終章 SS

 今日も変わりばえのない一日が始まる。

 わたしは機械のように淡々と仕事をこなすため、職場へと向かう。

 

 高校を中退してからアルバイトを掛け持ちしてきて、三〇代半ばとなった今、やっと正社員の職に就くことができた。

 

 今の会社に入って二年になるが、どうにか仕事も様になってきた…、と思いたい。

 小売業――スーパーに務めているわけだが、職場の人間関係は悪くない。悪くないが、やはり接客では苦労する。

 有り体に言えば、変なお客さんは一定数いる。

 広告と表示が違う、お釣りの札に皺が多い、接客態度が悪いなどなど、これまでアルバイトとして勤務していた時は社員に委ねればよかったことが、自分で解決しなければならず、精神をすり減らしている。


 それでも、食うに困っていたころを思えばまだいいのかもしれない。

 特に、今は自分一人だけだから余計にだ。

 

 もう一〇年前になる。

 一六歳で産んだ息子を、に送ったのは。


 いや、取り繕うのはよそう。


 わたしは、息子を売り渡したのだ。

 たかだか数十万の値段で、だ。


 あの時は、必死に正当性を自分に言い聞かせた。


 臓器売買ではない。

 殺すのが目的ではない。

 食事は与えられる。

 

 それらの条件が、『わたしと一緒にいるよりも幸せになれる』『この子のためだ』という免罪符をより強く自分に意識させた。



 自分が甘かったのだ。

 高校生になって半年、中学時代のさして仲の良くなかった同級生に呼ばれ、一回り近く年上の男性を紹介され、肉体関係を持った。

 妊娠が発覚すると、男から見捨てられ、実家からも厳格な父から勘当された。

 高校を退学し、友人はいなくなった。

 天涯孤独の身となって、小雨の夜に公衆トイレの中で息子を産んだ。

 産声うぶごえを上げるしわくちゃの顔を見て、いっそここで殺してあげたほうがいいのではと思い、しかしそんなことを考えている自分がひどく醜悪に思えて、自己嫌悪にむせび泣いた。

 時給八〇〇円程度のアルバイトだけでは到底生活できなかったし、息子を預けるには認可外保育しかなく、選んだ場所も『訳あり』ばかりが集まるところだった。

 給料のほとんどが保育料に消えてしまい、何のために息子を預けているのかわからなくなる。結局、水商売に手を出すには時間がかからなかった。だが、あまり男性を相手に友好的に接することができず、稼ぎはマシにはなったがまだまだ足りない。そこから更に、風俗にまで手を出す。そこに至るまでに生活費のための借金までしていたため、もう家計は火の車だった。昼のアルバイト先店長の好意で廃棄品の弁当や総菜を持ち帰れていなければ、冗談ではなく飢えていた可能性もあった。

 息子が六歳になったころ、そろそろ小学校か、と思った瞬間、思考が停止する。

 当時、わたしは出生届などというものを知らなかった。今みたいにインターネットが当たり前の時代ではなかったし、そもそもそんな経済的余裕などなかった。

 だから、その時に息子がこの世に存在していることを公的に証明できていないことに震えた。幸せになってほしいと願い、男の子だから太郎かな、なんて単純な思考で名付けた息子の名前。いつも『コウちゃん』と呼んでいたこの名前は、息子の名前として認められていない。なんとかしようと思いながらも、職場には相談できず、相談できる人間関係も皆無で、仕事で役所に相談に行く余裕もなく、目前の生活に追われて結局そのままになってしまった。

 とんでもない母親だ。息子のためにすべきことができていない。経済的余裕がないとはいえ、生活保護には頼りたくなかった。幼少時から『あんなものに頼る弱者は社会に不要だ』と父に刷り込まれていたため、二の足を踏んでしまったのだ。

 その結果、全てに余裕がなくなり、ただがむしゃらに働くだけの機械になり果ててしまった。昼過ぎに起きて慌ててスーパーの遅番に入り、夜からキャバクラへ。息子とは早朝の帰宅で顔を合わせる程度となり、もらった弁当を渡してすぐに寝る。

 息子から話しかけられると、疲弊した心身に響く高音が不快になり、つい当たってしまう。後で冷静になり、自己嫌悪。涙と鼻水をだらだら垂らしながら、死にたいと呟き、こんなお母さんでごめんね、と息子を抱き寄せて謝罪する。

 こんな母親でなければ。

 こんな困窮の元に生まれてこなければ。

 この子はこんな苦労をせずに、子供らしく生きていけただろうに。


 そんな絶望の中だった。

 どう調べたのかわからないが、目の前にいかにも怪しい男が現れた。

『お子さんを私共にお譲りいただけませんか』

 そう言われ、困惑し、まず怒りが湧いた。

 だが、そんな感情は一瞬で沈降する。

『窮状は存じておりますよ。戸籍の無い、日々空腹と孤独に耐える生活は、母子共に苦しいものでしょう。本当にお子さんのことを想うならば、いかがですか?』

 それから滔滔とうとうと、男は説明する。いかに今の環境が息子に悪いか。殺すためとかではない。ただ、窮状にある子供たちを集めて施設に入れるのだと、衣食住を確保するのだと、説明された。


 結果、わたしは息子を渡すことにした。

 『幸せにするため』という免罪符いいわけを、何度も自分に言い聞かせて。

 物扱いしていることに、目を瞑って。


 引き渡し当日、わたしは息子と最後の別れのために、思い出にと近くの公園に行くことにした。幸い、前日にこっそり廃棄品のウィンナーももらえたからお弁当に追加する。

 おにぎりはふっくら握ろうとしてもボロボロと崩れてしまったので、ぎゅっと握った。

 小学校で『タコさんウィンナーだ!』と喜んでいた友人を思い出し、切れ目を入れて焼く。少し目を離した隙に焦げてしまい、しかも切れ目のせいか、形が歪になった。

 近所の公園に行くと、息子はとてもはしゃいでいた。

 本当に、こんな笑顔はいつぶりだろうかと、こんなに我慢させていたのかと、自己嫌悪する。

 固く握りすぎたおにぎりと焦げたウィンナーの弁当を食べる息子は、最初戸惑っていたようだが、すぐに笑顔を見せて頬張ってくれた。

 それが微笑ましくて、こんないい子を手放そうとしている自分は母親失格だと自責し、いやこの子の幸せのためだと迷いを振り払う。

 

 息子の引き渡しの時間。

 車内に消える息子。わたしの手には、手渡された現金入りの封筒。

 一万円札が数十枚。正確な枚数は数えていない。二、三ヶ月ゆっくり休むことができる金額だが、嬉しさは湧いてこない。湧いてくるのは罪悪感と自己嫌悪だけだ。


 人の命を何だと思っているのか。

 なぜ産んだのか。いっそあのとき堕胎だたいしておくべきだったのか。

 親失格だ。人間のクズ。

 わたしの中の誰かが、指差し非難する。

 

 気づくと、息子が乗った車が発進する。

 窓が暗くて車内の様子はわからない。

 息子はこちらを見ているのか、それとも俯いて、裏切られたと恨んでいるか。恨むならいいが、自分はいらない存在だと思い悩まないだろうか。何か声をかけるべきだったか。捨てたのではなく、幸せのために行くのだと。

 そんな詭弁きべんを吐く自分を想像し、吐き気がする。

「コウ、ちゃん……」

 重い足取りで、一歩足を踏み出す。

「コウ、ちゃん……!」

 何を思ってそんな行動を取ったのかはわからないが。

「コウちゃんっ……!!」

 ふらつく脚で、走り出す。

 何度も転びそうになりながら、必死に足を前に。前に。前に!前に!!


「こうたろう…!!」


 最後に思い切り叫んで、盛大に転ぶ。

 涙があふれてくる。

 惨めだった。

 何が正解かはわからないが、少なくともこれは正解ではない。

 

 いっそ死んでしまえと自分を呪いながら帰宅した。

 それでも翌朝には腹が減って、冷凍したご飯を温めて口にする自分の図太さに、自身への侮蔑が再燃する。

 

 結局、数年後に借金を全て返済しきり、水商売から抜け出し、昼の仕事のみでなんとか細々と暮らすことができたのは、三十路みそじになった頃だった。

 それまでも、それ以降も、息子の夢を何度も見てうなされる日々が続いた。

 どれだけ苦しんでも、毎日その夢を見るわけでもないことが、許せなかった。

 引き出しの中には、封筒に入ったままの手つかずの旧札が眠っている。

 これを使ってしまったら、本当にどん底まで落ちて二度と這い上がれないような、そんな気がしていたから。




 前から高校生の男女が歩いてくる。

 背の高い男子と、その顔を見上げて話しかける三つ編みの女子。

 息子も、恐らく生きていればあれくらいの年頃だろう。今はどうなっているかわからない。もしかしたら死んでいるかもしれない。そんなことを薄々察して、ならばなぜ息子を売り渡したんだと、またも自分の中の誰かが責める。


「必ずタコさんウィンナーが入ってるよね」


 すれ違いざま、女子生徒の言葉に足が止まる。


「—―焼け過ぎの、切れ目が雑なウィンナーと、強く握りすぎて固くなったおにぎりだったが――」


 男子生徒の言葉に、心臓が締め付けられた。

 つい先日のことのように覚えている、息子と別れたあの日の記憶。


 顔を見る。

 面影がある。でも自信がない。母親なのに、自信を持って断言できないことに、悔しさを覚える。

 ドン、と軽く女子生徒と肩がぶつかる。


「あ、すみませんっ」

「…いえ、こちらこそ」

 

 男子生徒のことばかり気にして、隣の女子生徒のことを見ていなかった。

 男子生徒と目が合う。

 向こうは何の感情も見せない一瞥だったが、こちらは思わず目を逸らして早足に歩き去る。

 何となく、息子のような気がするが、人違いなら申し訳ないし、本人だったとしてもそれはそれで申し訳なくて余計に顔を合わせることができない。

 背中に視線を感じるが、逃げるように職場へと急ぐ。

 きっとこの近くの私立高校に通っているのだろう。

 今どこに住んでいるのか。

 一緒に暮らす家族や友達はいるのだろうか。

 学校ではどんな風に生活しているのだろうか。

(やめよう…)

 そんなことを考える資格などないと思い直し、交差点を曲がり、背中に刺さる視線を物理的に遮断する。


 この再会は幸か不幸か。

 再び感情を閉ざしながら、わたしは職場へと急ぐのだった。








 


 一日の業務を終えて、一九時に終業する。

「あの、浅葱あさぎさん」

 更衣室を出たところで、店長の男性に呼び止められた。

「店長、お疲れ様です。あの、わたし、何かまたやってしまいましたか?」

「え?いやいや、浅葱さんはよくやってくれていますよ。いつも周りを気遣ってくれているので、すごく助かっています」

 爽やかな笑顔で、予想に反した誉め言葉がかけられた。

 優しいんじゃない。気遣っているんじゃない。ただ周りに嫌われるのが怖いだけなのに。

「この後、夕飯でもご一緒できないかと」

 続く店長の言葉に、わたしは疑問符を浮かべた。

「あの、面談か何かですか?」

「いえ、そうではなくて――」

「やはり、わたしが何かやってしまって、それで少し言いづらいのでどこか別の場所でとか、そういう――」

「違います、そうではなくて――」

 いろいろな可能性を口にするわたしに、店長は頭をガシガシかきながら、一度大きく息を吸う。

「浅葱さんと、純粋に食事がしたいです」

「え……?」

「浅葱さんのことをもっとよく知るために、今夜、食事をご一緒願えませんか」

 隣では、ベテランパートの女性がニヤニヤと笑っている。

「ほら、男に恥かかせんじゃないよ」

 そう言われ、背中を叩かれた。

「え、でもわたしは…」

「何か、予定がありましたか?」

 店長の表情が曇る。いきなり捨てられた子犬みたいな雰囲気を出してきた。

「いえ、別に予定とかは……」

「僕との食事、迷惑でしょうか」

「いえ、そんなことは……」

「僕に、浅葱さんの隣に立つことを、許してもらえないでしょうか」

 だんだんと、話が飛躍してきた気がする。

 まるで、告白されているようではないか。


「おお、ついに店長が告白したぞ」

「ちょっと遠回しじゃない?」

「もっとはっきり!がんばれ店長!」


 いつの間にか、従業員が集まってきた。

 これは、やはり告白なのだろうか。

 店長は確か二九歳。わたしは三四歳。店長なら、もっと若くて綺麗な人と付き合えるはずだ。

 年齢だけじゃない。

 こんな、人でなしと一緒にだなんて、店長に迷惑だろう。

 わたしには誰かと一緒にいるなんて、そんな資格はないのに。

「でも、わたしは、そんな、店長に気に入られるような人じゃ…」

「何言ってんだ」

 再度、ベテランパートさんに背中を叩かれた。

「店長どうこうじゃない。あんたはどうなんだい?」

「いえ、だからわたしにはそんな資格…」

「あんたねぇ――」

「浅葱さん!」

 しびれを切らしたベテランパートさんの声を遮って、店長がわたしの手を握った。

 とても、暖かい手だった。

「いつも何かに思い悩んでいることは知っています。だから、僕に半分背負わせてもらえませんか」

 心臓が跳ね上がっている。

 少なくとも、わたしは店長の好意をとても嬉しく思っている。

(いい気になるなよ売女バイタ

 でも、心の中で、醜悪な笑みを浮かべる誰かがわたしをさげすむ。

(これまで何人咥えこんだ?)

 心の中の、誰かがわらう。

(息子をはした金で売り飛ばした人でなしが)

 指差し、お前にそんな資格はないと、糾弾してくる。


 ふと、脳裏に今朝の光景が蘇る。

 高校生の男女の姿。

 もし、あの子が、息子が、あの男子生徒ならば。

 ああして、今も生きて、高校生として生きてくれているのならば。

 自分も、この暖かな手を握り返してもいいのだろうか。

 罪悪感――正確には、自分で自分を罰することで、自己満足を得ようとしていることなどわかっている。

 ずっと責めている言葉は自縄自縛であり、誰かが責めているわけでも、ましてや一生をかけてもどうにもならない、ただ自分が納得したいがための妄想でしかないことも。


(コウタロウ、わたしは……)


 握られた手を、弱弱しくも握り返す。

「あの、ご迷惑でなければ、その……、よろしくお願いします…」


 決意を持って、絞り出すように、わたしは返事をした。

 周囲が『わぁっ!』と湧く。

 嬉しそうな店長。周りの従業員も、皆笑っている。

 これが本当にいいことなのか、許されることなのかはわからないが。


 少なくとも、わたしの心は、誰かに必要とされていることに喜びを感じていた。

 未だに、心の中では別の自分が舌打ちして見下ろしてくるけれども。


 なんとなく、息子も手を叩いて祝福してくれているような気がして、それが妄想だとわかっていても、ついつい考えてしまう。


 なんとなく、今朝見た二人の高校生の姿を思い出し、更に妄想してしまう。

 息子の結婚式を、涙しながら祝福する自分自身の姿を。


 一筋の涙が、頬を伝って滑り落ちる。

 

 嬉しさ故か、罪悪感故か。

 どちらともつかない涙と共に、ぎこちない笑みを浮かべ、手を握りながら嬉しそうに笑う年下の男性を見上げた。

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