第155話 死の定義
とりあえず、今日のオグレクへの出発は中止となった。
明日、改めて出発するということで、俺たちは再び離れの館に戻ってきた。
「その……すみませんでした。突然のことに、リアナ姫の演技を忘れていました」
ジェイドさんが館に結界を張ったところで、俺は二人に謝罪した。
「構いませんよ」
勇者姫様は屈託なく笑った。
「ユウキ様が、誰かの命の危機を前に、ご自身ができることをしないでいられる方ではないのは承知しています。
ここは隣国ですし、ロレインや翡翠加工工房の様子を見ていても、女性の立場が強い地だということはわかります。姫巫女が男、勇者が女と分かっても、反発は少ないでしょう。
ネズラルグ候にとってユウキ様は、妻の命を取り戻してくれた大恩人でもあります。
何よりも、一度死んだ者を生き返らせるという神の奇跡を目にしたのです。
神の使いたる姫巫女の意に染まぬことはしないでしょう。
『結果が善ければすべて正しい』ですよ」
勇者姫様は言ってくれたけれど。
「いえ、あれは奇跡なんかじゃありません!」
俺は慌てて否定した。
「心肺蘇生法という、知識があって間違えずに実行すれば誰にでもできることです。それで息を吹き返したのはロレインに運があったからにすぎません。俺は神の奇跡なんか起こしていません」
「心臓と肺腑をよみがえらせる方法……姫巫女様の世界には、そのような
ジェイドさんが感心したように言う。
「しかし、それは口に出さぬ方がよろしいでしょう。ロレインを救ったのは姫巫女様の行使した神秘の力。そういうことにしておいた方が、下々には納得しやすく、悪意を抑える効果を発揮しますからな」
「悪意?」
「姫巫女様が実は男で、衆目の中、侯爵夫人の唇に唇を重ねたとなれば、口さがない者が何を言い出すことかわかりませぬ」
あー。人工呼吸を知らないと、そういう目で見られるのも仕方がないか。
「ですが、相手が神の奇跡を起こす神の使いとなれば、話は別です。うっかり何かを口にしたら神罰が当たるかもしれないと、悪意ある言葉を軽々に口にはできなくなりましょう」
「神罰、あるんですか?」
「あります」とジェイドさんと勇者姫様の言葉が重なった。
「いっそ、ひとりふたり神罰で死んでくれたら、都合が良いのですけれどね」
勇者姫様が怖いことを言うのに、ジェイドさんがうなずく。
「奇跡でも何でもないことを神の奇跡って言う方が、俺に神罰が当たりそうなんですけど?」
「ユウキ様は存在自体が神の奇跡そのものですから、そのような心配はありませんよ」
そう笑ってから、「それよりも」と勇者姫様は目をキラキラさせながら俺に顔を近づけた。
「あの状況で私やネズラルグ候の命にまで気を配ってくださったことに、私は驚きました。なぜ、あそこで飛び込んではいけなかったのですか?」
「そこはぜひ教えていただきたいですな」
ジェイドさんまでそんなことを言い出す。
これは、一通りちゃんと説明したほうが良いんだろうなあ。
生兵法は怪我のもとではあるけれど、泳ぎに自信があっても冷たい水にいきなり飛び込んではいけないってことは重要だし、心肺蘇生法だって放っといたら死ぬ人間にしか使わないわけだしな。
「息を2回吹き込み、胸を30回押すの繰り返し」
俺が教えた通りに両手を重ね、肘をまっすぐ伸ばしてイメトレしながら、勇者姫様が言う。
「人工呼吸する人と心臓マッサージする人、2人でするのが理想です。溺れた人には人工呼吸必須ですが、それ以外の場合で1人しかいないのなら、心臓マッサージだけを確実に続ける方が良いそうです。赤ん坊は指2本、子供は片手の掌の付け根で、胸骨を体の厚みの三分の一くらいまで圧迫する、と習いました」
水泳部だからと泳ぎに自信を持ちすぎて、溺れている人を見てむやみに飛び込んで自分が救助される側にならないようにと、夏前にかならず救命講習を受けさせてくれた顧問の先生に感謝だなあ。
3回も練習していたから、体を水に慣らさずに冷水に飛び込んで救助をしてはいけないことも、人工呼吸の前に気道確保するのも、鼻をつまむのも、息を吹き込みながら胸が動くのを目で確認するのも、忘れずに済んだんだと思う。
「しかし、『人は心臓が止まっても、本当に死んでいるとは限らない』とは驚きですな」
ジェイドさんが感心したように言う。
「心臓の死と脳の死。脳が死なないうちであれば、一度止まった心臓が再び動き出す可能性がある。それまで、外から心臓を動かし、脳に血を送り、脳を生き永らえさせると」
「俺の世界には、心臓に電気――小さな小さな雷のような力を送って、止まった心臓に再び動けと促す道具がありましたから、一度心臓が止まっても生き返ることは珍しくなかったんです。この世界にはそれがないので、心肺蘇生を試みてもうまくいかないことの方が多いかもしれません」
救命講習で習ったのは、あくまでも専門家の手にゆだねるまでのしのぎ方にすぎない。
この世界で、心肺蘇生法が広まったとしても、どれだけ効果があるかはわからない。
でも、ひとりでもふたりでもそれで助かったなら、教えることに意味があるんじゃないかな?
「ジェイド。この知識は、異世界の勇者が伝えたものとして、記録に残せないか?」
俺と同じことを考えていたのか、勇者姫様が言う。
「息を吹き込み、胸を押し、そうやって姫巫女様が心臓が止まった人間をよみがえらせたのは、異世界の勇者が知識を与えたからだと。魔女を討伐した後であれば、『実はあれは、人間であれば誰しもできることだ』となっても問題はないだろう?」
「それは、魔女討伐が成ったのちに、姫様がご自身で語ればよいのではないですかな?」
「私ひとりが言っても、『それができるのは姫巫女だからだ』と言われるだろう。だから、お前がしっかりやり方を覚えて、人に伝えるほうがいいのだ。任せたぞ」
「おっしゃることもごもっともですな。――わかりました。しかと記録を残しましょう」
勇者姫様の言葉に、ジェイドさんはそう頷いた。
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