第106話 羽根ペンは不便
「勇者様、姫巫女様、神官長様、何か足りないものはございませんか?」
夕食の席、アレヴァルトの館に来るまでのようにスフェンに給仕をさせて食事を共にしたシトリが、デザートのエッグタルトを食べ終えたタイミングでそう聞いてきた。
「ものを書きとめるための紙は、ありますか?」
勇者姫様が言った。
「姫巫女様のために用意していた紙が少なくなってきたので、私のわがままが利く国内で多めに補充しておきたいのです。羽根ペン用のガチョウか白鳥の風切羽根も欲しいですね。右利き用の左翼の羽根を頼みます」
「姫巫女様が紙に記録を残すということは、存じております。お部屋の書き物机に、ある程度の紙とインクと羽根ペンは用意しておりますので、ひとまずそちらをお使いください。この地を出立するまでに、まとまった量をご用意しておきます」
「たのみます。――ジェイド。まだ荷馬車は外していないのだったよな?」
「はい」
「ではこれから、馬車の繋ぎ直しに行こう。――ユウキ様」
勇者姫様が俺の方を振り向いた。
「食堂には片付けのメイドが出入りします。二階に結界を張りますから、ユウキ様は食後はお部屋でお休みください」
にっこりと綺麗な笑顔で勇者姫様は言う。
その笑顔にやっぱり何かが違う気がすると思いながら、俺は「はい」とうなずいた。
自分に割り当てられた部屋で、大理石ランタンを置いた書き物机に座り、俺はポーチの中からメモ用紙を取り出した。
書き物机の上には、何枚かのA4サイズくらいの紙と、蓋のついた小さなインク壺と大きな白い羽根ペンが立てられたペン立てが木のトレーにセットされていて、革の鞘に納められた小さなナイフも置かれている。羽根ペンのペン先を削り直すのに使う専用ナイフだろう。
この世界の羽根ペンは、大きな鳥の風切羽根の硬い軸を削ってペン先の形を作って、それにインクを付けて使うものだ。
しばらく使っていると、ペン先が摩耗したり、引っかかって折れたりしてダメになってしまうので、ナイフで削ってペン先を作り直す。
貴族は使用人が削った物をどんどん交換するらしいけれど、持っていける荷物の量が限られる俺たちの旅にはそういう余裕はない。ペン先が使えなくなる度に勇者姫様に削ってもらうのも悪いので、自分で削れるように練習しているんだけど、なかなか上達しない。
とりあえず、羽根ペンをペン立てから取り上げてみる。
先端は綺麗で、いかにも削ったばかりだ。これならそのまま使えるだろう。
俺は、この数日で書き込みをしたメモ用紙2枚と、未記入のメモ用紙を2枚、机に拡げた。
ポーチは内容量が決まっている。書き留めたメモ全部をポーチに入れて持ち運ぶことはできないので、メモの整理は必須だ。
「今必要な情報」を整理して1枚の紙にまとめ直し、「もう不要になった情報」は捨て、「持ち歩く必要はないけれど、後で見直すかもしれない情報」は別の所に保存するためにもう1枚の紙に書き写す。
実際のところ、要点を整理して書き写すという作業が記憶の定着に有効なので、メモを見直すことは殆どないのだけれど。
インク瓶の蓋を開け、ペン先をインクに浸す。
羽軸を斜めに削って尖らせ、縦に一本切れ目を入れただけのペン先は、インクのもちが悪いし、ペン先も引っかかりやすい。紙の質も現代日本基準ではあまり良くないので余計にひっかかるってのもあるんだろう。地味に不便だ。
手に持てば単体ですぐに筆記できる、鉛筆やシャープペン、ボールペンの便利さが身に染みる。
それでも、これしかないのだから仕方ない。
俺はところどころにインクの飛び散りを作りながら、メモを整理していった。
持ち歩く用のメモを書き終え、保存用のメモを書き始めたときだった。
ドアをノックする音と「ユウキ様、リアナです。少々よろしいですか?」という声。
「はい」と立ち上がり、俺は部屋のドアを開けた。
外にいた勇者姫様は、両手で俺用の荷物入れに使っていた箱を持っていた。
「着替えなどを持ってまいりました。入ってもよろしいですか?」
「はい」
勇者姫様は、ベッドの足元に箱を置いた。
「突発事態があるかもしれませんから、さすがに異世界の装束を着ていただくわけにはいきませんが、ガボーグの町で買った庶民女性の衣装であれば、コルセットもございますし、スカートも自然に広がります。体型を修正するための下着を脱いで、少しは楽に過ごすこともできるかと……。何かがあって急に外に出なければならなくなったら、姫巫女のローブを前を閉めずに着れば、十分体型が誤魔化せると思います」
「お気遣いありがとうございます。下着を脱げるのは、本当に有難いです!」
俺は心から言った。
リアナ姫の領地の館を出て以来、補正下着のコルセットを緩めることはあっても、脱いだことはない。本当にありがたい。
「……何をなさっていらしたのですか?」
書き物机に拡げたメモ用紙に気付いたのか、勇者姫様がそう聞いてきた。
「書き留めた情報を整理していました。何かあった時にすぐに確認したいものと、もう不要になったものと、すぐに必要ではないけれど後で必要になるかもしれないものとに分けて、書き直していたんです」
勇者姫様は書き物机に近寄り、俺の書いた紙に目を落とした。
「こんなに細かく、たくさんのことを書きとめていらっしゃったのですね……」
呟くように言うと、勇者姫様は思い切ったように顔を上げ、俺の方を振り向いた。
「ユウキ様は、何故、ここまで私に協力して下さるのですか?」
「何故――?」
「協力して下さることはありがたいのです。
ですが、ユウキ様は異世界からの来訪者。役目を果たせば、異世界に身ひとつで帰らねばならず、記憶以外の何を持ち帰ることもできないと思われます。
リアナ姫を演じる限り、歴代一位に並ぶほどに魔術に長けた姫巫女様である真実も歴史には残らず、使徒討伐・魔女討伐にどれほど貢献したとて、その名誉も賞賛も正しくユウキ様に与えられることはないでしょう。
以前、ユウキ様は『持ち帰るのは嫌な思い出ばかりではない』とおっしゃってくださいましたが、それだけのためにこれほどの労力をユウキ様が費やして下さるのは、やはり割に合わないと思います。
ユウキ様は、何を目的に、これだけのことをしてくださっているのですか?」
勇者姫様は真顔でそう言った。
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