4週目
21日目(日曜日 仮)薪ストーブの部屋の午後「D」
「相手不足でしょうけど、
白い部屋から帰って来て、黒い服の男への第一声を私はこう切り出した。
黒い服の男は、私に一瞥だけくれた後、9個のボールをラックして、そして、ストールに座った。
「やっていただけるんですか?ありがとうございます」と私が言うと、黒い服の男は、いつの間にあつらえたのか、壁にあるキューラックを指差した。私は、ブレイクしろ、という意味に受け取ってキューラックに近付くと、黒い服の男のキューとは別のショーンキューと、その隣に、装飾があまり施されていない黒っぽいキューがあった。おそらく、ブレイクキューだと思った私は「これはブレイクキューでしょうか?」と尋ねた。
黒い服の男は、その問いに答えなかったが、私はそのキューを手に取ってタップにチョークを付けて、手球をブレイクラインの左側に置いた。
私が手玉の真ん中をキューで鋭く撞いてブレイクすると、2番ボールがポケットインしたのでホッとした。先週の日曜日から、一日も欠かさずに推定1~2時間は玉を撞く練習を重ねてきたとはいえ、私がミスして黒い服の男に順番を渡してしまうと、たちまち9番まで取りきってしまうだろう。
私は、ブレイクキューをラックに戻し、黒い服の男の物とは違うショーンキューを手に取ってから台上を見た。ブレイクライン近くで、反射角10度くらいのおあつらえ向きの位置に1番ボールがあった。1番ボールをポケットインさせた後は、手球を長く走らせて向こうにある3番ボールを狙わなければならない。
「毎週、食材を運んでいただいていますが、普段は、どんな仕事をされているのですか?やっぱり、玉撞きのプロの方ですか?」
1番ボールを狙いながらそう尋ねるが、黒い服の男は無言でストールに座ったままだ。
手球の上を撞いて1番ボールをポケットインさせた後に、手球を走らせて3番ボールに近付けさせたまでは良かったが、5番ボールの裏で手球が止まってしまい3番ボールを直接狙えなくなってしまった。
「少し、撞きが弱かったでしょうか…」
私はそう言って黒い服の男を見たが、黒い服の男は眉一つ動かさず台上を見ていた。
私は、キュー先のタップにチョークを付けながら、なんとか手球を3番ボールに当てなければ…と策を考えた。
「私は、いつまで、この部屋で過ごすのでしょう?」
私はそう言ったが、黒い服の男からの返答は無かったので、いよいよ、クッションに手球を入れて跳ね返らせた後に3番に当てにいく構えに入った。
「私には家族はいるのですか?」
素振りをしながら私はそう言ったが、返答が無かったので、狙ったクッションのポイントに向かって手球を撞いた。手球はクッションに当たって跳ね返り、3番ボールに当たった後、遠くの方まで転がり、さらに、7番ボールの裏に入って止まった。
ポケットインさせていないので、黒い服の男の順番に替わるが、手球の前には7番ボールがあって邪魔をしているし、さらに、狙う3番ボールまでかなり距離がある状態になっている。偶然とはいえ、黒い服の男にかなり不利な状態になったのは間違いなかった。
黒い服の男はおもむろにストールから立ち上がり、台上をしばし眺めながらキュー先にチョークを付けていた。
「私の名前は何ていうのでしょう?」
私がそう尋ねると、「俺はお前の名前を知らない。知らないが、無ければ困るというのなら俺が付けてあげよう。ディーだ」と黒い服の男が返答してから撞く構えに入った。
「ディー? ディーって、アルファベットのDですか?」
私のその質問には答えずに、黒い服の男は、狙う3番ボールと真逆の方向に向かって手球を撞いた。すると、手球は長クッション、そして短クッションに入ってから戻りながらしばらく走って、再び長クッションにかすったかと思うと、3番ボールに当たり、しかも、その後に、手球を8番ボールの陰で止めた。
こんなに難しいショットなのに、3番ボールにいとも簡単に当てて、逆に私の順番で撞きにくくさせる位置に手球を置いたのだ。
「あなたの名前は… なんて呼べばよいですか?」
次にどうやって撞けばよいのか皆目、見当がつかなかったが、そのそぶりを見せないように気を付けながら私はそう尋ねた。
(狙う3番ボールがこんなに近くにあるというのに、8番ボールが邪魔で撞けない…さっきみたいにクッションに1回入れただけでは当たらないし…どうすれば…)
「答えてくれませんが、いつも黒い服を着てらっしゃるから、黒井さんって呼んでもいいですか?」
私がそう言うと、「好きにすればいい」と黒い服の男は返答した。
私は、黒井さんがさっきやったように、長→短→長と3クッションさせながら手球を台一杯に走らせて、3番ボールに当てるつもりで構えて撞いた。
しかし、手球は2クッション目で4番ボールに当たってしまい、ミスとなった。
ミスの後は、手球を自由に置けるフリーボールになって黒井さんの順番になる。黒井さんは、キュー先にチョークを付けながら3番、そして、次の4番、5番、6番と目視してから撞く体勢に入り、3番ボールをポケットインさせ、その後、あっという間に、最後の9番ボールまで取り切った。
「実は、私は重い病気かなんかで余命いくばくか、なんでしょうか?」
ゲームを一人で終えてストールに再び座った黒井さんの隣のストールからそう尋ねた。
「そんなことより、本はどうなんだ?読み進めたか?」と黒井さんは玉が無くなったビリヤード台を見ながらそう言った。
「正直申しまして、あの本は私には難解で、とても読めません」と私は本当に正直にそう言った。
「じゃあ、どんな本なら良いのだ?」と黒井さんはため息交じりで私の方を向いてそう聞き返した。
「黒井さん、本はこのままでいいのですが、ひとつお願いがあります。私、字を書きたいんです。できれば、筆と紙をいただけませんか?筆は、できれば、筆ペンと習字で使うような毛筆。紙は、障子紙でいいんです。丸くなっている奴で構いません。あと、障子紙を切る道具が欲しいんです。此処には包丁も無ければ調理ばさみもありません。髭を剃る剃刀もどうやら駄目みたいですし、定規があれば紙を切れるんで、できたら50cm定規をいただきたいんです。依頼主さんにそうお伝えしてくださいませんか?」
黒井さんに対して、初めての長文でそうお願いをした。
「わかった。伝えておこう」
黒井さんはそう言うと、使っていたショーンのキューをキューラックに立てて、部屋を出て行こうとした。
「黒井さん!大事な質問を忘れていました。私が病気やけがをしたときにはどうやって助けを求めればよいのでしょうか?電話も無いですし、伝える術が無いんです。私が助けを求められるとすれば、清掃に来てくださる日と、黒井さんがいらっしゃる日しかありませんし」
そう、私は息せき切って言った。
「病気やけがにならないように此処ではルーティーンが決められているんじゃないのか?まあ、そうならないように気を付けて生活をすることだ」
黒井さんはそう私に告げると、黒いドアを押して部屋を出て行った。
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