龍の高座・久遠川の留子橋

江古田煩人

龍の高座

 風俗棟ふうぞくとう一階のストリップバー「ラ・クンパルシータ」の脇に人だかりができていたなら、きっと今夜のあなたは運がいい。適当な小銭でも持って人混みに割り込んでみると、面白いものが聴けるだろう。

「エエそれはもう酷い嘆きようで。奥さん思わず、あの人が私を捨てたなんて嘘よゥ、アァ私これからどうすればいいのォ、この子を抱いて独りで暮らすなんてとても……と、こう、よよと泣き崩れるさまがいかにも可哀想で……」

 玩具おもちゃのピアノを抱えた龍顔の小男が、小気味のいいしゃがれ声とともに楚々そそとした仕草で目元をぬぐうと、あなたの周りの人だかりがいかにも好色そうにざわめいた。ガラ通りの大道芸人、剣崎雨月けんざきうづきのライヴパフォーマンス。長い尻尾で拍子を取りながら鼻面を上げて小噺をうなる剣崎の姿は、この雑営団地ぞうえいだんちの風物詩の一つである。ライヴだなんてこじゃれた言い方が気に食わないなら露天芸と言い改めたっていい。悪天候の日は言わずもがな、造営団地のどこかで自警団のガサ入れがあってもこの高座はお開きになってしまうのだ、彼の小噺こばなしを最初から最後までじっくり拝める機会はそうそうない。

「あんまり可哀想なもんだからわしゃとても見ちゃいられなくてねぇ、エェほんとどなたか、涙を拭くものでも欲しいくらいですわ。いえハンケチなんて贅沢申しません、紙っきれでええんですわ、ホレ皆さんお手元の財布の中にお持ちですわな、まーるい顔の描いてある長四角の紙っきれ……」

 どっとはやしたてるような笑いと共に、数人が紙幣を空き缶へ突っ込んだ。それに紛れてあなたの放った小銭も小気味のよい音を立てて缶に収まる。いよいよここからが本番なのだ、聴衆は酒臭い息を吐きながら一斉に身を乗り出した。何かを期待するような雰囲気が伝わったのか、剣崎の声が途端にじっとりと潤み、抱えているピアノが湿っぽく鳴った。

「奥さんが急にしなだれかかってきたもんだから、郵便屋さん、玄関に尻餅ついてしもて。膝の上にはうら若ぁい未亡人の羽二重餅はぶたえもちみた丸尻がのっしりと、はだけた着物から覗く柔肌からは甘ぁい乳の匂いがふんぷんと……」

 早くおっぱじめろぉ、酔客すいきゃく下卑げびたヤジが飛ぶと剣崎は露骨に顔をしかめてみせた。

「阿呆ぅ、やかましわ!そこのお客さんいっつも早う早うって急かすけどな、え、おっぱじめる所まで巻いて郵便屋さん三擦みこすり半で終わってしもたらわしゃおまんまの食い上げやがな。助平な部分だけ長ぁく引き伸ばしてくれってあんた、わしゃビデオデッキとちゃうねんで」

 お察しの通り、この団地でうけるのは大抵こういう話なのだ。なんだ古典落語が聴けるかと思ったのに、なんて、あなたそりゃあこんな所で言いっこなしだよ。噺が進むにつれて剣崎の語りはますます熱を帯び、聴衆の息も荒くなっていく。

「ああッ郵便屋さんッ、今、今だけでいいのォ、あたしのこと抱いてェ、めちゃめちゃにしてェ、奥さんそう叫んで着物の襟元をぐいと広げたもんだから郵便屋さんもう矢も盾もたまらず……」

 バーの扉を突き破るようにして男が蹴り出されてきたのはその時だった。すぐさま閉め切られた扉の前で血まみれの男は数度よろめくと、あなたのすぐ隣にどうと倒れ込んだ。えぐるように削ぎ落とされた鼻の穴から血のあぶくを垂れ流したまま、かすかに痙攣している。やがて男は血溜まりの中でしんと動かなくなった。聴衆が、水を打ったようにしんと静まり返る。

「…………そこへ思い直した旦那がふいと帰ってきてな、郵便屋さん見つかってしもて、台所の出刃包丁でもって、ほれ、あの通り……おあとがよろしいようで」

 ぽろん、と調子外れのピアノが鳴った。どこか遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。

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