レッドガーベラ～異世界横浜【魔薬】事件簿～

転

楠美-1

「ただいまぁ……」

　誰もいない。暗い玄関を見るだけで憂鬱だった。

「はぁ」

　帰宅ついでに、溜息を吐くようになったのは、本郷が一課から異動してからだ。

　扉を閉め靴を脱ぐ。ガサガサと音を立てるビニール袋がうるさかった。

　リビングに行き、捨てるように袋をテーブルに置く。

　ジャケットをハンガーにかけ、服を脱ぎ捨て浴室へ。化粧を落とすことすら億劫だった。　艶のある黒髪を湯が伝う。心地いい熱さが首と肩の凝りをほぐしてくれるようだ。滝行のように浴びながら、楠美は助っ人のことを思い出していた。

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　病院の地下駐車場。白いベンツの前で女性が飯島と話していた。

　楠美はそれを見ながら後部座席近くに立っていると、ベンツの窓が開けられた。

　中に座っていた獣人（ヴォルフ）は楠美に頭を下げた。

　美しい銀のウルフボブ。後ろ髪が長く一本に纏められており、毛先が巻かれていた。人形のような可愛らしい顔立ちに見事なアンバーの瞳。

　楠美は思わず溜息を零しそうになった。

「お疲れ様、いや、はじめまして、の方がよろしいでしょうか」

　異世界の歌姫、レイラ・ホワイトシールの声は、心と体に染み渡るようだった。

「お疲れ様です。はじめまして、ですね」

　少し声が震えた。普通に緊張していた。

「捜査一課の楠美紫音と申します。レイラ・ホワイトシール様」

「様、なんて付けなくても……」

「いえ、そうはいきません」

　彼女は、ある意味この国の総理大臣よりも立場が上なのだ。失礼な言動は本物の首が飛ぶことになる。

　気持ちが張りつめ、彼女の格好をまじまじと見つめてしまう。黒いコートに白いニットワンピースというシンプルな出で立ちだった。

　レイラの猫耳がピコピコと動く。

「ご、ごめんなさい。こんなラフな格好で」

「いえ。お似合いです」

「オシャレした方がいいかな、なんて思ったんですけど、今日はそういった雰囲気でもなかったので」

「はい。大変助かりました。レイラさんの魔法のおかげで、敵が”ブリューナク”を発動しても影響はほとんどありません。魔力酔い（ドランク）状態になった一般人も皆無でした」

「作戦が上手く行ったみたいでよかったです。あの、勇……赤志さんは何か言ってましたか？」

「レイラさんの正体は明かしてないのですが察しているみたいでした」

「そう、ですか」

　レイラの頬に朱が走る。

「レイラ様。ひとつお聞きしたいことが。なぜ協力していただけたのでしょうか？」

　レイラは唇に人差し指を当て、

「内緒、というわけにはいきませんか？」

　ふわりと微笑んだ。あまりの可憐さに問い質す気力が奪われる。

　そこに女性が帰ってきた。

「失礼。断りもなくレイラと話すのはやめていただけますでしょうか」

　容姿端麗な獣人だった。今時めずらしいほどの金髪は絹のような艶を放っている。目立つのは長い狐耳と、切れ長で強気な黄金の瞳。

　レイラは可憐、こちらは美麗、と表現できる容姿だ。

「これ以上の協力は行いません。今回はレイラ立っての希望でしたが、こんな危険な場所には二度と────」

「九条（クジョウ）さん！　もういいから！」

　九条と呼ばれた女性は、豚を見るような目で楠美を一瞥するとベンツの運転席に向かった。

「楠美さん！　また機会があれば、お話しましょう」

　ベンツが動き始めた。楠美が頭を下げると窓が閉まった。ベンツが見えなくなるまで、楠美は頭を下げ続けた。

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『「グリモワール」は事実上壊滅したと言っても過言ではないでしょう。裏で動いていた反社会的勢力は警察の抑止で動けなくなっております。これで安全にワクチンを摂取して、いただければと思います』

　志摩京助の表情は憑き物が落ちたかのようだった。

　楠美は缶ビールのプルタブを開ける。画面が志摩から黄瀬ユウマに変わった。

『嬉しいことに、ワクチンを補充してから接種率が大幅に上がっております。重篤な副作用を起こした方も皆無です。小学生未満の年齢から80歳以上のご高齢な方々まで、幅広く接種が進んでおります』

　レンジから音が鳴った。中に入っている総菜を取り出しテーブルに置く。

『ワクチンは毒ではありません。どうか国民の皆様には随時接種していただければと────』

　椅子に座り箸を取った所で楠美は眉根を寄せた。

　ワクチンも毒と言って差し支えない。一瞬だけだが魔力が活性化するという副作用。欠点とも呼べるその部分を進藤は狙って、人々を洗脳し、死者を出した。

　今号は進藤から確実な話を聞く必要がある。

　だが楠美はそれ以上に、進藤に聞きたいことがあった。

　誰から、公表されてもいない副作用を聞いたのか。進藤は魔力を検知して自力で気付いた、とでもいうのだろうか。

　そして他にも副作用がないかどうかだった。ワクチンはまだ何か隠しているのではないか。

　それに赤志のことも信用できない。彼に関しての情報が不足しすぎている。

　彼がなぜ「シシガミユウキ」を追っているのかはまだいいとしても、どうしても気になることがある。それがハッキリしないため赤志を信用することができ兄。

　今後は彼の動向を気にしつつワクチンについて調べる必要がある。そう決めた矢先、返事をするように腹から音が鳴った。

「……はぁ」

　楠美は箸を置き総菜のパックをどけて立ち上がる。再び席に戻った楠美の手にはボールペンと紙があった。

　持っていた「専用武器使用許可証」の紙を広げ、ペンの芯を取り出す。

「使うようなことにならなければいいけど」

　呟きながらペンを走らせた。