久遠川の留子橋

 平成××年八月二十三日 雑営団地風俗棟一階 ラ・クンパルシータ脇にて

 

 エエ今日は一段と暑うなりましてな。

 

 時期的にゃ彼岸だっていうのにこうも毎日ダラダラと暑いせいでまるきり季節感てぇもんが無くなってきてかないませんな、十数年前は彼岸入りいうたら朝晩もずいぶん涼しくなって、赤とんぼが一匹二匹飛んでくのを見ては秋やんなあなんてしみじみ思ったもんですわな、ええ。

 なんてこと言うと剣崎さんあんたも年寄りじみたこと言って随分老けたなあ、ってやり込められるもんで、わしゃ逆に、ちがわい昔より今のが暑さもも湿り気もずいぶん酷くなっとんのはあんたも知ってる事やろがな、見てみい、これからますます暑くなる一方で八、九、十、十一ときて十二月の暮れには最高気温が百度超える日が来るわな、さあどうする、え、わしゃ知らんで……なんてこと言うとああこのトカゲ男ついに耄碌しやがったなんて憐れむような目でお札の一枚でも缶カラに投げ入れてくれるもんで、時には馬鹿も方便というんでございまして……どなたか実践してくれる方ぁおられませんかね、ほれ、空っぽの缶カラもここにございますですよ、ハイ……てな事ばかりやりおると、こいつ噺も忘れてついに本物の乞食に成り下がりやがったなんて言われかねんで(早くはじめろ、の声)そろそろ本題へと移りましょうかね、ホレあそこの人混みの奥から今わしゃ聞いたで、さっさと始めろおだなんてやかましいわ、ジュークボックスだって十円なり突っ込まなビクとも動かんのにどうして生身の人間がタダ働きせなあかんねん、そないな遠くで耳ぃすませて聴いてタダ聴きする気満点やんなあ、え?ツンデレいう奴かいな、全く。

 この通り、え、内輪のだらついた雰囲気もべったりした暑さももう沢山やと思いますんで、ひとつ今夜はちと趣向を変えて……。

 

 今までわしが聞いたん中で、いっちゃん不気味で、怖気立つような話、おひとつお聴き願いましょうか。え、安心せえや、乳丸出しですっぽんぽんの女も後で都合よく話にねじ込んでやるからそないな渋い顔せんで、ほんまあんたら肉棒が服着て歩いてるような連中やんなあ、いや冗談。

 

 ガラ通りの錯感さっかん商店街をまっすぐ東側に抜けるとやがて貧民街区画を抜けて飛沫谷しぶや方面へ向かう国道にぶち当たりますが、そこん下を流れてる川に久遠川くおんがわてえ老人の小便みたいに流れの乏しいのがございます。そしてこれも道なりに歩いて丁度いちばん近いところに掛かっている橋に、ずっと昔に造られた留子橋とまこばしという小さな石橋がございますが、この橋には昔からの習わしというかしきたりがありまして、雨の日には女子供はこの橋を渡ってはならない、妊婦は天気のいかんに関わらず渡るべからず、なんてのを小さい頃に近所の年寄りから口うるさく聞かされたなんて人も少なくないんじゃあないかと思いますわ。今のご時世にこんな事言うとやれ男尊女卑だの差別反対だの口うるさく言う輩が出てきて困り物ですがこれにはちゃんと訳がありまして、この橋が掛かってる久遠川というものがこれ実は台風の時期になると普段のちょろちょろが嘘のようにそれこそ川幅いっぱいに流れが膨れ上がるもんで、エエ、久遠川の氾濫といや毎年ラジオの大雨警報で言われるもんですからわしが今更説明するまでのこともないでしょうな、とにかく川幅が狭いもんだから少しでも雨が降ると気が違ったように流れが激しくなる川なんですわ。そんな時期に滑りやすい石橋なんて渡ったら悪くすると川に落ちるかもしれない、ましてや身重の女性ともなると川に落ちたらまず助からん。てな訳でそんな言い伝えが生まれたなんてわしもよう聞いたもんですわ、別に女性差別だなんてそないなうがった見方せんでも言い伝えが生まれたんにはそれなりの訳があるって事ですな、ハイ。そないな古式ゆかしい言い伝えを馬鹿正直に守る人もだいぶ少なくなりましたが、今では少し歩いたところにもっと幅の広いコンクリート造りの橋が出来ましてしっかり街灯もついてるもんだから大抵の人はそっち通りますわ。新しく出来た橋を留子橋やと思う人もおりまして、いや新しく出来た方はほがらか大橋なんて言いましたかな、こらまあ随分と能天気な名前をつけたもんで……。

 

 昭和の終わりごろ、六十年でしたかな、ちょうど錯感商店街のはずれにある刃物屋の奥さんが一人で久遠川の向かいにある小さな病院へ向かいまして。付き添いはどうしたって、旦那は半年前に賭け酒屋のイカサマ騒ぎに巻き込まれて胸を一突きされたもんで家には位牌が一つっきり。エエ洒落にならんですな、おまけに奥さん臨月で、気の毒に一人っきりで大きなお腹抱えてよったらよったら病院へ向かったわけですわ。さて帰り道、奥さんが薄暗い道を歩いてると雨がポツリポツリ降ってきた。この頃はまだコンクリートの大橋なんて建設計画もありませんで、件の橋をよけて通るには道をぐるりと大回りせないかん。臨月の女性にはえらい骨の折れる事でございまして、奥さんもそこまで信心深い性質じゃありませんでしたから、そのまま留子橋を渡っていったんですな。さて帰ってくると一息いれる間もなく腹がぎゅううっと痛くなってきた。予定より二週間前だってのに急に産気づいたんですわ。玄関でうずくまったまま奥さんもうここで産むよりほかないといきみ始めた、しかし腹がいよいよよじれるばかりに痛くなっても子供が降りてくる気配がない。どうも腹の中でごろごろ転がり回ってる風なんでして、あまりの痛さに奥さん大声を上げて叫び始めた。誰か誰か来てェ、赤ちゃん、あたしの赤ちゃん死んじゃうよォ、アァ痛い痛い早くぅって、その声を聞きつけた近所の人が泡食って奥さんを病院へ担ぎ込んだんですが、ところが何をどうしても奥さん苦しがるばかりでちっとも赤ん坊が生まれないものだからお医者の先生もしまいには腹を切って子供を取り上げるより他にないって事になりまして。イヤしかしどうなっちまったもんだか、いくら先生がメスで切ろうとしても奥さんの腹はまるで分厚いゴム膜みたいに固くなっちまってまるで歯がたちません。無理に切ろうとすればお腹の子が危ない、しかし腹の皮はどうしても切れてくれない、そうこうしているうちに痛みに悶える奥さんの顔色はいよいよ化け物じみてきまして、髪振り乱して叫ぶ様はまるで夜叉のよう、しまいにはお医者の先生もとうとう怖気付いてしまって、こいつはいけない、暴れないようにした上で自然に生まれるのを待つよりほかにないってな事になりまして……しまいに奥さん、ベッドの鉄柵に両手両足縛り付けられて無理やり寝かされることになった。しかし三日たち、一週間が経ち、一月経ってもお腹の子は出てくるどころかますます膨らんでくる始末、すっかりやつれた奥さんの手足が枯れ枝のごとくしなびていくのに臨月の腹だけはまるまると、青黒い血管をびっしり浮き上がらせたまま巨峰のように膨れ上がっていく様はこの世のものとは思えないほど恐ろしい光景でございます。三月経ち、半年経ち、十月十日をとうに越え、やがて奥さんの世話役を任された看護婦長もその変わり果てた姿のあまりのおぞましさに泡食って逃げ出しまして、病室に閉じ込められた奥さんは昼も夜も身体中の穴という穴から反吐を吐きつつ痛みに身をよじるもんだから手足の肉はすっかり擦り切れて骨が覗き、しまいには反吐と膿の臭いが病院中に垂れ込めるせいで患者がふっつり途絶える始末。あまりにもおぞましい有様にとうとうお医者の先生も観念しまして、可哀相に、一思いに楽にしてやろうと空の注射器を片手に病室を訪れますと、血と膿にまみれたベッドの上で奥さん骸骨みたいな手足をびくびく突っ張らせて泡を吹いている。まるまると膨れ上がった腹がお医者の先生の見ている前でミシッと家鳴りみたいな音を立て、べろべろと巨峰の皮がむけるように腹の皮を突き破って産まれ落ちたものが奥さんの腸に絡まったままごろりと床へ転がると、血だらけの臍の緒をぶら下げたまま赤ん坊のように身体をこごめているのはしわくちゃの老人でございまして……しわがれた声で、おんぎゃ、と一声泣きまして、それきりでございました。

 

 間引き、というものが半ば公然と行われていた時代がありました。多産に悩む女性が、草木も眠る丑三つ時に産まれたばかりの赤ん坊を抱いて川へと向かう……あの久遠川は古くは蛇川と呼ばれておりまして、流れの早い時期にはどんなものでも飲み込んでしまう事からその名が付いたのでありますが、雨の日に橋の上から子供を落とす、すると子供の姿はさっと流れに呑まれてそれっきり顔を出しません、ひどい時には下流の澱みに流れ着いた赤ん坊の骨で川岸が白い砂浜の如くなったほどでございます。七つまでは神の子と申しますが流された子供の無念はいかほどか、橋に留まったままの水子の霊はいつしか一つに凝り固まって、身重の女性がそばを通るたびにその腹へ呼びかけるようになったのでございます。

 

 産まれたら流される、子を留めろ、子を留めろ……。

 

 やがて月日が流れると、かつての蛇川は水子の霊を慰めるためにその名を久遠川と変えたのでありますが、この橋だけはかつての名残、業を留めたまま留子橋と呼ばれるようになった次第でございます。いつの時代も子供というものは手加減を知らんもんでございまして、ところで今夜はちと天気が悪うなってくるようですね、今もほら、ポツーリと雨粒がひとっつ……お帰りの際は、どなた様もお気をつけ下さいまし。

 

 ……いや、なんやわしが心配せえへんでもここで聴いとんのは全員独り身のむさい男衆ばっかしやな、構わん構わん、全員橋渡って帰れえ、いや帰る前に財布ん中のもん突っ込んで帰れ、厄落としやがな厄落とし、え、なんやお前、厄落としも何もわしが勝手に厄ばらまいた言うんか、しゃあないなあほんまに性欲が服着て歩いとる連中やがな、そんならひとつ景気づけに十八番の「濡れ壺」をひとくさり……。

(待ってました、の歓声)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龍の高座・久遠川の留子橋 江古田煩人 @EgotaBonjin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説