第109話 青玉の聖杖
第五使徒との初戦の翌日、勇者姫様は朝から顔色が悪かった。
「大丈夫ですか?」と心配そうに訊ねるシトリに、勇者姫様は「大丈夫です」と屈託のない笑顔を見せた。
「お腹が痛いのは辛いですけど、気分は悪くないんです」
そう言ってレーズンのパンを口に運ぶ。
今朝の朝食は、赤いスープと、鹿肉のローストと、レーズンのパン。デザートは干しイチジクと、親指の先くらいの大きさのピーコと呼ばれる赤紫のドライフルーツ。
ピーコは中に細長い種が入った果実を丸ごと乾燥させたもので、ねっちりとした実の食感と濃い甘味が、ちょっと干し柿に似ていて美味しい。ただ、めちゃくちゃ甘いので、一度にたくさん食べるのにはくどい気がする。
なのに、勇者姫様はポンポンとそれを口に放り込んで食べている。
「それ、そんなに好きなんですか?」と思わず聞けば、「これまで食べたことがあるピーコは甘さがしつこくて、そこまで好きではなかったのですけれど――」と勇者姫様は小首を傾げた。
「おそらく、今、体が必要としている物なので、美味しく感じるのでしょう」
確かに、体が必要とするものへの味覚が鈍くなるってのはあるかもなあ。脱水気味で塩分が不足するとスポドリの塩気を感じなくなるしな。
「朝のうちに、騎士団と私の兵に、神官長様の魔術指導を希望する者の名簿を作り、今日の午後、明日の午前、明日の午後と、3班に分けるように指示しておきました。
西門内の広場に、天幕と椅子も用意させます。
準備が整いましたらスフェンを迎えに寄こしますので、よろしくお運びくださいませ、神官長様」
「承知した」
シトリの説明にジェイドさんがうなずき、朝食の席は解散となった。
ジェイドさんが結界を張ってくれた離れの二階。
昼食後にジェイドさんが魔術指導に出てしまうと、俺は暇になってしまった。
メモの整理は午前中にしてしまったし、午後の魔術練習も、自分ひとりでできることは終えてしまった。
シトリが退屈しのぎにと挿絵が沢山入った本を持って来てくれたけれど、この世界の文字は全然読めない。書き物机で開いてはみたけれど、挿絵を眺めるだけではすぐに読み終わってしまう。
多分、双玉の勇者と姫巫女の話が書かれているのだろう本は、印刷物ではなく手書きの写本のようだった。ひとつひとつの文字は縦横斜めの線の角度がびしっと決まっているけれど、同じ文字でも多少のブレがあって活字に見えない。水彩絵の具にも似たインクの濃淡があるから版画にも見えない。
挿絵には数色のインクが使われていて、黄金に輝く剣を掲げる金髪碧眼の男性や、青く輝く宝玉のついた杖を掲げる黒髪黒瞳の女性が、昔の宗教画のような平面的なタッチですごく丁寧に綺麗に描かれている。
文字は、アルファベットではなさそうだ。文字の種類は、アルファベットの26文字よりも確実に多い。ひらがな50文字よりも多いかもしれない。
自力で解読するのは無理だろう。教わっても読める気がしない。
読めない文字の本を眺めて楽しめる時間はそう長くはなくて、俺は本を閉じ、ため息をついた。
この世界に来るまで、こんな風に時間を持て余した覚えがない。
父親も母親も、ドラマも観るし音楽も聞くし映画も観るしアニメも観るしゲームもするし小説も読むし漫画も読むしと、大概のエンターテイメントに抵抗がないタイプだったので、家にはいくらでも面白いものがあった。
両親が子供のころから集めた漫画や小説のうち、子供が読んでもいいようなものは居間の本棚に置かれていて、俺たち兄弟は気が向けばそれらを読んで過ごしていた。
中学からはフィルタリングされてたけどスマホを与えられてた。田舎だから、駅まで車で迎えに来て欲しいとか、親と連絡を取るのに必要だったからだ。
アプリは勝手に入れられなかったし、交渉して入れたゲームも課金額は制限されてたけど、無課金で遊ぶ分には親は文句を言わなかった。
ネットにつなげられるスマホがあれば、暇なんていくらでも潰せた。むしろ時間が足りないくらいだった。
けれど、ここには何もない。
旅の間はジェイドさんや勇者姫様が話し相手になってくれたけど、今はひとりだ。
昨夜たっぷり寝たせいか、昼寝もできそうにない。
「さすがに退屈だな」
読書のあいだ膝に置いていた聖杖を手に、俺は立ち上がった。
この部屋でごろごろするとなったら、ベッドの上しかない。俺は仕方なく全身を浄化し、聖杖と一緒にベッドに寝転がった。
ふと横を向けば、顔の横に聖杖の青い宝玉があった。
ソフトボールサイズの宝玉は、弱い発光の魔術をかけたみたいに内側からほんわり光っている。この大きさ、水晶とか宝石の類だったら相当重いはずだと思うんだけど、実際にはそれほど重くないのが不思議だ。
じっと見つめると、青く透き通ったその内側に薄い模様が見えた。角度を変えてみると何層かの層状になっていて、それぞれの層にびっしりと読めない文字や幾何学的な図形が描かれているのが、ちらちらと見える。
どうやら、見る角度によってその角度に応じた位置の模様が見えるようだ。
文化祭の科学部実験ショーで見たサラダ油の中のビーカーみたいに、屈折率がすごく近いから境界面が見えないとかかな?
こんな構造だったなんて、気が付かなかった。
そういえば、聖杖をじっくり見たことなかったな。
俺は仰向けになって、聖杖を持ち上げた。
ねじくれて育った木をそのまま伐り出して樹皮を剥いたような聖杖の本体は、人の手の脂で磨かれたかのような独特の飴色をしている。木肌は滑らかだけれどつるつる滑るわけじゃなくて、持てばしっくりと手になじむ。素手で持つと、手の平に吸い付くようでちょっと気持ちがいい。持ってみると意外と軽い印象だけど、軽すぎて手から飛び出すようなことはない。
立って体の前に立てたとき握りやすい高さよりも少し上からぐっと太くなっている。握りやすい場所を杖の重心にするためかもしれない。このおかげか、かなり取り回しやすい。
できたらもう少し長くて重心が上の方が俺の体には合うんだけど、オーダーメイドというわけじゃないんだからそこは仕方がないところだろう。
先端は、杖本体から生えた5本のさまざまな太さのパーツが宝玉に絡みついている構造だ。有機的なラインで全部の方向から包み込んでいるので、平らな床に倒す分には、宝玉が直接床にぶつかることがない。よくできてる。
一部のパーツは床に置いたときに邪魔にならない角度で、宝玉の上の方にちょっとした出っ張りを作っている。それをフックにして高いところの物を引っ掛けて取ることができるのは、ガボーグの町で買い物をしたときに勇者姫様が使ったのを見たから知ってる。これ、最初からそう使えるように作られているのかも?
宝玉はしっかり挟み込まれているから、杖を壊さずに外すのは無理そうだ。
宝玉を挟み込んでいる部分は、削り出したり強引に曲げたりしているように見えない。素材が皮つきの木だったら、成長過程ではめ込んだ可能性もあるだろうけど、樹皮は剥かれているのに宝玉にぴったり接しているから、それはなさそうだ。
どうやってこの宝玉をはめ込んだのか、まるでわからない。
改めて宝玉をじっと見る。真正面から覗き込む中心近くは青く透き通っているのに、少し角度を変えると表層から何層かに分かれてる境目が端の方にちらちら見える。全体像を一度に見ることはできないけれど、部分的にものすごく細かい文字らしいものや図形らしいものが確認できる。
この文字、俺を召喚した魔法陣や、魔女の使徒の正体の翡翠細工の表面に書かれた文字と同じ系統のものに見える。
この世界で普通に使われている文字は、カチッとした線で構成されていると思う。ブロック体のアルファベットやカタカナの印象に近い。
対して青玉に刻まれている文字は曲線的で、ひとつの線に太いところと細いところがある。画数が少ないというか、英語の筆記体とか漢字の草書体とかみたいにいくつかの文字が繋がっているように見える。
魔女を倒すために勇者に与えられる力の源、姫巫女を召喚する魔法陣。その力を与える媒体の青玉の聖杖。その両方に、魔女が使役する使徒に刻まれているのと同じ文字が使われているのか?
どういうことなんだろう?
そんなことを考えていたとき、ノックの音がした。
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