表情を抜け落とし、瞳は不安げに揺らぐ。


 彼女はピクリと右手を動かす。しかし、すぐにその手を降ろして。


「…………」


 震える右手を前に、華怜は何も言わずに待ち続ける。


 ……怖いのも分かる。

 ……不安なのも分かる。


 ——それでも、二人で歩むには大切なことだから。


 どれだけ待っただろう?


 騒がしいゲームセンターの中、無言で向かい合う二人。

 周りの人からの視線は完全に異質なものを見るそれだ。


 でも……それでも華怜は信じて待つ。

 初めに差し伸べたのは彼女。それならきっと大丈夫。

 揺れそうな心を奮い立たせ、華怜は伸ばし続ける手の疲労を無視して耐える。


 だが、彼女の右手は動かない。

 そんな彼女の姿に、不安げに揺れる瞳に、華怜の心に影が差す。


(……ダメなのかな?)


 諦めが優勢に変わり、疲労が優勢に変わり、華怜の手から少しずつ抜けていく。

 重力に負け、その手が下がろうとした。次の瞬間——


「……わかった」


 ポツリと。

 震える声の呟きと共に、華怜の手を何かが暖かく包み込む。


 ……それは、瑞姫の手で。

 ……それは、瑞姫の心で。


 下げられそうになった華怜の右手を、瑞姫の両手が包み込んで支えていた。


「…………ごめん、遅くなって……」


「…………ううん、大丈夫……」


 ……震える声はお互いで。

 ……震える手もお互いで。


 重なる視線はお互い不安げに揺れていた。


 ——それでも、不安な心をお互いに支え合っている。


 そんな気がして、華怜のその口元が笑みに変わる。


「……っ!?」


 驚いたように目を見開く瑞姫。

 彼女の目は右へ、左へと忙しなく移動し、口元はぎゅっと結ばれる。

 

 ……一秒待って。

 ……十秒待って。


 その視線は再び重なり合い、その口元もすぐに笑みの形に変わった。



   *   *   *



 ゲームセンターを出た華怜たちは瑞姫の家へ。

 そんな彼女の家。そのベットの上に二人で肩を並べて。


「——原因は分からない。いつの間にかこうなってたから……」


「うん」


「でも、変わる原因はなんとなく分かる」


「そうなんですか?」


 ポツポツと言葉を重ねていく瑞姫に、華怜は彼女と顔を向かい合わせながら問いかける。

 すると、彼女はその綺麗な顔を頷かせた。


「うん……たぶん緊張かなって思ってる。だいたい緊張した日の次の日になってることが多いから……」


「そうですか……」


 それは、華怜とのデートに緊張してくれたと思っていいのだろうか?


 もしそうなら嬉しいし、違っていたら恥ずかしい。

 華怜は聞くことが出来ずに、顔を少しだけ俯かせて口元をもにょもにょと動かした。

 そんなことをして瑞姫の言葉を待っていると。

 

「本当は——」


 突然、瑞姫の声が大きくなった。

 その声に、華怜は動かしていた口を止めて彼女の方を見る。


 彼女は天井を見ていた。

 そんな彼女の姿に華怜は何も言えずにただただ口を閉ざす。

 そして数秒。瑞姫は上へ向けていた顔を華怜の方向に動かした。


「本当は……誰とも付き合うつもりはなかったんだよ? ……だってそうでしょ。緊張したりしてドキドキすると女の子になっちゃう……そんな人が普通に恋愛なんてできないでしょ?」


 自嘲のような笑み。


 ……その瞳に宿っているのは悲しみなのか? 

 ……それとも悔しさなのか?


 それは分からない。

 でも、華怜が気になったのは一つ。


「……なら、なんで私と付き合ってくれたんですか?」


 ただ、それだけだった。


 付き合うつもりがなかったなら、断ればいいだけだ。

 実際、瑞貴の時にはそうしていたのだろうし、そういう噂も聞いたことがある。


「本当は嫌だったんですか? それとも——」


「……一生懸命だったから」


「……えっ?」


 遮るように告げられた言葉を上手く咀嚼できず、華怜は言葉を漏らした。

 そんな華怜の仕草に瑞姫はフッと微笑むと、視線を前に移してから言葉の続きを紡いでいく。


「初めてだった……あんなに一生懸命で、あんなに必死で……だって、凄い震えてたでしょ? それでも告白してくれた……だから……受けた」


 頬を赤く染めながら瑞姫は嬉しそうに笑みを深める。


「華怜のおかげで今日、一緒に出掛ける勇気を持てたんだ……途中、負けそうになっちゃったけど、華怜のおかげで立ち直れたんだ。だから——」


「……っ!?」


 突然暗くなった視界。

 その視界の変化に驚くと同時に、華怜の唇に何かが触れた。


 それは柔らかくて、どこか熱くて、でもなんでか幸せを感じて——


「これはお礼……でも、これじゃあ明日も女の子かな?」


 茫然とする華怜の置いてけぼりにして、瑞姫はいたずらっぽく笑う。

 

 ……その顔はすごく真っ赤に染まっていて。

 ……でも、とても幸せそうで。


「ひゃあっ!?」


 何が起きたか気が付いた華怜は驚きのあまり後退り。

 しかし、ベットの上に並んで座っていたせいで離れたとしても数センチだ。


 顔を背け、華怜はドキドキをうるさい心臓の音を落ち着かせようと、胸に手を当てて呼吸を整える。


(落ち着いて! 落ち着いて……!)


 何度も何度も念じる。

 そうして、ようやく心臓の鼓動が落ち着いてきた時、ふと肩に重みが加わった。


「少しだけ……こうしててもいい?」


 瑞姫の少し上ずった声音。

 その声に答えたくても顔が見れずに、華怜は頷きだけで瑞姫に答える。


(あったかい……)


 なんだか頭の中がふわふわと浮かんでいるようで思考がままならない。

 それでも、華怜はこの恥ずかしさをどうにかしたくて、出来うる限りで頭を働かせる。


 ……それは、今となりにいる彼?

 ……それとも、今となりにいる彼女?


 ままならない頭にため息をつきながら、今後の事に想いを馳せる。


 ……彼が男の子でいられるか。

 ……それとも女の子でいられるか。


 それは華怜しだい。


 ……彼と大人しく過ごしていけば、彼は彼のまま過ごせる。

 ……彼をドキドキさせ続ければ、彼は彼女として過ごせる。


 だから華怜しだい。


 彼から感じるのは力強さ、自信。

 それは華怜には無いもので、華怜が惹かれた部分だ。


 でも今は、それとは少し違う。

 肩に感じる柔らかさと暖かさ。それがどこか心地よくて——


(こういうのも悪くないかな?)


 ゆっくりと。

 急に襲ってきた眠気に身を任せ、華怜は笑顔で目を閉じた。





 ―――――


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