第89話 鏡と失敗
朝食の席、刻んだ肉の入った野菜のスープと茹で玉子と中に穀物の入ったブラッドソーセージとパンを前に、勇者姫様は顔を上げた。
「確認したいのですが、第五使徒の縄張りまでの道の道幅は、どのくらいありますか?」
シトリにそう問いかける。
「どのくらいとおっしゃいますと?」
「馬車が方向転換をできるほどの道幅があるかということです」
「ああ」と納得したようにシトリはうなずいた。
「魔猿の縄張り近辺は、初戦の者を回収する荷馬車を転回させるために道幅を広くとってあります。ただ、勇者様がお使いの大型馬車がどこででも自由に転回できるほどの道幅はありません」
「ということは、初戦にオレたちの馬車で向かうわけにはいきませんね。では、荷馬車で構いませんので、オレたち3人が乗れる馬車の手配をお願いします。馬は黒鉄の馬を使います」
「馬ではなく、荷馬車ですか?」
シトリが目を瞬かせる。
「オレは、馬に乗れないので……オレの世界では、馬よりも便利な乗り物があったので、馬に乗る必要はなかったんです」
「そのように便利なものがあるとは、羨ましいですわ」
シトリは感心したように言った。
昨夜、宿坊のジェイドさんの部屋で第五使徒との初戦対策について3人で話し合った。
「体に触れられて女装・男装がバレないように、使徒との初遭遇後、自力で速やかに砦まで帰還する方法」に頭を悩ませた結果、「黒鉄の馬に使徒との遭遇後何かをきっかけに自動的に砦まで帰るように命令し、黒鉄の馬の引く馬車で使徒と対峙する」というアイデアを何とかひねり出したのだ。
使徒の縄張りのどこでも俺たちの馬車でUターンができれば簡単だったのだけど、やっぱり駄目だったか。
その場合、小回りの利くサイズの荷馬車の用意をシトリに頼むというところまでは、打ち合わせ済みだ。
「では、一頭立ての荷馬車を、新品の車輪で用意しましょう」
「できたら、呆然としているときに間違って荷馬車から落ちぬよう、荷台を柵で囲ってもらえるとありがたいです」
勇者姫様が言えば、シトリは目を丸くした。
「それは……罪人のようになってしまいますわね」
そう言ってから、ふふっ、とシトリは笑った。
「まあ、こんな髪型の私が言うのもなんですけれど」
「どういう意味でしょう?」
勇者姫様が小首をかしげる。
「この世界では、女性の罪人は人並みに結い上げられぬように髪を短く切られます。私は、戦いの最中に結い上げた髪が解けると視界を遮り隙となってしまうために、切っておりますが」
「シトリ殿は、後ろ髪を残すことで『罪人ではない証』となさっておるのですよ、『ユウキ殿』」
ジェイドさんが「勇者」に説明する体を装って、俺に説明してくれる。多分、勇者姫様が「どういう意味か」とシトリに尋ねたのも、同じ意図からだろう。
俺の髪型は刈り上げないベリーショート、地毛の黒髪だ。瞳の色も日本人らしい濃い褐色。
瞳の色や髪の色も問題だが、この世界の女性としてはありえないほどに短いから髪の毛は絶対に隠せと、出発前にマイアさんからしっかり言い含められた。
万が一、瞳の色に言及されたり頭巾が外れたり場合には、『勇者に聖杖の力を与えているうちに、次第に目の色と髪の色と長さが勇者と入れ替わった』と説明することになっている。
なるほど、この世界にはショートカットの女性は罪人という常識があるわけだ。
マイアさんが俺の髪の毛に関して「ありえないほど短い」と言った意味が、ようやくわかった。
だから、俺はしっかりこの短い髪の毛を隠さなければいけないわけだ。
この世界に来て1か月と少し、1センチくらい伸びたとはいえ後ろで結べるほどではない。
けれど、前髪やもみあげも伸びていて、頭巾から髪がはみ出しやすくなっているわけで、これまで以上に気を付けなければいけない。
「他に、必要なものはございませんか?」
シトリが聞いてくるのに、俺はこれ幸いと思った。
「使徒討伐とは関係のない物だけれど、いいかしら?」
俺が口を開けば、ちらと勇者姫様がこちらを見る。
「持ち歩けるほどの小さな鏡が欲しいの」
「鏡……」
シトリが、目を見開く。あれ?
「――――はい……はい。館に行けば、お渡しできますわ」
なんか、返事がかえってくるまで、やけに時間がかかったんだけど? 「OK! そのくらいお安い御用ですよ! 用意しときますね!」って軽さが全くなかったんだけど?
もしかして、失敗したかも?
「助かるわ。よろしくお願いね」
内心で冷や汗をかきながら、俺はそう言った。
「鏡とは……自分が滅多に使わないものなので、すっかり失念していました」
ごとごとと次の宿場に進む馬車の中で、勇者姫様はため息をついた。
貴族の子女の支度は召使いが手伝うのが当然らしい。変なところは召使いが直してくれるから、鏡なんか要らなかったんだろう。
ちなみに、旅の間は三人で、お互い変なところがないかチェックし合ってる。
「鏡が欲しいというのは、そんなにおかしなことでしたか? この先、頭巾から髪の毛が出ていないかを自分で確かめるためにも、持ち歩きたかったんですが……」
俺が言えば、ジェイドさんが苦笑する。
「ユウキ様は、この世界で鏡を見たことがございますかな?」
「姫様の離宮で、大きな姿見を見ましたが……」
あれ? そう言われれば、それ以外に見たことがない気がする。
夜の宿坊で、外が暗くなったガラス窓に映った自分の顔を目にすることもあったから、旅の間に自分の顔を見たことがないわけじゃないけど、確かに鏡は見ていない。
浄化の魔術があるせいで、この世界の屋敷には風呂や洗面所がない。トイレにも手洗いスペースがない。
さらに言うなら、浄化の魔術があるために、貴族女性であっても日常的に化粧する習慣がない。おそらく、浄化すると、化粧も落ちてしまうからだろう。だから、化粧直しをする習慣もない。
俺たちが泊まる宿坊は、宗教施設だから贅沢品がない。その理屈で鏡もないのだと思っていたけれど、もしかして、違うのか?
「あの姿見は、私の母の婚儀の際、硬き銀鋼の国から送られた祝いの品です。最先端の技術で作られた、値段もつけられない最高級品です」
勇者姫様は言った。
え? いや、あの姿見、確かに豪華なフレームがついてたけど、そんなにすごいものだったの?
「この世界には、金属鏡と鏡、二種類の物を映す道具があるのです」
金属鏡って、あれか。銅鏡とかの、金属をピカピカに磨いて作る鏡。
「金属鏡もガラスの鏡も、同じ鏡じゃないんですか?」
「この世界の言葉では、同じではありません。金属鏡は『テ、メ、ナ』と呼び、鏡は『メ、セ、ル、テ、メ、ナ』と呼びます」
自動翻訳を回避するため一音ずつ発音し、勇者姫様はふたつの単語を教えてくれた。
日本語の単語と比べて金属鏡の方が音節が少なく、鏡の方が音節が多い。なのに自動翻訳では唇の動きに違和感が無いのが不思議だ。
「我が国では金属鏡が一般的です。鏡……ガラスで作られた鏡は、硬き銀鋼の国がその製法を独占しているため、大変に希少なものなのです」
こちらの世界の言葉で、明確に呼び分けている金属鏡とガラスの鏡。
俺がガラスでできた鏡をイメージしながら「鏡」と日本語で発音したので、ご都合翻訳がそのイメージを汲んでこの世界で一般的な金属鏡を意味する単語ではなく、ガラス製の鏡を意味する単語に変換したわけか。
「持ち歩けるような鏡は、大貴族の家にひとつ、あるかないかというほどのものです。ある場合は、何かの褒美に王家から贈られ、家宝として大切に保管されている物でしょう」
げ。
そんな貴重なものを、用意しろって言っちゃったんだ、俺。
「すみません。余計なことを言いました」
「いえ、常識が違うのですから、仕方がありません。持ち歩ける鏡が必要というユウキ様の意見もわかります。実際に必要なものの入手が遅れる方が問題ですし、あそこで自分の姿を映す物が欲しいと要望するユウキ様の判断は、決して間違っていませんでした。たまたま、金属鏡と鏡という区別のある言葉のせいで、言葉を通じさせる加護が都合悪く動いてしまっただけです」
勇者姫様は言った。
「旅の間の食事にシトリが同席することは、拒否しようすればできました。同席しても『リアナ姫』はだんまりを通すという選択もありました。
多少の危険を承知でシトリと食事を共にし、ユウキ様にリアナ姫として会話していただくことを選んだのは私です」
勇者姫様は目線を落として自嘲するような笑みを浮かべた。
「もとはと言えば、私がシトリへの興味を抑えきれなかったことが原因なのです。真実、ユウキ様に責のあることではありません」
気を取り直したように勇者姫様は顔を上げ、俺に綺麗な笑顔を見せた。
「母――王妃は持ち運びできる鏡を持っていました。それを相続したリアナ姫が、鏡を普段使いしていたということはあり得ます。『自分が使っているのが鏡だから、つい、金属鏡という言葉ではなく、鏡という言葉を使ってしまった』と理由付けはできます。本当にお気になさらすに。これからも、必要と思うものは必要だと口にしてくださいませ」
ここで、「気にしないで」だけでなく、「これからも口を出してよい」と言ってくれるのが配慮だよなあ。
「さて、実際の対処ですが」と勇者姫様の言葉に、俺は我に返った。
「ひとまずシトリの用意する鏡を受け取り、この先の硬き銀鋼の国で相応の品を入手し、シトリに贈ることにしましょう」
勇者姫様が言うけれど。
「……それ、どのくらいのお金がかかりますか?」
恐る恐る聞いてみると、「意匠にもよりますが、レオン金貨20枚というところですかな」とジェイドさんが言った。
レオン金貨1枚が50万円相当だから……
「いっせんまんえんっ!」
俺は悲鳴を上げてしまったのだった。
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