終章

 一〇連休が終わり、世間は再び活動を再開する。

 大型連休明けの朝は、誰も彼もが頭が働いていないようで、すれ違うサラリーマンや学生の表情は、どこか重く陰鬱そうに見えた。


「あっという間、だったかな……」


 蓮山天音はすやまあまねはバス停に降り立ち、自ずと呟いた。


 河川敷での変異体遭遇から刀弥とうやたちに怯える日々。

 母の死の目撃と、捕食者からの高校への逃避。

 刀弥の家に泊まってからの数日と、刀弥の激戦。

 MMMC地下で遭遇した、母の形をした異形。

 自分で撃った、銃の感触。


 濃密だったと思うが、振り返ってみてもまだひと月と経っていないことがあまりにも意外だった。


 あれから、刀弥はすぐに病室を出た。その驚異的な回復力で、既に傷一つなく、全力の運動が可能になるほど快復している。

 天音は刀弥のマンションから荷物を引き払い、今は隣町の親戚の家に厄介になっている。さすがにあんな惨状と記憶の爪痕を色濃く残す家には住めなかったし、急な仕事で久々に帰ってきた父親も「さすがにこれは」と家を処分することに決めた。

 母親については、熊に襲われて行方不明、としている。事実上の死亡扱いだ。

 父親は「なんてことだ」と肩を落としていたが、天音は気丈に振舞えたと思う。

 MMMCという企業や死んだカルーアに対して思うところはもちろんあるが、自分の手で一応の結末を迎えられたという自信が、無理にでも前向きに事実を捉えさせたのかもしれなかった。


 孝明館高校は、今日から通常授業が開始となる。

 校舎の一部が変異体により滅茶苦茶になってしまったわけだが、昇降口と職員室周りのみ優先して安全を確保し、一部の特別教室と昇降口正面の階段が使用禁止となった。階段を迂回すれば上下階への移動はできるため、不便だが安全は確保できると学校側が判断したのだろう。

 

「蓮山……」

「あ……」


 ブレザー姿の刀弥が、丁度バス停前を通りかかり、バスを降りたばかりの天音と邂逅する。

「おはよう、朝桐君」

「ああ」

 刀弥の反応は、相変わらず不愛想だ。

 それでも、刀弥と数日であれ共に過ごした天音としては、これまでのような苛立ちや不快感はなかった。

 自然と、刀弥の横に天音が並び、通学路を歩き出す。



「ねぇ、ちょっと思ったんだけどさ」

「なんだ」

 左下から見上げる天音に対し、刀弥は前を向いたまま視線を合わせず応じた。

「なんで、あの時当たったのかな。わたしが撃ったやつ」

 ここ数日、天音の中で、ちょっとした疑問があった。


 なぜ、天音の銃弾はアレに当たったのだろうかと。

 弾が命中したこと自体は偶然だろう。刀弥にまで当たってしまったのもそうだが。

 天音が気にしているのはそこではない。

 刀弥の撃った銃弾はことごとく半透明の触手に弾かれてしまったのに、どうして天音のそれは体に命中したのだろうか。

 そのことについて、天音はずっと考えていた。

「もしかして、お母さん、わたしだって気づいてて、それでわざと――」

「違うな」

 そんな、沈鬱な顔で呟く天音の仮説を、刀弥は両断する。

「ならば邂逅初撃から襲ってこない。少なくとも、蓮山は何度も母親アレと顔を合わせている。今更、最後の最後にそんなことは考えられないだろう」

 少なくとも、天音が銃を構えて撃った時には相手は背中を向けていた。

 気づいているはずがない。

 何より、もしそれが本当だとしたら、『アレは母ではない』と覚悟を決めて撃ったのに、あの時だけは「母親として、これ以上人を傷つけないために娘に撃たれたかった」などということになってしまう。

 それは、あまりに今の天音には堪えることだろう。

 正真正銘『母』を撃ったことになってしまうのだから。

「より現実的に考えるなら、直前に俺がヤツの胸部に与えた一発が、何か身体機能に障害を与えることになったか、元から機能が徐々に落ちていったかだ」

 刀弥からすれば気遣ったつもりなどなかったのだが、結果として天音の心を救った言葉になっていた。

 事実、これは天音を気遣った言葉というよりは、刀弥なりの考察だ。

 生物としての欠陥を抱えているというのが、現状の変異体の特徴のひとつだ。

 巨大化した変異体は細胞分裂を止めることができずに分裂を繰り返していたが、あの女もきっと、あの日の時点で何かの限界を迎えていて、あの日の活動が最期の力だったのかもしれない。

(今となっては、考えるだけ無駄だな)

 少なくとも、観生みう経由では詳細な解析結果は刀弥に伝わっていない。

 ならば、あとは結果待ちだ。

 今悩むことではない。


「そういえばさ」

 またも、天音が話題を振る。

「朝桐君、毎日お弁当作ってるじゃない?」

「ああ」

 弁当作りは刀弥にとって日課だ。

 体づくりの基本であり、コンビニの弁当では代用できないので毎朝作っている。

「メニューはいつも違うのに、必ずタコさんウィンナーが入ってるよね。前に学校でお弁当の中を見た時も、カメラをつけに行ってた連休の日のお弁当にも、入ってたから」

「ああ、あれか」

 刀弥は少し考え、話し始める。

「昔、まだ母親と住んでいた頃、一度だけ弁当を作ってくれて、公園で遊んだ記憶があった。焼け過ぎの、切れ目が雑なウィンナーと、強く握りすぎて固くなったおにぎりだったが、どうしても、その記憶がチラついてな。なんとなく、今でも入れてしまう。普段は疲れ切って不機嫌な母親だったはずなんだがな」

「……そっか、そうなんだ」

 なんとなくマズイことを聞いてしまったようで、天音は質問に後悔した。

 以前観生から聞いた『親に捨てられた子供』という言葉を思い出す。

 そして俯いていたせいだろう。

 反対側から歩いてくる女性と肩がぶつかってしまった。

「あ、すみませんっ」

「…いえ、こちらこそ」

 三〇代と思しき落ち着いた雰囲気――というより暗そうな印象の女性は会釈して足早に離れていく。気のせいか、睨まれていたように思う。注意散漫だ。

「ねぇ、朝桐君」

「なんだ」

「今度、料理教えてくれない?」

「なぜ?」

 またも、刀弥は視線を合わせない。

 先ほどの女性を振り返って見ている。そんな風に見える。

「ほら、朝桐君って料理うまいじゃない?わたしも、今は親戚の家にお世話になってるし、料理くらいはできるようにならないとなって」

「……問題ない」

 刀弥は視線を戻し、頷いた。

「約束だよ。ねぇ、どうかした?」

「いや、別に――」


 ヴゥゥゥン―――ヴゥゥゥン―――


 刀弥の胸元からの振動音に、会話がぴたりと止まる。

 ブレザーから携帯電話を取り出し、応答する。

『ちゃほーい、あーちゃん』

「なんだ」

『お仕事だよー。コードレッド。レベルD。ピックアップは――』

 電話口に向けて短く返事だけして、刀弥は通話を終了する。

「蓮山――」

「気をつけてね」

 これから所用だと告げようとする刀弥より前に、天音が割って入る。

「ああ」

 校門まであと少しというところで、刀弥は反転し、天音はその背中を見送る。


 本当は危険なことなんかしないで学校生活を共にしたいというのが本音だが、天音は出かかった本音を飲み込んだ。

 それは、刀弥の本意ではないことを知っているから。

 少なくとも、彼が戦うことで、誰かが救われるかもしれないと思うから。

 本当は全てを世間に知らせるべきかもしれないけれど。

 それで全て解決するほど、世の中は簡単にできていないと、その片鱗だけでも知ってしまったから。


「気をつけてね、朝桐君」


 天音は通学路を進む。

 この後、担任教師の小鹿野おがのが校門で服装チェックをしているのに気づいて、驚きと呆れに苦笑いを浮かべてしまったが、そこにいるということは感染とかそういうことは大丈夫だったんだろうと、最後は安堵する。


 全ては元通り、というわけではない。

 大きな損失は、確かにあった。簡単に埋めることのできない喪失が。

 それでも、ほんの少しだけど、得たものはあった。


「おはようございます、小鹿野先生」


 ほんの少しだけ大人になった。そんな気持ちで、天音は校門を潜った。






   *   *   *





 刀弥は交差点手前の路側帯に寄せられた黒いワンボックスカーに乗り込む。

 ステップに足をかけた時、ふと縁石えんせきに向け視線が下がる。

 剥がれたアスファルトと、隙間から伸びる緑の細長い葉が見えた。


 道端の小石。

 ――それは、人々を支えている大地の欠片。


 僅かな隙間から生える雑草。

 ――それは、雑草ではなく、スギナという確かな名を持つ植物。


 視線を横に向ける。


 掠れて見えなくなった横断歩道。

 —―それは、意識はされずとも、傷つきながらも黙々と誰かを守り続ける存在。


 ただ規則的に点滅して色を変える信号機。

 —―それは、己の役割を律儀にこなす、使命を果たす存在。


 そして、その視線は上へと向かう。


 ただ空を泳いでいるだけの白い雲。

 —―それは、やがて寄り集まって恵みの雨をもたらす存在。



 普段、朝桐刀弥は感情をあまり出さず、表情を崩すことは稀だ。

 その稀なことが、今起きている。


「あーちゃん早く~」

「…すまない」


 車内でキーボードを叩く観生が、らしくない相棒を呼ぶ。

 応える声は、いつもよりほんの少しだけ、口角が上がっている。


 変異体が全て消滅したわけではなく、『ジョーカー』は依然として猛威を振るっている。

 PNDRも存続し、こうして刀弥が体を張っている。

 何も解決していない。


 それでも、ひとつの区切りがついたと思うのは、気のせいではないはずだ。



 ワンボックスカーに乗り込んだ刀弥は、普段通り自分の拳銃を確認し、予備弾倉を懐に仕舞う。


(さぁ、ハンティングの時間だ)


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