白い剣

川野笹舟

白い剣

「今月のお布施を振り込みました。……はい……はい……」


 ミコトはテレビを観ているふりをしながら、母親が電話で話す内容をそれとなく聞いていた。通話相手には見えないにも関わらず、母は愛想笑いをしながら、小刻みにお辞儀をしていた。そのたびに長い黒髪がゆれていた。


「え? はい……五万です。……はい、ではよろしくお願いします」


 最後に大きなお辞儀をしたところで母の通話は終わった。放心しているような母の手に握られたスマートフォンからは、白い剣を模したストラップが垂れ下がって揺れていた。

 逆さに吊るされた剣は十字架のようにも見えるし、柄尻が丸いせいでどことなく人間のようにも見える形をしていた。


 白い剣は、新興宗教『白新教はくしんきょう』 のかかげるシンボルである。なぜ剣なのかは知らないが、ミコトは子供心に少しかっこいいと感じていた。白新教の教徒たちは、この剣を白剣はっけんと呼んでいる。





 ミコトが物心ついたころには、既にこの家は白新教のルールで動いていた。


 母は白新教のルールに従い、ミコトは母に従う。父はミコトが赤ん坊の時にいなくなってしまった。彼に父の記憶は一切ないが、少し女顔のミコトとはかなり系統の違う怖い顔だったらしいというのは親戚から聞いたことがあった。母は父について語ろうとしなかった。


 かつて、ミコトが「お父さんはどんな人だったの?」と母に聞いたことがある。


「白新教についていくら説明しても理解できなかった馬鹿な人よ」と母は言った。

「それ以外は?」

「それ以外に何が必要なの? ミコトはあんな人みたいにならないから大丈夫。白新教の教えをちゃんと守れるもんね?」

「うん。ちゃんと守る」


 この会話以降、父について何か聞くことはなかった。


 白新教の教えとしては、家で経を読む以外にもいろいろとやることがある。

 毎週水曜日の朝五時は、各地の白新教支部にて集会がある。ミコトの家から最寄りの支部までは車で十五分ほどかかる。

 今日もその集会の日だ。まだ十歳のミコトにとってこの時間帯は眠く、いつも着替えなどの準備が出発ぎりぎりになってしまうのだった。まして、今日は体調が悪かった。昨夜の時点で熱が三十八度まであがっていた。母には「徳が足りないんじゃない? 昨日ちゃんとお経読んだ? 今日は? 今から読みなさい!」と言われるしまつだった。その後、夜寝るまでに何度もミコトは読経をしたものの、今朝になっても熱は下がっていないようだった。


「お母さん、今日は無理。……しんどい」

「そんな言い訳いらないの! 早く立って」

「無理だって、死んじゃうよ……」

「だめ。何があっても集会を優先させなきゃだめって前に言ったよね? 早くしなさい、間に合わないでしょうが!」


 ふだん泣かないミコトもさすがに涙を流しながら車に乗った。支部に着き、なんとか経を読むふりをしながら一時間ほどの集会をのりきった。もうろうとする意識の中で、数十人が読経する声と、線香の煙と香りにつつまれたミコトは一種恍惚とした精神状態 に突入していた。





 学校にはあまり気の合う友達がいない。一人だけ、家が近所で一緒に学校へ通ううちに仲良くなったケイタという友達がいる。インドア派のミコトとは異なり、外でばかり遊んでいる男子である。彼と一緒に遊ぶ際は、基本的に彼の提案によって外で遊ぶことになるため、お互いの家に入ったことがなかった。


 六月のある日 、遊んでいる途中で急な雨に降られてしまった。どこか雨宿りできるところがないか考えた結果、その場所から近いミコトの家に向かうこととなった。ケイタを家に招待するのは初めてだった。


「なんか線香臭くね?」というのが玄関でのケイタの第一声だった。

「え? いつものことだからわからないけど、ケイタの家は線香をあげないの?」

「あげるけど、ここまで臭いしたかな? よくわかんね。とりあえずおじゃましまーす」


 そのままミコトの部屋へ入り、ケイタには椅子に座ってもらった。


「ちょっとタオル取ってくるから待ってて」


 そう言って、ミコトは部屋を離れた。

 タオルを持って部屋に戻ると、ケイタはミコトの机に飾られていた白剣のネックレスを手に取ってながめていた。


「あっ、ミコト、この剣かっこいいんだけど! これ何?」

「かっこいいよね! それは白剣って言って、白新教にとって大切なものなの」


 かっこいい、そう言ってもらえた嬉しさに背中を押されて、ミコトは白新教について自分の持っている知識をすべて披露 した。ケイタはミコトから受け取ったタオルで体を拭きながらその話を聞いていたが、ときおり 「ふぅん」と口にするだけで、ほとんど興味がなさそうだった。


 白新教の説明が終わった後、何かをして遊ぼうという話になったが、ミコトの家にはゲームなどなく、ちょうど雨があがったこともあり、ケイタは「俺、帰るわ」と言ってあっさり帰ってしまった。





 梅雨入りして、外で遊べる日が減っていった。それにつれてケイタともなんとなく疎遠になっていた。


 久しぶりに晴れた日、ミコトはケイタを誘って学校の帰り道にある公園に寄った。ブランコに座って授業のことやクラスメイトのことについて話をした。話をしている間、ケイタにあまり元気がないように見えたため、ミコトは聞いた。


「なにかあったの? 風邪とかじゃないよね?」

「うーん、そうだなぁ」


 ケイタは変な顔をしながら、何か考え事をしていた。


「変なの。言ってよ」とミコトが促すと、ケイタは、

「言うなって言われてんだよなぁ……でも言うわ。なんかさ、母さんに言われちゃったんだけどさ、ミコトと遊ぶのはもうやめろってさ」


 ミコトは言葉を失った。動悸が激しくなり、急に目の下の隈が濃くなるような錯覚に襲われた。


「ごめんな。友達ってことは変わらないけど、もう放課後とか、たぶん遊べないかも」


 ケイタはわかりやすく目に涙をためて、それでも笑いながら「じゃあな!」と言って走り去っていった。


 ミコトは世界が赤黒くなるまで、一人不安定にゆれるブランコに座ったまま、「なぜ」と考え続けた。何も悪いことはしていないはずだった。彼とは仲がいいはずだった。


 一つ、思い当たることがあった。あの日。彼がミコトの部屋に来た日。白新教について説明している時の彼の顔は、今までに見たこともないような面白くなさそうな顔だった。しかしそれだけだ。彼にとって面白くないことであったとしても、なぜ彼の母親に「遊ぶのはもうやめろ」と言われることになるのか 。


 ミコトは「なぜ」と考え続けた。世界が完全に黒くなるまで考え続けた 。





 集会の日、読経などの後に帰る準備をしながら母が言った。


「ミコトもお経をすらすら言えるようになってきたね」

「うん、前半分くらいはもう覚えちゃった」

「そうなの? じゃあ後ろ半分も覚えちゃいなさい。全部覚えたら一人で集会に行ってもいいかもね。お母さん仕事でいけないときもあるし……タクシー代出してあげるから、今度一人で行ってみない?」


 送り迎えをする母がいないので当然ミコトも参加したことがなかったが、平日の夕方にも集会はある。それに行けないからこそ母はなんとしてでも朝の集会には参加しようとするのだった。


「おっ、よかったなぁミコトくん。がんばってあとちょっと覚えてみよっか」


 二人の後ろから爽やかな声で話しかけてきた男性がいた。丹下さんだった。彼はこの地区のリーダーとして集会のとりまとめなどもしている。三十代くらいに見える。信者の中では若いほうだが、それでもリーダーに選ばれるほどに優秀なのだ、と母はいつもほめていた。


「あっ、おはようございます。はい、がんばってみます」

「うんうん。ミコトくんは優秀だなぁ。僕が子供のころより断然頭がいいよ」


 丹下さんはそう言いながら他の信者のもとへ歩き去った。

 帰り道の車の中で、母が言った。


「丹下さんにも約束したんだから、ちゃんと覚えないとね」

「うん、すぐに覚えるよ」

「ちゃんと学校の勉強もしないとだめよ」

「うん、そっちも大丈夫」


 素直なわりに素っ気ない返事だったせいか、母はちらりとミコトの顔を見るが、助手席のミコトはじっと前を見つめていた。二人の間にあるルームミラーからは白剣のキーホルダーが垂れ下がり、カチャカチャと音を鳴らして揺れていた。





 今までケイタと遊んでいた時間がぽっかりとそのまま空き時間になってしまった。その時間をミコトは経を暗記するために使った。ミコトは母に言われるまでもなく学校の宿題は真面目にこなしていたし、テストではどの教科もうっかりとしたミスさえしなければ満点を取れる優等生だった。暗記も得意なため、結局二週間で経も覚えきった。

 朝の集会が終わった後に、丹下さんを見つけたミコトは走り寄って、一言伝えた。


「覚えましたよ、お経」

「あぁ……お経を覚えた? え、前に言ってたやつ? 本当に覚えたの? はやくない?」


 丹下さんが体全体で驚いていた。まわりにいた顔だけしか知らない信者の人達も口々に「えらいえらい」「うちの子にも見習ってほしい」などと言っていた。


「とにかくすごいね。これでお母さんが風邪ひいても一人で来れるね」と言いながら丹下さんはミコトの肩を叩いた。ミコトは「そのうち一人で来ますね」と言った。それを後ろで聞いていた母は、

「私は風邪をひいても来ますからね。這ってでも来ます」と少し怒ったように言った。

「またまた……でも本当にやりかねないからなぁ」と丹下さんは苦笑いして言った。

 その後も大人たちが何やら話していたが、ミコトにとっては『お経を暗記したこと』を伝えることができて満足したので、聞き流していた。





 七月の一週目 、集会の日、朝四時半。

 母の運転で集会所へ向かっていた。


「今日の集会に参加したらね、お母さんもミコトも徳がたまるの。次からはもっと前の席に座れるからね。嬉しいでしょ?」

「うん、嬉しい」


 白新教には『徳』というシステムがある。お布施の累積金額や、集会の出席回数などは細かくデータ管理され、総合して徳という数値に変換される。徳の大小により、集会の席次や、役員への昇格可否の判断がなされるのだった 。


 母はいつもより饒舌だった。いままで、この徳を溜めるためにどれだけ尽くしてきたかをとりとめもなく喋り続けていた。

 集会の出席数はミコトもだいたい把握していたが、いったい母がいくらお布施を払っているのかは検討もつかなかった。ただ、贅沢らしい贅沢はいっさいできない生活をしているということは理解していたし、それゆえにミコトはお金がかかるようなわがままは今まで言わないようにしていた。そのため、ミコトの家にはゲームもないし、漫画も小説もない。あるのは白新教の経典と、白新教の教えをわかりやすくまとめた絵本くらいのものだった。


 母はお喋りに夢中だった。そのせいか、いささか運転に集中できていなかったらしい。

 突然、道に飛び出してきた猫に対して冷静に対処できなかった。


 とっさにハンドルを右に切ってしまい、電柱に衝突した。

 幸い早朝の田舎道であり、他に車や人間が通っていなかったため単独事故だった。しかしまたそのせいで、まわりに誰か助けを呼んでくれるような人はいないようだった。


 ミコトはガシャンという音と衝撃を全身に浴びた後、目をつぶり恐怖と痛みで混乱していた。一分かあるいは十分か定かではなかったが、それでも少し落ち着きを取り戻したミコトは目を開けて、状況を把握した。

 シートベルトがくいこんだ箇所と、頭を打った箇所が痛んだが、手を当てて確認すると血は出ていないようだった。


 母の様子をうかがうと、ハンドルにつっぷして倒れ込んでいた。頭からは血を流している。

 衝撃で車体が変形している。その変形した部分が邪魔になり母の足元はよく見えなくなっていた。足元からも血が流れていることは確認できた。


 ミコトは自身のシートベルトを外し、一度車外に出た。辺りを見まわしたが、人はいない。近くに民家もなく静かなものだった。

 ふと思い出して、車の後方を確認したが、何かをひいたような形跡はなかった。動物――おそらくは猫だったと思うが、その姿は見当たらない。うまく逃げたのだろう。


 ミコトは助手席側のドアから車の中を覗いて、言った。


「お母さん、大丈夫?」

「救急車……呼んで……」と母はろれつのまわらない小声でそう言った。「わかる? 救急車……」

「そんなことしてたら集会に間に合わなくなるよ」とミコトは言った。

「なに? なにを言ってるの……そんなこと言ってる場合、じゃない」

「でも……」

「救急車ぁ……い、いぃ、痛い。痛いぃ……」

「でも……何があっても集会を優先させなきゃだめって前に言ったよね? お母さんがそう言ってたもん」

「……」

「仕方ないから、お母さんはそこで休んでて。ぼくだけ先に行くね」


 そう言いながらミコトは車を離れ、薄青い夜明けの中を一人走りはじめた。

 道は覚えていた。集会所までは十分ほどで到着した。


 遅刻ぎりぎりで息を切らしながら集会所の最後列に座ったミコトのことを、数人は不審の目で見ていたが、まもなく読経が始まり、その視線は途切れた。


 集会の後、ミコトはすぐに出口へ向かった。出る寸前にちらりと丹下さんのほうを見ると、彼はいつも通り人気者のようで、集会所の前の方の席で数人に囲まれて談笑していた。


 ミコトは母と車の場所まで今度は歩いて戻った。集会に間に合い、そしてのりきったことを安堵しながら、ゆっくりと歩いた。

 車はまだそこにあった。周りには誰もいなかった。警察も救急車も野次馬もおらず、ただ鳥の鳴き声がいくつか聞こえるだけだった。


 ミコトは助手席のドアを開けて車に乗り込んで、母の顔を見た。既に日は昇り、母の顔は朝の光に照らされていた。穏やかに眠っているような表情だった。


「お母さん……。お母さん……?」


 ミコトはそう言いながら、自分の手を自分の胸あたりに当てた。いつもよりはやく脈打つ心臓の鼓動を感じることができた。そして、次は母の胸あたりに手を当てた。しばし待ってみたが、鼓動を感じることはできなかった。


「お母さん?」ともう一度聞きながら、今度は体をゆすったり、肩を叩いたりしたが、母の反応はなかった。

 それまでこわばっていたミコトの顔は、その時初めて穏やかな笑 みを浮かべた。


「よし。たぶん、死んだ。すごい、嬉しい」


 そう言いながら、彼は胸の奥から湧き上がる笑い声を必死にこらえた。


「これでもうお経なんて読まなくてよくなるってこと? 集会なんか行かなくていいってこと? 嬉しすぎる」


 その笑い声が誰にも聞こえないように口元を押さえながら、ミコトは数分間笑い続けた。ここまで笑い続けたのは生まれて初めてだった。


 やっとのことで落ち着きを取り戻した彼は、母のポケットからスマートフォンを抜き取った。暗証番号はミコトの誕生日だと知っていた。彼は119の番号を押した。


『119番、消防署です。火事ですか、救急ですか?』

「あ、もしもし……あの……救急、です。お母さんが運転してた車が事故をおこしました」


 オペレーターとの通話を終え、ミコトは助手席に深くもたれかかり、 長いため息をついた。フロントガラスの向こう側は、目を開けていられないほどに朝日が白く輝いていた。

 ルームミラーに吊るされた白剣のストラップは、日光を白く反射しながら揺 れていた。

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