第7話 クリニックでの出来事

 菅井春香という女の子とデイケアで仲良くなって、自分の家族のことや今までの人生について語り合っていくなかで、落ち込みがちだと相談された。ふみ子と同じように幼い時に両親が離婚し、医者からも簡単な計算もできなくて発達障害があり、病気を治すには長くかかるだろうと言われたらしい。ふみ子は軽い気持ちで「気分が落ち込むなら入院すればいい」と言った。


 次の日、菅井春香はふみ子に抗議した。

「なんで昨日入院すればいいなんて言ったのよ」

 ふみ子は戸惑いを隠せなかったが、「ごめんね」と謝った。しかし謝っても彼女は許さず、何度も同じように抗議されて、うんざりした。

 翌朝、デイケアに行くとスタッフに呼び止められた。

「菅井さんと話し合ってください」

 私が菅井春香のそばに行くと、スタッフは事務員に呼び止められ、私たちから離れた。


「どうしたの?」ふみ子は菅井春香に声をかけた。

「昨日謝ってくれたんだけど、嫌な顔された顔されたから、やっぱり自分はダメな人間なんだと思って、手首を切ったの」

 ふみ子は驚いて菅井春香の手首をみたら、手首から肘にかけて横断歩道のように傷跡が残っていた。

 ふみ子がショックを受けていると、スタッフが戻ってきた。

「菅井さん、手首を切ったって」

 ふみ子はスタッフに報告した。

「どうして、手首を切ったって言ったの。鬼谷さんの気持ちは考えなかったの?」

 スタッフもまさか手首を切ったと言うと思ってなかったらしい。

「ごめんなさい。鬼谷さん。菅井さんはこれが初めてじゃなくて、何度もやっているの。鬼谷さんのせいじゃないから」

 スタッフがふみ子に謝った。


 ふみ子はその場を離れ、図書館にも寄らず、家にも帰らず、荒川土手に行った。

 ふみ子は川に飛び込もうかと思ったが、死ぬ勇気がなかった。日が暮れて、自殺をあきらめて、家に帰ると母が早く帰ってきた。

「クリニックから電話があったんだよ。自殺未遂した人がいるけどあなたのせいじゃないって。明日、私と一緒にクリニックへ行こう」

 母はふみ子の肩を抱いた。

「私もあなたのお父さんに狐を捧げろと言われたけど、親族を裏切るようなことはしなかった。お父さんは事業に失敗して、縁も切れた。今の私にはあなたしかいない。あなたは良い子で予備校にも通わず、浪人もせずに、自分で学費を稼いで大学に行ったじゃない。私にはあなたが誰よりも大事だよ」

 母の頬には涙がつたった。


「そうかな?クリニックの医者はあなたのお母さんは娘思いのいいお母さんでこんな娘の面倒をよくみるよなってばかにしたかんじでいうけどね。嫌いあの医者!自殺未遂した菅井さんだってあの医者にあなたは簡単な計算もできないだろうと言われたことがあるって言ってたよ。自殺未遂したのはあたしだけのせいじゃないよ。お母さん、私、転院する」

 ふみ子は決心したように、母の目をみた。


「ばかなことを言うんじゃないよ。医者は学者だから私たち一般人には理解できないようなものの言い方をするけど、あなたはこんなによくなったじゃない。転院するなんて、ばかなことを言うんじゃないよ。あなたは怒りっぽいのが欠点なの。人は皆、欠点があるけど、克服する勇気がある人を神様は味方してくれるものなんだよ。あなたは転院しないで、怒りっぽいのを治す機会だと思いなさい。明日、クリニックにお母さんと一緒に行こう」

 ふみ子はうんざりしたが、母に逆らうのは親不孝ではないかと思った。


「わかった。転院しない。明日は一人でクリニックに行く」

「お母さん、明日、クリニックへ確認の電話をするからね」

「迷惑だよ。私より困っている患者さんが電話してくるのに、お母さんが電話かけたら、つながらなくて、通院するのをあきらめてしまうかもしれないでしょ。約束する。転院しないし、就職の許可がでるまでは、平日は毎日クリニックへ行く」

 ふみ子は母と約束し、夕食を母と一緒にすませた。


 夕食が終わると、ふみ子はまた菅井さんのことを考えた。菅井さんも今の私と同じような気持ちだったにちがいない。でも、私はもう自殺未遂のまねごとはしない。お母さんをこれ以上苦しめないと自分に誓った。

 翌朝、母に再度、転院しないで毎日通院することを約束させられた。


 病院へ行くとスタッフに呼ばれた。

「菅井さんの件はあなたのせいじゃないから安心してね。菅井さんはもうデイケアには参加しないから」

「私は母に転院しないように約束させられました。私はデイケアに参加しても大丈夫ですか」

「もちろんです。お待ちしています」

 スタッフは微笑んだ。私もつられて微笑んだ。

 午前中のメニューが終わり、いつものごとく図書館に寄った。


「微笑みを生きる」という題名に誘われて、手にとった。その本はベトナム人のティクナットハンというマインドフルネスを提唱している禅僧が書いた本だった。

 出家すれば今のつらい状態から抜け出せるかと思い、その日は母の食事の分だけ用意して、断食した。しかし、湧き上がる欲望に勝てず、夜中にコンビニに飛び込んで、カップラーメンを買った。やはり、自分の心が修められないのに、欲望を消そうとするのは無理だったのかもと反省して、他のマインドフルネスの本も借りて、ゆっくり深呼吸をこころがけるようにすると、確かに、心が落ち着いてくるようなかんじがした。


 ふみ子はもっと瞑想について知りたいと思い、瞑想会に行ってみることにした。

 神奈川県にある里山まで行った。歩く瞑想、座る瞑想、寝る瞑想、食事の瞑想、オンラインの法話と感想を述べ合った。皆、優しく指導したり、アドバイスをしてくれて、心が温まった。特に印象に残ったのは波の話である。波は自分の波の高さを他の波と比べて気にしていたが、自分が一滴の水だと気づいて、心の安らぎを得たという話である。


 ふみ子も自分の容姿や社会的地位を気にしていたが、自分は地球の一人の人間なのだと自覚した。そう思うと社会的地位や容姿は幸福の一要因ではあるが、それだけではない、自分には私のために必死に守ろうとする母がいて、理解しようと努力してくれる友人がいる、それだけでも幸せなことなんじゃないかと思い始めた。それがふみ子の悟りだった。その悟りを得てから元気を取り戻した。



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