そう、緋蓮ひれんは、問わずとも答えを知っていた。


 そんな響術師きょうじゅつしすめらぎがいたのかどうかは分からない。だが、いたとしても、決してそのたくらみは実現しなかった。


 なぜならば肆華衆しかしゅうは、身に宿した霊獣によってこの町に縛られ、決してこの町の外へは出ていけないのだから。


「……知っていたわ。私は、華仙かせんによって生きる場所も、時間さえも、人生の全てを決められてしまっている。響術師も、法力僧も、決して私を迦楼羅カルラから解放することはできないって」


 迦楼羅の在期は一人十五年。歴代、どの迦楼羅を調べてもその期間は同じ。


 なぜなら迦楼羅は、宿った器を十五年間何からも守る代わりに、十五の時を満たした瞬間、己の炎で器を焼き払ってそらかえるからだ。肉体は灰も残さず焼き払われ、魂は迦楼羅に喰われることによりこの月天げってんを取り巻く結界のいしずえとなる。この宿命から逃れた迦楼羅は、いまだ一人もいない。


 迦楼羅は炎を司り、老いた体を己の炎で焼き尽くしてはその灰より新たに命を手に入れる不死の鳥。


 その輪廻を、宿体でも行うのだ。巻き込まれる宿体の方は、決してよみがえることなどできないというのに。


「死した後さえ月天に縛られる春紅しゅんこう様を、何とか解放して差し上げられないかと、思ったんだ」


 緋蓮も、いずれその日を迎える。あと四回時が巡れば、緋蓮という命は刈り取られる。


 迦楼羅に選ばれれば、未来永劫籠の鳥。


 それを知っていながら、なぜおめおめとこの絢爛豪華な鳥籠を楽しめるというのだろうか。


「結界の礎とされているのならば、その結界を崩せばいい。結界そのものがなくなれば春紅様も解放される。……俺はそう考えた」


 当代の肆華衆は迦楼羅と執生しっせいの二座だけ。そのどちらかを殺せば結界は核を失って崩れる。


 そう考えた時、吏善りぜんは月天の大門を再び潜ることを決意した。推挙状と証文は、生前の阮善げんぜんが秘密裏に残してくれていた物だったという。


「阮善様も、まさか俺がこんな志を抱いて山に登ることになろうとは思ってもいなかったんだろうな」


 ……あるいは、逆にすべてを予想していたからこそ、残していってくださったのか。


 吏善はそう締めくくると口を閉ざした。吏善が口を閉ざしてしまえば、夜の静寂だけが二人を包む。


「……あの夜、たまたま私が大塔だいとうにいたから、私が標的になったということね」


 吏善の背景をようやく掴んだ緋蓮は、静かに息をくと体を起こした。


 寝台と椅子では、椅子の座面の方が低い。いつもより近い位置にある瞳に、緋蓮はわずかに笑いかけた。


「吏善は別に、私を殺したかったわけじゃないんだ?」

「……不満か」

「うん」


 緋蓮は体を起こしたまま部屋の中に視線を巡らせた。


「……うん。だって、やっと解放されるんだって思ったのに」


 言葉の中に落胆が混じる。笑みはきっとやるせなさを湛えていることだろう。


「迦楼羅の在期はきっちり十五年。十五の時が巡れば、己の炎にまかれて人生が終わる。……望んでもいない場所に据えられて、望んでもいない道を押し進められて、望んでいない終わりに突き落とされた後でさえ、安楽も自由も与えられない」


 不意に、視界が歪んだ。


 何も見えていないのに、歪んだと分かった。


「それが、迦楼羅なのよ」


 パタリ、パタリと、雫が落ちた。


 とうの昔に枯れ果てたと思った涙が、溢れ出ていた。


「どうして私だったのよっ! どうして……っ!」


 今までずっと、誰にもぶつけられなかった叫びが口を衝いて飛び出してくる。その叫びを、吏善だけが聴いてくれている。


 この広くて、狭くて、絢爛で、空虚な、鳥籠の中で。


「貧乏でも良かった。ろくでもない生まれでも良かった。それなのに……っ!」


 迦楼羅以外の肆華衆に在期と呼べる在期はない。


 他の肆華衆は手厚く保護され、亡くなれば月天を上げて盛大に葬儀が行われる。他の器達は宿った肆華衆の力に殺されることはない。


 迦楼羅だけが、違う。迦楼羅だけが、着任と同時に命の期限まで勝手に決められてしまう。


 終わりの日の前日に、迦楼羅の終わりのために築かれた窯の中に閉じ込められて、寂しさと恐怖と熱さの中で果てる。迦楼羅の力に殺される。


 そんなみじめな終わりが、緋蓮の人生にはもう据えられてしまっている。


「生きていたって、近すぎる終わりに向かって、ただ一心に進んでいくだけなのに……っ!! どうして生きろって言うのよっ!? どうしてそんな残酷なことを言えるのよっ!? 預かり物だからって、どうして大切にしなきゃいけないのよっ!? 自由に生きることも自由に死ぬことも許されないのに……っ!!」


 だから、嫌いなのだ。


 自分を縛り付けるこの町も。


 自分の人生を決めてしまった赤い髪と瞳も。


 崇めながらも出自を蔑む華仙も。


 全部全部、嫌いだった。


「私の命は、預かったものじゃない。押し付けられたものなのよ……っ!!」

「では、なぜ己で首を落とそうとしなかった」


 ありったけの力で内心を吐き出す緋蓮を、不意に強い力が引っ張る。


 その力に抗いきれなった緋蓮は簡単に態勢を崩した。そんな緋蓮の体を、一度感じたことがある熱が包み込む。


「なぜ、流されるがままに生きてきた」


 抱きしめる力は、強くはなかった。熱が触れ合う距離にあっても、吏善からは感情の色が伝わってこない。


「それだけ絶望しているならば、生きるだけ無駄なんじゃないのか」

「それ、は……」


 そう、緋蓮は絶望していた。生きるだけ無駄だとも、思っていた。


 それでも。


 それでもここまでズルズルと惰性で命を引きずってきたのは。迦楼羅の器が迦楼羅の力に守られていて、死ぬに死ねなかったからという理由だけでは、決してなくて。


「まだ、生きていたいんじゃないのか」


 静かに落とされた言葉に、ピクリと緋蓮の体が震えた。


「この生に、まだ絶望したくないからじゃないのか」

「っ!?」


 その一見して矛盾しているように聞こえる言葉に、緋蓮の中で何かが弾けた。とっさに緋蓮の口からは怒りがほとばしる。


「何を勝手なことを……っ!」


 体に回った熱をね退けようと腕に力がこもる。だが吏善がグッと緋蓮を引き寄せ、間近で瞳をのぞき込む方がわずかに早い。


「心底絶望を語っていながら、さらにその奥では抗いたいと願っているからなんじゃないのか。自分の命を、生きたいと切望しているからなんじゃないのか」

「……っ」


 こんな暗闇でも緋蓮の色を吸い込んで紅に染まる瞳に、緋蓮は思わず息を呑んだ。


 緋蓮が迦楼羅としての定めを知るのは早かった。多分月天に着くよりも前に、旅に同行していた口性くちさがのない者に吹き込まれたのだと思う。


 月天で緋蓮を迎え入れた亀覚きかくは、絶望しかない緋蓮の顔を見てそれを覚ったのだろう。


『命は御仏からの預かりものじゃ。決して粗末にしてはならぬ。行く先に希望が見えずとも、決して己から投げ出してはならんのじゃ……』


 緋蓮が人生で初めて聞いた説法が、亀覚のその言葉だった。


 ズルズルと、ここまで惰性で生きてきた。生きることに絶望していながらも。


 それでも緋蓮がここまで命を投げ出さずに歩んでこられたのは、緋蓮にその教えをいてくれる人がいたからだった。


 教えを説くことで緋蓮に……迦楼羅ではなく『緋蓮』に、生きていてほしいと願う人がいることを知ったからだった。その気持ちの温かさを知ってしまったから、すべてを投げ出して首を落とすことが緋蓮にはできなった。


 あるいは、知りたかったのかもしれない。

みんなが説く、命の意味を。華仙の仏が説いたという、命の重さを。


 荼毘だびす亡骸に接し、終わりを迎えた人々の声を聞く中で死に魅せられながらも、本当はそこから生きる意味を見出したかったのかもしれない。


 迦楼羅ではなく『緋蓮』を刻む場所を、探していたのかもしれない。


「足掻け、


 不意に抱きしめる腕の力が強くなった。


 その力に、名前を呼んでくれる声に、新たな涙がにじんでいく。


「諦めるな。死んだ後に迦楼羅に食い物にされるなら、生きて緋蓮の意志が表に出ている今しか抗うべき時はない」


 その瞳をギュッと閉じて、緋蓮は指先に触れた衣を握りしめた。固い手触りは、緋蓮の衣ではなくて、吏善が纏う闇の色に似た小袖の袂だった。


 吏善の一部が手の中にあると分かっただけで、普段は絶対に言えない弱音が……『迦楼羅』としては口にできない言葉が、たやすく唇から漏れていく。


「どう抗えって言うのよ……。脈々と続く華仙の歴史の中で、迦楼羅の宿命が翻ったことなんて一度もないっていうのに……」

「それを考えるのは、お前自身だろ」


 だというのに、そんな強さと熱を与えておきながら、吏善は実に無責任な言葉を吐く。


「思考を止めるな。考え続けろ。進みたい道で心を満たして決して折れるな。……俺は、阮善様にそう叩き込まれた。最初に教えられたのも、最期に教えられたのも、この言葉だった」


 ──私に亀覚が『命は御仏からの預かりもの』と説いたように、吏善は己の師にその言葉を説かれた、ということ……?


 吏善の言葉を噛みしめる緋蓮の背を軽く叩いて、吏善の腕は離れていった。袂を離し、瞳を開いてそんな吏善を見やれば、この暗闇の中でもうっすらと吏善の表情が見えるようになっている。


「あの夜、あんたと出会って俺は、『違うな』と、思ったんだ」


 吏善は、静かな顔をしていた。


 その中で周囲の色を吸い込む瞳だけが、何か強い意志を宿して緋蓮を見ている。


「俺に真っ直ぐに瞳を向けていたあんたは、ただの結界の礎なんかじゃなかった。己の定めに絶望して、助けを求めているのに足掻き方を忘れてしまった、ただの人間だった」


 どれだけ周囲の色を吸い込んでも己の意志の強さを失わない光の中に、緋蓮の姿が映っていた。


 普段と何が変わったわけでもない。顔つきも、髪の色も、服装だって。


 それなのになぜか、吏善の瞳に映る緋蓮の姿は、町のどこにでもいそうなただの『少女』に見えた。


「俺はあの時あんたを見るまで、『迦楼羅』を春紅様の魂を呑み込んだ化け物みたいに考えていたのかもしれない。壊してしまえばいいと……迦楼羅だって人であることを、きっと忘れていたんだ」


 そんな緋蓮の前で、吏善は訥々とつとつと、だが確固たる意志を込めて言葉を紡ぐ。響術師独特の揺らぎがあろうがなかろうが、吏善の声は緋蓮の耳と心に心地よく響く。


「春紅様だけが人間で、後を継いだあんたも、春紅様の前にいた迦楼羅達のことも、同じ人間として見ることができていなかった。そのことに、あんたと対面して、気付いたんだ」


 ──そうか。私が今まで響術師の音や声を心地よいと感じていたのは、響術だから心地良かったのではなくて。


 吏善の、声だったから。


 涼やかで、それでいて力強い意志が乗る声だから、緋蓮の心に心地よく響いたのだと、緋蓮は今になって覚る。


「阮善様が説かれた言葉をずっと胸の内に置いていたつもりだったのに、俺はきっと、随分と長い間、思考を止めて、春紅様の魂を思って……心が、折れていたんだと、気付いた」


 そんな吏善の瞳の中にいる『緋蓮』が、吏善の言葉を受けて目をみはった。


 実際の緋蓮は、どんな顔をしていたのだろうか。薄く笑みを刷いた吏善は、窓の外へ視線を向ける。


「『春紅様の魂を解放するためだけに迦楼羅を殺すのは間違っている』……あんたの傍に付くようになって、得た結論がこれだ」


 その視線の先に何があるのかは、緋蓮には分からなかった。


 緋蓮はずっと、吏善の横顔を見つめていたから。


「目を開いて、己の力で思考を回して、進みたい道を見定めた結論が、これだ」


 ただ、視線が緋蓮から逸れても、吏善の声は心地よく緋蓮の中に響き続ける。


「あんただって、迦楼羅の宿命に苦しむ者なのに、俺の願いのせいで、迦楼羅に苦しめさせられる人間を増やしたら意味がない。あんたと行動を共にすればするほど、そう思うようになった」


 その声に導かれるかのように、部屋の中にうっすらと光が彷徨さまよい込んだような気がした。


「『緋蓮』としてのあんたを知るたびに、そう思うようになったんだ」


 ほんのりと、空が明るさを増していた。まだ夜空の色だが、空が橙に染まり始めるのはもう時間の問題だろう。


 その微かな光に横顔を照らされながら、吏善はほんの少しだけ、その静かなおもてに感情をにじませた。


「今の俺は、あんたのことも、救いたいと思っている」


 微かなのに鮮やかな感情の色に、緋蓮の中の何かが動く。吏善が操る言霊が緋蓮の心の水鏡に静かに波紋を広げていくように、吏善が面という水面にわずかに落とした感情の波紋が、緋蓮の心にも色を伴って広がっていく。


 その波紋に揺られて水中から気泡が浮かび上がってくるかのように、緋蓮の中にふと、とある考えが浮かんだ。


「まさか、東陽とうように絡まれた時、金玄寺こんげんじの結界が壊れたのって……」


 あの時、緋蓮が暴走しかけた迦楼羅の力を押さえることができたのは、『緋蓮』と呼びかけた声と鈴の音があったからだった。


 だが吏善の立場から見ると、あの場であえて響術を使う必要性はなかったはずなのだ。己が響術師であると疑われかねないあの状況で吏善が響術を行使するのは、逆に吏善にとっては不利益にしかならない。現にあの事件を受けて華仙は響術師の存在を認識し、警戒を強めている。ましてや直接自分達に関係なかった金玄寺の結界を破る必要性などなかったはずなのだ。


 ずっと緋蓮は疑問だった。なぜあの場で響術師が己の存在を感知させるような真似をしたのかと。


「もしかして、私をあの場から救うために、言霊を使ったから? 結界を破りたくて破ったんじゃなくて、暴走しかけた迦楼羅の力を止めるために言霊を使った余波で、意図せず結界を破ってしまっただけだったの?」


 緋蓮の言葉に吏善は緋蓮の方へ顔を戻した。その顔の中にはほんのわずかにだがバツが悪そうか感情がにじんでいる。


 その表情で、緋蓮は己の言葉に確信を得る。


「響術師が月天の中に入ってるって気付かれるって……最悪の場合、自分が疑われるかもしれないって、吏善なら分かったはずなのに。放っておいても、吏善に直接、害はなかったはずなのに……私を、助けるために?」


 戸惑いがこもった緋蓮の声は細かったが、他に音を立てるもののない時分だ。吏善の耳には確実に届いただろう。


「言霊の力だけでは止められないと分かったから、神鈴を使った。迦楼羅の力の余波に弾かれて、狙いが狂ってあのザマだ」


 吏善は直接『是』とも『否』とも答えなかった。


 ただ静かに語る言葉は、緋蓮の問いをはぐらかすことなく正面から答えを示す。


「あの時の言葉に、嘘はない」


 何を差して『あの時』と言われているのか、緋蓮には分からなかった。


 ただ、面ににじんだだけだった感情が、はっきり笑みとして吏善の口元に刻まれるその鮮やかな変化に、目を奪われる。


「俺は、足掻く。俺の願いのために」


 吏善は静かに立ち上がると、いつもの位置から緋蓮を見下ろした。闇色に染まっていた瞳は、窓辺に近い位置から徐々に明るさを増していく。


「だからあんたも、迦楼羅の宿命に抗え」

「り……」


 フワリと、最初の光が部屋の中に落ちる。


 それと入れ替わるように、吏善は姿を消していた。


 あの夜と同じように、吏善の気配は欠片も部屋に残されていない。まるで夢の残滓をかき消すかのように、窓から零れ落ちる陽光がどんどん太く降り積もっていく。


「……──」


 緋蓮は寝台から降りると、先程まで吏善が腰かけていた椅子に触れてみた。一瞬感じた温もりは、触れた傍から消えていく。


「……抗え、か」


 椅子に触れたまま、緋蓮は窓から外を見やった。


 溢れていく光に闇が追い払われて、新しい一日が始まろうとしている。かすかに聞こえてくるのは、金玄寺での朝課の前に各寺で読経を上げている声だろうか。


「そんな風に言ってくれた人は、初めてだったな」


 朝一番の太陽が放つ光は、迦楼羅が祓いのために放つ光と同じなのだそうだ。


 その光を一身に浴びながら、緋蓮は一度瞼を閉じる。内に抱えた心は、いつになく軽やかだった。


 こんなに清々しくて、泣きたくて、自分自身が迦楼羅の炎に清められていくような心地がするのは、初めてのことだった。


 ──抗え。


 その言葉を胸に刻んだ緋蓮は、静かに瞼を開くと力強く窓の外を見据える。


 そんな緋蓮の視線の先では、無垢な光に祝福された新たな一日が始まろうとしていた。

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