第153話 姫巫女の奇跡
「誰も飛び込むなっ! 姫様も!」
俺はもう一度警告を繰り返しながら御者台に出た。
あ。聖杖……いや、一刻を争う!
素手で橋へと飛び降り、膝を着いて縁石越しに下をのぞき込む。
透明度の高い湖水の向こうに、静かに沈んでいくドレスが見えた。
動いてない。
もう意識がないんだ。
「ロレイン!」
俺の隣りに膝を着いて水面をのぞき込んだネズラルグ候が、すぐさま自分の馬車に戻った。
中から一抱えもある木の箱を出し、ロレインの真上を避けて湖に投げ入れる。一度沈んだ箱が、浮力で浮かび上がる。
「ロレイン、捕まれっ!」
喚くが反応しないロレインに、上着を脱ごうとするネズラルグ候。
「飛び込むなっ! あんたも死ぬぞ!」
俺は大声でネズラルグ候を制止する。
高校の水泳部で、夏休み前に必ず皆で受けに行った救命講習で習った。
人間は、突然冷たい水に入ると失神することがある。
迷走神経反射だったけ?
体を鍛えているとか泳げるとか関係なく、誰にでも起きうることだ。
勇者の姫様だって人間だ。まして、普通の人間のネズラルグ候に起きない保証はない。
そうなってしまっては、要救助者が増え、救助までにさらに時間がかかり、助かる者も助からなくなる。助けるために飛び込んで、さらに溺れる人間を増やしてはいけないのだ。
こういう場合には、ロープのついた浮き輪などで岸から救助しろと習った。
でも、今のロレインは、すでに意識がない。まさに、講習で習ったことがロレインの身におこったのだろう。
浮くものを投げても、捕まることができない。
「長い棒……! 鈎のついた長い棒はないか?!」
勇者姫様が声を上げる。
「小舟を出せ! ひっかけ棒はあるな?!」
翡翠工房の工房長が指示を出す。
見れば、橋から離れたところに桟橋があって、小舟が繋がれている。
それに乗り込んだふたりの男のひとりが、長い棒を掲げている。もうひとりがオールで桟橋を押して小舟を出そうとしている。
確かに、フックでひっかけて引き上げることはできるかもしれない。けど、船の出発場所が遠い。ロレインのところに行くまで時間がかかる。間に合わないかもしれない。
考えろ。他にできることはないか――
人間が飛び込むのは駄目。ならば、人間以外だったら……?
「姫様!」と俺は、ネズラルグ候の隣から湖を見下ろす勇者姫様を振り向いた。
「黒鉄の馬を馬車から外せ! 早く!」
勇者姫様は、はっと目を見開くと、左手から聖剣を抜き放った。
たっ、とジャンプして黒鉄の馬の背に立ち、聖剣を二回振るって、黒鉄の馬を馬車につないでいたベルトを切り捨てる。
「黒鉄の馬! ロレインの体を損なわないように、できるだけ早く、湖に沈んでるロレインを引き上げろ!」
俺が命令する間に、勇者姫様が飛び退く。俺の言葉が終われば、黒鉄の馬は即座に縁石を飛び越え湖に飛び込んだ。
ざっぱーんと水しぶきが高く上がる。
黒鉄の馬は重い。当然沈む。橋の下あたりは、水深4メートル以上あるらしい。黒鉄の馬が頭を上げても水上に顔を出せないほど深いようだ。
だが、重い分、安定して動けるのだろう。
湖底の泥を巻き上げながら水の抵抗もものともせず、黒鉄の馬は沈んだロレインに近づき、ドレスのウエストあたりを引っ張った。きっと、ドレスを咥えているんだろう。そのまま、岸に沿って橋から遠ざかる方へ向かう。
城に面した岸は、護岸のためか石垣が積まれ人が落ちないように石の手摺が作られている。黒鉄の馬は石垣を上ることができないから、直接岸に上がることができないのだ。
橋から少し離れたところには、水辺に下りる階段が作られている。階段の下には石畳敷きのちょっとした広場が作られていて、広場から水の中に向かって斜面を作るように多くの石が沈められている。
そこからなら、湖底から石の斜面を上がって陸に上れるだろう。
黒鉄の馬が最短時間でロレインを引き上げようとするなら、あそこに向かうはずだ。
そう判断した俺は、走って下の広場に向かった。勇者姫様が俺と同じ判断をしたのか、ジャンプひとつで俺を追い越し、直接広場に飛び降りる。
俺の後を、ネズラルグ候が追ってくる。
黒鉄の馬は深みから石の作る斜面をぐんぐん上がり、やがてざばりとロレインを水中から引き揚げた。
「よくやった!」
太ももまで水に入り、勇者姫様がロレインを受け取り、広場の渇いた石畳の上に寝かせた。
「ロレイン! ロレイン! しっかりしてくださいっ!」
勇者姫様がロレインの頬を叩きながら大きな声で呼びかけている。
俺が手摺の無い階段を駆け下りるよりも先に、階段の途中から横に飛び降りて広場に着地したネズラルグ候がロレインに駆け寄った。
「ロレイン……っ!」
悲痛な声でロレインの名を呼んだきり、なぜか絶句して立ちすくむネズラルグ候。
その隣に並びかけロレインの姿を見た途端、俺は強烈な違和感を覚えた。
目を閉じ横たわるロレインの顔には、あの赤い痣がなかったのだ。
「呪いは対象の心臓が止まり死に至ることよって解かれる……」
ロレインの傍らに膝を着いた勇者姫様が、体を起こし小さくつぶやいた。
ロレインの心臓が止まったから、だから、呪いの痣が消えたのだと?
ロレインは、もう死んでしまったのだと?
いや、でも、心臓が止まったからと言って、脳まで死んでいるとは限らない!
「まだだっ!」
俺は勇者姫様を押しのけ、ロレインの傍らに両膝を着いた。
思い出せ。
高校3年間で3回も同じ講習を受けたんだ。
訓練用ロボットで人工呼吸も、心臓マッサージも練習した。
あのとき習ったことを思い出せ。
溺水では、肺の中に酸素量の多い空気を送り込んでからでなければ心臓マッサージの効果が出ないから、この順番が大切。
俺は皮手袋を脱ぎ捨て、ロレインの口を指でこじ開けた。ローブの袖を右手の人差し指と中指に巻き付けて口の中をぬぐう。嘔吐物はない。口の中に残っていた水は、あらかた指に巻き付けた布に吸い取られた。
額を押さえながら、顎を上げさせて、気道確保。
忘れずにロレインの鼻をしっかり摘み、大きく息を吸い込み、横目で胸を見ながらマウストゥマウスで息を吹き込む。ワン・サウザンド・ワン――よし、胸郭が上がった。もう一回。ワン・サウザンド・ワン――
1秒を正確にカウントするための言葉を頭の中で唱えて2回人工呼吸をしてから素早く体を起こし、俺はロレインの胸骨を探した。くそ。コルセットの感触でわかりにくい。大体胸の真ん中――多分ここだろ。
使うのは手首に近い手の平の付け根。両手を重ねて、肘を突っ張り、真上から体重をかけながら、5センチは沈むように、リズミカルに、上げたときに手を離さないように気を付けて、胸骨を押し下げる。
「もしもし亀よ亀さんよ」と心の中で歌いながら心臓マッサージを続ける。1番を歌い終わったら約30回。
すぐに再び2回の人工呼吸、鼻をつまむのを忘れない! 1回1秒で2回、吹き込んだときに胸が上がるのを確認。ちゃんと肺に入ってる、はず。
吹き込み終わったら、間を置かずにまた心臓マッサージ。
2回目の「世界のうちでお前ほど」のところで、びくっとロレインの体が動いた。
胸部を圧迫する手を離すとロレインは、はあっ、と息を吸い込み、直後に横を向いてゲホゲホと咳き込み始めた。
「ロレイン! ロレイン!」とネズラルグ候が呼びかければ、ロレインは目を開け「旦那様……」と小さく唇を動かした。
「生き返った……生き返った! ああ! なんという奇跡かっ!」
ネズラルグ候の感激の声に、岸から見守っていた人々の歓声が上がったのだった。
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