幕間
力は再び
「お父さん、今なんか言った?」
桜はそう尋ねる。だが父は「何も言ってないよ」と返事をした。
「……そっか」
リビングで学校の宿題をする桜。夕飯の支度をするためにキッチンに立つ母の背をじっと見る。
「お母さん、冷蔵庫に大根は残ってるよ。あと少しだけど」
「え……今なんて……」
「大根なら残ってるよって言ったんだよ?今、お母さん言ったでしょ?“大根あったっけな~”って」
母に歩み寄り、桜は冷蔵庫を開ける。野菜をかき分け、底のほうに眠る大根を手に取った。確かに少しなら残っている。
「はい、どうぞ」
それを母に手渡すと、彼女は少し訝し気な顔を桜に見せた。
「いらないの……?」
半ばひったくるように取った母を、驚いた眼差しで見つめる桜。
「お母さん……?」
そう声を掛けるも、母は返事をしなかった。
聞こえていなかったのかと、桜は宿題のためにリビングへと戻る。
そんな二人の様子を父はじっと見ていた。
「桜、お前まさか……力が戻ってるのか?」
そう尋ねる父に「何のこと……?力ってなに……?」と、目を丸くさせた。嘘をついているようには思えない。だが、確かに違和感は感じる。事故に遭い、目が醒めてからの息子の様子はどこかおかしい。
「僕……どこかおかしい?」
唐突に尋ねる桜に、父は口を堅く結んだ。
*
その晩、桜が眠ってからと言うもの、両親は息子の話を止められなかった。
「やっぱりあの子……戻ったんじゃ……」
母は自らの肩を抱きながら、震える声でそう言う。
「俺もそう思っていたよ……事故のせいで力が戻ったとしか思えない……」
「今日もあの子、大根を……。私何も言ってなかったのに……」
昼間の出来事を二人で話す。
「もう一度……消してもらうか……」
「そんな、二回もしてくれると思う?一回目の時だって、快く消してはくれなかったじゃない!二回も連れて言ったらなんて言われるか!」
「大きな声を出すんじゃない……もし起きてきたら……」
感情の高ぶりで大声を出した母を抑える父。
「……沙織、やっぱり消してもらおう。じゃないと、あの子はこの先も普通の生活を送れなくなる。俺たちだって、普通の生活は送れないぞ?」
母……沙織にそう話す父。
「でも……なんて言って連れて行くの?」
「また眠っている間に……」
「あの時とはわけが違うじゃない……桜だってもう小学六年よ?眠ったあの子を抱いて連れていけるわけないじゃない……」
沙織は頭を抱えるようにして、テーブルに倒れこむ。
「沙織、あるとすれば一つだけ方法が……」
*
それから一週間、両親は桜に感じ取られないようにと気を使いながら生活していた。その違和感を、彼が感じていることに二人は気付いていない。
「桜、今日は早めに夕食にしような。終わったら映画でも観よう」
父……健太郎はそう声を掛けた。
「何の映画?」
「ダイナソー・パークとかどうだ?」
「恐竜!?ほんとに!?」
桜は喜んだ。
テーブルに夕食が並ぶ。
「さあ、食べようか」
健太郎が声を掛けると、桜は目の前の生姜焼きに手を付ける。それを見ていた沙織もまた、箸を手にした。
夕食を食べ、桜はDVDをセットする。
「お父さん!用意したよ!」
自分に普通に接してくれる父が大好きな桜。
「お母さんも一緒に観ようよ」
そう声を掛けると、沙織は「うん、観ようか」と答えた。その言葉で桜はたちまち笑顔になる。
「ポップコーンとジュースもいるでしょ?」
母が持ってきたそれを手に、桜は両親に挟まれて目の前のテレビにくぎ付けになる。
「このテーマソングでもうドキドキするよね!」
そして、ジュースを一口、ポップコーンを一つと口に運ぶ。
映画が始まり、わずか三十分。桜はいつの間にか寝息を立てていた。
「眠ったな……」
「ええ……」
ジュースを下げる沙織。流しにコップを置くと、シンクに置いた薬の包装シートを見る。
【小児用睡眠薬】
シートにはそう記されている。
ソファでぐっすり眠る桜を、健太郎は抱きかかえた。
必要最低限の荷物を手に、二人は桜と共に家を出る。
*
「お待ちしていました……」
巫女装束に身を包む女性が、少しばかり悲し気に二人を招き入れる。
「力が……戻ったようなんです」
「ええ、私もこの子の力を感じています。眠っていますが、わずかに力を発しているようです」
巫女がそう言うと、母は突然泣き出す。
「あなた、前に消してくれましたよね……?どうして……戻ったんですか……」
「以前、この子の力を消したときに申し上げたと思うのですが……。この子の力は強大です。必要だと思ったら、力は戻る可能性があると、そうお伝えしました……」
彼女はそう説明する。
「だとしても、たった三年しか持たないなんて……」
「力を消してから今日までに、力が戻ってしまうきっかけがあったはずです。この子の記憶を見させていただいても構わないですか?」
巫女がそう尋ねると、健太郎は了承した。だが、沙織は「記憶ですか……」と少し、不本意そうだった。
それもそのはず。自分が邪険にしてしまったことまで見られてしまったらと懸念を抱いていたのだ。
「私はこの仕事をしていますから、今まで……様々な記憶を見させていただいてきました。どんなことが映ろうとも、私は何も言いませんから」
何かに感づいた巫女がそう言う。
沙織は渋々了承し、巫女は静かに部屋の準備を始めた。
照明を消し、ろうそくを灯し、部屋を薄暗い状態に保つ。香を焚くと、部屋には落ち着く香りが広がった。
「それでは始めさせていただきます」
巫女は桜の額に手を置くと、「あなたの記憶を見させていただきます……“潜”」と唱えた。
桜の中の記憶は、複雑だった。
“楽しい”“嬉しい”の記憶はもちろんあるが、どちらかと言うと“悲しい”“寂しい”の記憶が多かった。
まるで映像を目にするかのように、巫女は桜の記憶を掘り下げていく。
すると、きっかけとなった事故の記憶がそこにはあった。
「これか……」
巫女はそう呟くと、事故当時の記憶をのぞく。
学校帰り、信号が赤の交差点に桜は立っている。
隣には同級生であろう少年の姿があった。
「今日の算数難しくなかった?」
桜がそう尋ねると、少年は「分かる!めっちゃ難しかったよな!」と答える。それからも算数が難しかった、体育は楽しかったけどドッヂボールがしたかったなどと、子どもらしい会話が続いた。
信号が青になり、二人が交差点に足を踏み入れた時、右から走ってくるトラックが桜の視界に入った。
「危ないっ!」
桜はとっさに友人を突き飛ばした。
やや後ろに倒れこむ友人の姿を最後に、桜の視界は赤く染まった―――。
しばらくの暗闇が続き、滲む視界が開ける。
「僕……」
「良かった、気が付いたね」
桜の視界に映るのは、病院の医師だった。
「病院……?」
「そう、桜くんは怪我して病院にいるんだよ」
「そっか……」
再び、桜の視界は暗くなった。
だが、体が熱くなるのを彼は感じている。身動きすら取れず、ただ心拍が速くなり、体が熱くなり、息苦しさを覚える、小さな体で何とか耐えている記憶。
現実でそれを感じている巫女もまた、動悸を感じていた。
沸々と、腹の底に広がる得体の知れない感覚。
それが体に広がったとき、桜はすうっと力が抜けた。
だが、再び視界が開けると、世界が違って見えた。
医師が言おうとしていること、看護師が自分を見て感じていること、そして両親の感情でさえ、手に取るように分かってしまう。
だが、過去の記憶を消されている桜はそれを何とも思わなかった。
それからは“嬉しい”と“悲しい”と記憶が交互に桜に降りかかる。
巫女は彼の記憶から戻った。
「きっかけとなったのは、交通事故でした……。それが原因のようです。……どうされますか?」
彼女は両親に尋ねた。
「消してください」
母はそう伝える。だが、「消しても、また戻るかもしれません」と彼女も譲らない。
「消さないと、私たちは普通の家族になれないんです!この子がいる限り……苦しさしかないんですよ!」
涙ながらにそう話す沙織。
「以前もお伝えしたかとは思いますが……この子の力は、私たちなどが太刀打ちできるほどの力ではありません。ずっと強力で、力を消しても、ほんの少しのきっかけさえあればまた戻ってしまう。この子のことは、ご両親にしか決断はできません。私なんかが口を出せるものではない。そんなことは分かってます……ですが、消しても戻るのなら……消さない方が良いのかもしれません……力を消すということは、力に少しでもかかわりのある記憶でさえも消えてしまうんです。この子は、日常のほとんどに無意識で力が関わっています。そうなると……普段の記憶でさえも一緒に消えるのです……」
巫女はそう伝える。
だが、両親の決心は固かった。
「それでも構いませんから……消してください……」
そう口を開いたのは健太郎だった。
「……分かりました。ですが、完全に消えることはないとそう思っていてくださいね。この子はきっとまた、力を手にする日が来ます……」
巫女は桜の額に手を当てる。
ごめんね……でも、許してね……。そう心の中で呟く。
あと少しで消える。巫女が最後の力を込める。
「う……うう……」
桜の体が急激に強張る。
巫女は手を離せない。中途半端に離すと危険だと知っているからだ。
「う……や……やめ……うう……」
抵抗しているのか、消したはずの力が戻ってきてしまう。
思った以上の力だった。巫女が渾身の力を込めるが、それすらいとも簡単に跳ね返してしまう。
「もうやめてーっ!」
桜は叫んで目を覚ました。
「もういいよっ!お父さんもお母さんも、そんなに僕が嫌なの!?力があると、そんなにいけないことなの!?」
涙ながらに訴える桜。
「桜……父さんたちは、お前のためを思って……」
「僕のためじゃない……自分たちのためだ……二人は僕が嫌いなんでしょ……怖いんでしょ?自分たちにはないのに、僕だけが持ってて。お母さんなんていつも僕を怖がってる。だから、僕に薬を飲ませてここに連れてきたんでしょ?全部知ってるよ……お父さんもそうだ。これを提案したのはお父さんだもんね……こうするしかないって思ってる。今だってそうだ。僕が言ってることが当たっているから、二人は怖がってる……ううん、気味悪がってる。そんなに僕が嫌なら、消えてあげるよ……二人には見つからないところに行ってあげる」
桜はそう言った。
そして一人、部屋の隅へと歩いて行く―――。
「君、そこは……」
部屋の隅に控えていた巫が声をかける。
「知ってるよ。ここは“異界”に繋がる場所なんでしょ?僕には視えてる……」
そっと手を触れる桜。巫は手も口も出せない。
それもそのはず。ここを開くには自分や巫女の力が必要だから。それをわずか十二歳ほどの子どもが、自分の力だけで異界を開こうとしている。
ほんの数分後、そこにはぽっかりと口を開いた黒い闇。
「ここに行けば……二人の前から消えられる……僕はもう疲れた……」
足先をそれに入れる。何とも言えない、気持ちの悪い感覚が体にまとわりつく。
足が闇に飲み込まれかけた瞬間、その腕を掴んだのは巫だ。
「そっちへ行ったら帰ってこれない……君は、きっと後悔する」
「しないよ」
「子どもだから分からないんだ!君は後悔を知らないだろ?」
「知ってるよ……事故に遭った時に、生き返らせてって言わなきゃこんな気持ちにならなかった……もう一度、お父さんとお母さんのところに帰りたいって言わなきゃ、僕は今頃……それが僕の後悔だよ……」
彼らのやり取りを見ていた巫女は一筋の涙を流した。
けれど、両親だけは違っている。
畏怖の目、訝し気な視線、恐怖におののく体。どれもが桜に向けられている。
「ば……ばけものよ……やっぱりあの子は私たちの子じゃないっ!化け物の子だったのよっ!」
沙織は狂気に叫び、その場に崩れ落ちる。
「ほらね……僕はやっぱり必要ないみたいだ……」
桜は巫の手をそっと払い、闇へと体を滑らせた。
「本当にいいんですか!?あなたたちが止めないと、彼は本当にここから消えてしまいますよ!?止められるのはあなたたちだけだっ!」
巫は桜の腕を再びつかみ、両親に叫んだ。
「なんなんだよ……あんたらも、桜もおかしすぎる!お前たち、本当に人間なのかよ……」
健太郎は妻の腕を取り、立たせると同時に足早にその場を去っていく。しばらくして、スキール音と共に車を走らせる音が聞こえた。
「……桜くん、彼らはいなくなった。だから、君が消える必要はない……だから、おいで、こっちに戻っておいで……」
巫は桜の腕を引き、連れ戻した。
桜を引き戻すと、すぐに“異界”を閉じた彼。そっと桜を胸に抱き、「辛かったね……僕たちの境遇は誰にも分かってもらえない辛さがある。大丈夫、僕も彼女も君の味方だから……守るから……」
桜は声をあげて泣いた。初めてかもしれないと自分でも驚くくらいの涙としゃくりあげる声。
それを巫は静かにじっと背中をさすり、抱いた。
「静……頼む」
巫は巫女をそう呼ぶ。
「ええ……」
桜の背に手を当てた巫女。
「“彼に癒しの光を……”」
巫女がそう言うと、桜を温かな光が包む。
「あとは……あの方に任せましょう」
二人は、すやすやと寝息を立て、安心した顔の桜をある教会へと連れて行った―――。
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