第1話

 息が切れる。

 無駄なほどに広いこの屋敷の中を私は走って、逃げていた。別にそんなに滅茶苦茶走り回ったというわけではなく、緊張のせいで心臓が激しく脈打っており、そのせいで少し走っただけで息が上がってしまっているのだ。運動不足というわけではない。決してない。

 すっかり日が落ちて暗くなった廊下には、まばらにしか明かりが灯っていないせいでよく見えないがとても高価そうな絵やら壺やらが飾ってある。下に敷かれている赤い絨毯は、私が普段使っているベッドなんかよりも明らかにふかふかで肌触りがよさそうで、こんな状況でなければすぐにでもその柔らかさを、気持ちよさを確かめるのに!

 だが残念ながら、今の私にそんな余裕はなかった。

 私は今、この屋敷の主である領主に、詳しくはその使用人であろう者たちに探されていた。

 無理やり屋敷に連れてこられた後、閉じ込められていた部屋から上手く抜け出せたはいいが、この屋敷は想像していたよりもずっと広く、窓は開かず、外へ出る道も分からずに屋敷の中で迷っていた。屋敷の中で迷うとか意味が分からない。なんでこんな広いのか、ここの屋敷の主は馬鹿じゃなかろうか。それとも領主の屋敷というのはどこもこんなに広いのが普通なのだろうか。

 そうやって右往左往している内に逃げ出したことがばれて、急いで動き回る羽目になっていた。

 人の声や足音のしない方へしない方へと移動していく。現在は日が落ちて大分経っているからか、あまり人の気配は多くなかった。

 どこに行けばここから出られるのだろう……。

 どこまで続いているのか分からない屋敷の中を走ったり物陰に隠れながら考える。連れて来られた時に道順を覚えておけばよかったのだが、その時はそんな冷静に考えてるような余裕はなく、今はとにかく人に見つからないように進みながら外に出れそうな場所を探すしかなかった。

 何度目かになる曲がり角に近づき、そっと先を覗くとそこは行き止まりだった。一瞬愕然とするが、すぐに引き返す。しかしその足もすぐに止まった。足音が聞こえていた。一人ではない。動揺していて正確な人数は分からないが複数いることは確かだ。袋小路。もう駄目なのかと、自分がここにいる理由になった男の顔が心に浮かんでしまい絶望が心を蝕もうとする。が、首を振りなんとか気持ちを持ち直す。

(隠れなきゃ!)

 行き止まりの廊下に戻る。左右に扉があった。ここに来るまで開かない扉ばかりだったが、空きますようにと願いながら左の扉を開ける。が、中は特に隠れられる場所のない空き部屋だった。

(なんで!?)

 悲鳴にも近いその思いを言葉にするのを耐えて、すぐに反対側の扉を開けた。

 今度も開いたその扉の先はかなり大きな部屋だった。明かりは無く、薄暗い。窓から漏れる月明かりだけがわずかに部屋の中を照らしている。部屋の中には色々な物が所狭しと置かれていた。大きいものから小さいものまで雑多に置いてある。倉庫、なのだろうか? 中に入り扉を閉めて、入口からは見えないであろう奥にあった棚の物陰へと隠れる。

 壁に背中を付けて大きく息を吐くと、ずるずるとへたり込んでしまう。肩が上下して息は切れて、心臓が激しく脈打っていた。こっそり移動するのがこんなに緊張するものだとは思いもしなかった。息を落ち着けようとしながらなんとなく目の前の棚に目を向けると人の顔がこちらを見ていた。

「っひ!」

悲鳴を上げそうになるのを何とかこらえる。先ほどよりもさらに心臓の鼓動が早まる。外に音が漏れてるんじゃないかと思うほどバクバクと音が聞こえる気がする。

口を手で押さえながらじっとその顔を見ているとおかしいことに気付いた。目の前のその顔も口を手で押さえている。

鏡に映った自分の顔だった。思いっきり、でも静かに息を吐き出す。改めて目の前に映った自分の顔をよく見るとひどい表情をしていた。しかめっ面というか、すごく文句を言いたそうな顔だ。肩口まで伸びている明るめの茶色をした髪はぼさついており、深く濃い緑色をした瞳はじっと自分の姿を見つめている。と、外から聞こえてくる音がかなり近くになっていたので鏡から目を離し立ち上がる。

 胸を押さえ、じっと耳をそばだてていると、足音がすぐそこまで来ていた。

(引き返して!)

 必死にそう願うもその願いが聞き届けられる筈もなく、すぐに扉は開かれた。

 扉の開く音と一緒に何人かの人間が中に入ってくる。人の気配はゆっくりと、私のいる場所へと近づいてくる。

(どうしようどうしようどうしよう!?)

 近づいてくるその足音から逃げたかった。だが逃げれる場所はない。隠れられる場所も見当たらない。パニックに陥りそうになる自分を必死になだめ、どうするか必死に考えていると入ってきた誰かの声がした。

「ったく、領主様の趣味に付き合わされるのは毎度毎度面倒ったらないな」

「まったくだ。わざと連れてきた村娘を逃がして、俺たちに探させるなんてな。自分で探せってんだ」

「兎をわざと逃がして捕まえる。何が楽しいんだ?」

「……おい、滅多なことは言うな。さっさと奥まで探せ」

少なくとも三人の男がそんな話をしながら自分の方へと近づいてくる。自分が部屋から出られたのは相手の思い通りの行動だったのだとして愕然とする。

「はいはい、了解であります。どうせ逃げられる場所は決まってるしな」

もう目の前というところまで気配が近づいてくる。

ふと、目に付く物があった。何個も並んで置かれているやたらと高価そうなその壺。

(こうなったら……)

 やることは一つしか思い浮かばなかった。音を立てないようにそっと壺を一つ持ち上げる。これ一つが一体どれほどするものなのか、生唾を飲み込む。

 息を潜めて頭上に壺を掲げる。構えていると一人がすぐそばまでやってきた。

 一歩、また一歩と近づいてくるその足音と共に、私の心音もドクン、ドクンと上がっていく。

 つま先が見えた。その瞬間、思い切り壺を振り上げ相手の前に躍り出る。こちらに気付き驚愕に見開かれる相手の目、その顔へと力一杯壺を叩き付けた。

(ごめんなさい!!)

 もちろんそれは相手の男へではなく、振り上げられた高価そうな壺に対して。

 男の額を打つ鈍い音を、壺の割れる激しい音が掻き消し、破片が飛び散る。悲鳴も上げられずゆっくりと崩れ落ちていく黒服の男。音に気付きこちらへと向かってくる他の二人に、次々と壺を掴んでは手当たり次第に投げ付けていく。

(この! この! この!!)

 必死だ。今にも泣き出しそうな心境だった。それでも泣かずにひたすら投げ続ける。

 しかしすぐに投げ続けていた手を止めた。いつの間にか人の足音も聞こえなくなっていることに気付いた。そっと様子を伺ってみると最初の一人と他にもう一人が頭と顔を抱えて倒れていた。三人目の姿は見当たらない。他の人間を呼びに行ったのかもしれない。

 うめき声をあげて倒れている男の頭にもう一度壺をぶつけようかと考えてそっと近づこうとすると、急に視界がぶれた。

「んぐっ!?」

 手から壺が落ち、派手な音を立てて割れる。

 一瞬何が起きたのか解らなかった。額と鼻が激しく痛み、すぐに自分が引き倒され、うつ伏せに押さえ付けられたのだと気づいた。後ろに腕をとられ、背中に乗られて胸が圧迫される

「かはっ」

 息がこぼれる。抜け出そうともがくも、びくともしない。どうやら最初に壺をぶつけた男に捕まったらしかった。その男は私を押さえ付けたまま倒れているもうひとりに何かを言っていた。ふらふらと頭を抱えてその男が部屋から出て行く。

「ふざけやがってくそが、おとなしくしてろ!」

 そんなこと言われておとなしくするはずもなく必死にじたばたともがいていたが駄目だった。

 ……重い、苦しい……。

(何で私がこんな目に……!)

 私が何をしたというのだろう。ただ村で静かに暮らしていただけなのに……。なんでこんな………………決まってる。そうだ、あいつのせいだ。

 今朝、突然私の所に来たあいつ。あんなのが領主様だなんて! あいつの所為でこんな目に遭っているのだ。あの豚男……! いきなり目の前に現れて、なにが、今日からお前は私の妾にする! だ!! よくもこんな……!

 目まぐるしく変わる状況にずっと混乱していたが、これまでに起きた事を改めて思い出すとその理不尽さに、ふつふつと腹が立ってきた。

 そして――

 キレるのは早かった。

「こっの! ふっざけないでよ! 私が何したってのよ!! どけ! 馬鹿! 変態! ロリコン! …! …! …!? ……!!?」

 ぎゃあぎゃあと自分でも何を言っているのか分からない位、息が切れるまで滅茶苦茶に喚き続けた。

 いい加減に苦しくなって喚くのを中断すると、急に部屋が明るくなり一人の男がやってきた。

 気色の悪い笑い声が響く。

「ぐっふふふ、よ~くそんな大きな声が出せるのうぉ?」

 その声を聴いただけで鳥肌が立つ。視線を上げるとそこには案の定、私のことを妾にすると言い放ったあの男が立っていた。

 50歳を越えているであろうその男をなんて形容すればいいのだろう。ぶよぶよに太って脂肪だらけのその顔と腹。禿げ上がった頭に、ニキビだらけの顔。脂汗。ニヤニヤとしたその目。そして私の体を舐め回すように見るその視線。

 はっきり言ってもう全てが気持ち悪かった。

「ダメじゃないか、逃げたりしたら。ん?」

 近づいてきた男がそう言ってしゃがみ込み、私の頬に手を伸ばし、ゆっくりと撫でてきた。

 ざわっと、更に鳥肌が立ち、悪寒が走った。

(気持ち悪い!)

 脂汗に塗れた手で自分の頬を触られるのは、拷問に近かった。こちらが嫌がっているのをまるで楽しむかのように手が動く。

 ウネウネと気持ち悪く動くその手を、噛み切ってやりたかった。しかしそんな自虐じみたことはしたくもなかったのでかわりに顔を動かして振り払いその手に唾を吐きかけた。

「…触らないで……!」

 言葉と共に思い切り睨み付ける。精一杯の抵抗。だがその抵抗はどうやらこの男のお気に召さなかったらしい。顔からにやけた笑みが消え、声が一段低くなる。

「……ふむ。どうやら、自分の立場を分からせなければならないようだのうぉ」

 そう言ってそいつは私を押えている男に何らかの合図をした。次の瞬間、髪を引っ張られ無理やり立たせられた。

「っつ!?」

 痛みに顔をしかめた私のあごを、伸びてきた手がぐいっと持ち上げ、息が吹きかかるほど近くその男は顔を近づけてきた。くさい。

「自分が今どういう立場なのか教えてやろう。……やれ」

 男がそう命じた瞬間、私は着ていた服を引き裂かれた。

「――っ!?」

 力任せに引き千切られた服が床へ散り、上半身が露になる。簡素な下着を身につけただけの私の体の上を、男の視線が走る。

 一瞬で顔が真っ赤になり、腕で隠そうとするがその腕は掴まれていて動かせない。

「立場だけでなく他にも色々と教えてやろう。たっぷりと、な」

 ニヤニヤとした笑みを再び浮かべて、男はその汗に塗れた手を、今は下着しか身に着けていない私の上半身へと伸ばしてくる。

 ゆっくりと近づいてくるベタベタな手。その手が私に触れようとした瞬間――

 

「っいやああああああああああああああああ!!」

 硝子の砕け散る音が響き渡った。

 

 私の叫び声と硝子の砕ける音が響いたのはほとんど同時だった。

 割れた硝子の破片が辺りに散らばり、風が部屋の中に吹き込んでくる。蝋燭の明かりは吹き消され部屋の中が再び薄暗くなる。

 私を掴んでいた男の手が離れ、私は前に倒れ込んだ。何が起きているのか分からない。ゆっくりと、私は硝子の割れた音がしたほうに振り向いた。

 割れた窓の前、砕け散った硝子の破片の上に、一人の男が、一振りの真っ黒な剣を手に下げて立っていた。

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