第152話 冷たき湖水

 ネズラルグ城に到着してから8日目の朝食前、食堂でメイドたちが朝食の準備を整えているのを尻目に、俺達はこの硬き銀鋼の国の王族も愛するという保養施設、オグレクに出発するための準備を始めた。

 出発予定は朝食後なので、その前に必要な支度をしておくことにしたのだ。

 

 離れの館の前に停め、黒鉄の馬ごと雨も通さぬ物理防御結界魔術で守っていた馬車の結界を解き、音の結界だけ張り直してから、滞在のあいだ館に持ち込んでいたわずかな荷物を勇者姫様が運び入れる。

 こういう仕事は本来は使用人の仕事なんだろうけど、「異世界から来た勇者は、荷を他者に触れさせることを好まない」というシトリの申し送りのおかげで、俺たちの事情を知らない人を遠ざけながらすることができている。

 勇者姫様が荷物を運んでいる間に、俺とジェイドさんは手分けして食料と薪の確認をした。


 硬き銀鋼の国に入って以来毎日、勇者姫様は馬車に積みっぱなしの食料と薪のチェックを欠かさなかった。

 馬車の外に括り付けられた樽の中の干し肉、塩蔵豚肉、挽いていない小麦。馬車の中に置かれたタマネギや人参の袋、乾燥ハーブの袋をひとつひとつ調べ、傷んだものがないかを確認し、浄化魔術をかける。

 塩蔵豚肉は、双玉光る国を移動するときに使っていた漬けたばかりの塩蔵肉ではなく、多くの塩で時間をかけて丁寧に漬け込まれた、水分がすっかり抜けたものだ。高温多湿を避けて乾燥を保てば1年くらいは軽く持つそうだ。

 香辛料とハーブを擦り込んだ鹿肉を入れて運ぶのに使っていた樽は、ネズタケの町で中身を空にして綺麗に浄化済みだけど、こちらも浄化し直す。

 今、馬車に積まれている食料や薪は、シトリに用意してもらったものだ。

 国境を越えてからの食事は硬き銀鋼の国の騎士団やネズラルグ候側が用意したものを食べているし、野営の準備も候側がしてくれたので、持ってきたものはほとんど減っていない。


「薪も湿気っていない。荷物も全部運び込んだし、いつでも出発できるぞ」

 最後に馬車の屋根に上り、屋根に積まれ、油をしみ込ませて撥水性を持たせた布をかぶせられた薪も確認してから、勇者姫様は体を起こし納得したようにうなずいた。

「保養所でも食事はネズラルグ候が用意してくれるのに、保存食を持っていくんですね」

 屋根から飛び降りた勇者姫様に尋ねたら、当然のように「はい」と言われた。

「子供の頃、私に戦いと狩りを教えてくれた師匠のトーマは、冬のテナグナヌク山脈で3日連続で獲物を得ることができなかった私の目の前で、自分が獲ってきたウサギをひとりで食べてしまうような意地の悪い人でした。あの時の寒さ、ひもじさは忘れられません。食料と薪は、可能な限り身近に置いておきたいのです」

 あー。シトリと一緒に旅してるときに、そんな話をしてたっけ。

「『世界一のじゃじゃ馬姫』は、そうして形作られたわけですな」

 ジェイドさんは深くため息をついた。

「一国の姫にする教育としてはどうかと考えますが、『姫巫女様』を守り魔女討伐の旅をせねばならぬ『勇者』としては、油断を招かぬための良い教育でございましょう。師匠殿に会うことがあれば、その思慮深さを讃える言葉を贈りたいですな」

「お前がトーマに会うのは、ずっと先であってほしいものだな――」

 勇者姫様足元に目を落としてそう言うと、顔を上げて笑った。

「きっと私の悪口で盛り上がるだろうから、私の目の届かないところでしてもらいたいものだ」

「わたくしとしては、ぜひ姫様の目の前で苦労を分かち合いたいものです」

「絶対に同席したくない。遠慮させてもらおう」

 苦笑する勇者姫様に、俺たちも笑った。



 湖の中の翡翠の巨岩に建つネズラルグ城と岸を繋ぐ石造りの橋を、ネズラルグ侯爵の馬車に先導されて進む。

 橋の岸側のたもとには、見送りのためか、ロレインを先頭に翡翠工房の職人たちが岸べりの低い石積みに沿ってずらりと並んでいた。ロレインのそばにはエディもいる。

 ネズラルグ候が橋を抜けたところで馬車を止めさせ、窓越しにロレインに声をかけていたときだった。

 侯爵の馬車が頭を向けているのとは反対側、ネズレクの町の方から革鎧姿の兵士が馬を駆ってやってきた。

「お館様! アレヴァルトからの使いが到着しました! 勇者殿へのお届け物だそうです!」

 馬車の窓から外を見れば、侯爵の馬車の近くで馬から降りた兵士が、ロレインがいる側とは反対側の馬車の扉を開けたネズラルグ候に筒状の羊皮紙を差し出しているのが見えた。

「シトリに頼んでいた手袋が届いたようですね」

 勇者姫様は嬉しそうに言った。


 アレヴァルトでスフェンが使った左手お守りを仕込んだ手袋。その原理を応用した、魔術の紋章を縫い取った手袋の製作を、勇者姫様はシトリに頼んでいた。

 完成したら追いかけて届けてくれると言っていたのが、今追いついたわけだ。


「ちょっと行ってきます」

 いそいそと、勇者姫様は御者台経由で馬車を降り、ネズラルグ候のところへと行ってしまった。

 使いはもうネズラルグの町の門まで来ているのだろうから、ここで受け取ってしまうのが手っ取り早いということなのだろう。

 俺とジェイドさんは、橋の上に停められた馬車の左手側の窓からネズラルグ候と兵士と勇者姫様の様子を見守っていたのだけれど。

 ヒヒヒーン。

 不意に、黒鉄の馬が高くいなないた。

「あっ!」と子供の声。

「エディ!」とロレインの声。

「きゃあっ!」「ああっ!」何人かの悲鳴。

 直後に、ざばん、と大きな水音。

 その水音に嫌な予感を覚えながら、俺は御者台に顔を出し、水音のした方――馬車の右手側へと目をやった。

 橋の縁を示すように並べられた石積みと、前に停まっているネズラルグ候の馬車の車輪との間に、エディがきょとんとした顔で座り込んでいた。さっき声が聞こえたロレインの姿はない。

 橋のたもとの岸に並んだ職人たちの目線は橋よりも下に向いている。

「奥方様が湖に落ちたぞ!」

 聞こえてくる声。

 落水事故?!

 一刻も早く伝えなければいけないことを伝えるため、俺は音の結界の外である御者台に身を乗り出し、大声で叫んだ。

「飛び込むな! 姫様も!」

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