「えぇっ!? あの二人の葬儀、まだ行われてなかったの!?」


 緋蓮ひれんが素っ頓狂な声を上げたのは、目覚めてから数刻が経った後だった。


「亡骸を炎で浄化する任を負う迦楼羅カルラがずっと寝込んでいたんですもの。できるはずがないと思わなくて?」


 そんな緋蓮の声を受けても優雅さを失わない声音で、玲月れいげつは呆れたように答えた。緋蓮の隣に座す亀覚きかくも呆れたような表情でうんうんと頷いている。唯一、一行から少し離れた位置でかしこまっている吏善りぜんだけが、頷きもせずいつも通り静かすぎる空気を纏っていた。


「で、でも、私三日も寝込んでたんでしょ? 二人が亡くなったのは少なく見積もっても四日以上前なのよ? もういい加減送ってあげなきゃ可哀想だし、御遺体も持たないじゃない!」


 思う所があって玲月を訪ねるべく飛天楼ひてんろうの玲月の居室に顔を出した緋蓮だったが、折り悪く玲月は所用で巌源寺がんげんじへと出かけていた。どうしようかと迷っていた所に吏善を伴った亀覚が現れ、これ幸いとばかりに緋蓮は亀覚を頼って巌源寺へと出かけることにしたのである。


 迦楼羅を後見する一乗院いちじょういん執生しっせいを後見する巌源寺の仲は険悪だが、さすがに一乗院貫首かんじゅと迦楼羅の揃い踏みを無下に追い返すわけにはいかなかったのだろう。


 緋蓮達は一行は比較的すんなりと玲月が用事を片付けているという書庫に案内された。人の出入りがある場所から離れた書庫は込み入った話をするにはうってつけな環境で、以降緋蓮達はそのまま書庫に居座っている。


月天げってんで亡くなる全員が迦楼羅の炎で送られるわけじゃないんだからさ、何かそれなりに方法が……」

「あんなに凄惨な死に方をして、かつ派手な事件を引き起こした亡骸ですもの。念には念を入れて、決してそこから穢れを生まないように葬りたいのでしょう」


 玲月はあっさり答えると手元に広げた巻物を手繰った。


 薄暗い書庫に差し込む光が玲月の白髪を輝かせる。執生の象徴である白髪を長く伸ばし、墨染の衣を纏う玲月の姿は、いつどこで見ても神々しい。


 ──巻物を手繰る姿なんて、王朝絵巻にでも描かれていそうな姿よね。……まぁ、実際にそんな絵巻、見たことなんてないんだけど……って、うん?


 そこまで考えた緋蓮は、ふと疑問を抱いた。


 ──玲月は目が見えないはずなのに、書庫で巻物を広げて、一体何をしていたんだろう?


「迦楼羅が葬儀に関われば、どうしてもその葬儀は衆目を集めることになる。巌源寺としては迦楼羅の炎が欲しいような、欲しくないような、実に微妙な所であろうな。敵対派閥の力なんぞ借りたくないという本音もあるじゃろうし」


 亀覚の言葉を聞き流しながら改めて書庫の中に視線を巡らせるが、四人も人が入れば狭さを覚える書庫に他に人影があるはずもない。


 そもそもここに玲月以外の人影がなかったからこうして話し込んでいるわけだ。つまり一行がここに来るまで、玲月は手伝いを傍に置かず、一人で巻物を手繰っていたということになる。


「……ねぇ、玲月。私達がここに来るまで、他に誰か一緒にいた?」


 もしかして緋蓮達がここに来るまでは誰かがいて、一行の訪問を受けて席を外しているのかと思って問いを投げたが、玲月は小首を傾げると緋蓮の問いに否定で答えた。


「ずっとわたくしが一人だけよ? どうして?」

「え……。や、ううん。私達が押しかけてるせいで御付きの人が帰って来れなくなっていたら、さすがに申し訳ないなぁって思って……」


 あはははは、と笑ってごまかそうとしてみたが、玲月は不審そうに眉をしかめた。もしかしたら心の声で緋蓮の疑問を聴き取られてしまっているのかもしれない。


 玲月に対して思う所がある今、心の声が筒抜けになっているのはいささか都合が悪い。そもそも最初に飛天楼の部屋を訪ねようと思い至った理由も切り出せないまま心にしまい込んでいる状態だ。玲月にそれを知られてしまう前に、一度心の中を整理しておきたい。


「あ、えっと……ゴメン、ちょっと散歩!」

「は? 何を……」


 とにかく、心の整理をするにしても疑問を明らかにするにしても、玲月の前でこのまま考え込むのはよろしくない。とにかく、玲月から距離を置かなくては。


 そのことに気付いた緋蓮はピョンッと立ち上がると勢いよく書庫から飛び出した。突飛な行動に亀覚が目をみはる中、吏善だけが緋蓮に遅れることなく素早く書庫から滑り出てくる。


「吏善、私が何を考えたか分かった?」


 書庫のある棟から渡り廊下を進み、僧堂を回り込んで素足のまま庭に降りる。木立の影に目立つ姿を押し込んだ緋蓮は、ようやく吏善を振り返って言葉を投げた。


 玲月がどれくらいの距離まで声を拾うことができるのかは分からないが、間に人気の多い僧堂を挟んでいればその声に紛れて緋蓮の声は分かりにくくなるはずだ。


 そう考えてここまで緋蓮が距離を稼いだことまで分かっているのか、吏善は緋蓮の突飛な行動に言及することなく帳面に筆を走らせた。


『盲目であるはずの執生様が一人で巻物を手繰るなど』

「できないわよね」


 緋蓮が文字の続きを声に出すと吏善が大きく首を縦に振る。そのまま筆を走らせた吏善は、文字に起こす時間さえ惜しいのか、今までにないほど簡略な走り書きを緋蓮に示した。


『考えた事。妖× 響術師× 執生〇』

「え? どういうこと? 金堂での一件のことよね? 『あやかし×』って、現にこの間妖に遭遇したじゃない。見張り番だっていう僧侶だって……」


 筆談では言いたいことがすぐには伝わらない。口がきけることが分かった今では、よりいっそう筆談がもどかしい。


 だが吏善は響術師だ。言葉を発すれば独特の揺らぎが周囲に漏れてしまう。


 法力僧が多く闊歩する月天の中では、小さな油断が身の危機に繋がる。それが分かっているからこそ、吏善に言葉での説明を求められないことが緋蓮にはひどくもどかしかった。


 それは吏善も同じだったのか、吏善はイライラしながら首を横に振った。ここまで内心が分かりやすい吏善を緋蓮は初めて見る。だがどうすればいいのかなんて緋蓮には分からない。


 緋蓮はもどかしさに顔をしかめる。そんな緋蓮を見た吏善は、不意に緋蓮から距離を取ると足先で地面に円を描いた。その中に立った吏善は緋蓮を視線で呼びながら帳面に筆を走らせる。


『この円に沿って力を』


 ──! なるほど!


 その言葉で吏善の意図を察した緋蓮は、指先に炎を灯すと吏善の傍へ駆け寄った。炎が灯った指先で地面に刻まれた円に触れれば、まるで導火線に火がついたかのように炎が地面を走る。炎が円を閉じるより早く円の中に入った緋蓮は、軽く腕を振ると炎を薄く伸ばして壁に仕立て上げた。


「考えてたんだ。あんなことをどうやってしたらやってのけられるのか。なぜわざわざ正面から喧嘩を売るかのように月天総本山の金堂を狙ったのか。どう考えても妖の力であるはずなのに、なぜ妖気を感じなかったのか。あの妖達の本当の飼い主は誰なのか」


 円筒形の炎の壁が自分達の背丈よりも高く成長するのをイライラと待っていた吏善は、壁が頭上を越えるや否や口を開いた。


「待って吏善。その前に訊いておきたいの。吏善の他にこの町に響術師きょうじゅつしが入り込んでいるっていう可能性は?」

「ないとは言えんが、直近で響術師としての腕を振るったのは少なくとも俺だけだ。なぜそこを疑問に思った?」


 吏善が会話をするために紡ぐ言葉と迦楼羅の炎ならば、放つ波動は確実に迦楼羅の炎の方が強い。迦楼羅の炎を周囲に展開することで響術独特の揺らぎを焼き払ってしまえば、吏善が普通に喋る分くらいならば周囲に感知されないはずだ。


 迦楼羅の炎を使った簡易結界に助けられて口を開いた吏善は、回りくどい表現を排した言葉で真っ直ぐに緋蓮に斬り込んできた。


「事件の裏で糸を引いているのが朝廷の響術師組織じゃないかと疑ったから。月天の中の権力争いを裏から煽ってお互いに潰しあってくれれば、朝廷にとっては願ったり叶ったりじゃないの?」


 真っ直ぐすぎる言葉は、聞きようによっては緋蓮への敬意を欠いているようにも聞こえる。


 ──でも、私達の関係は、これくらいの方がいい。


「それは俺も考えた。だが考えたところで今は分からん。それよりも先に、あの妖達の主について考えた方が早い」


 緋蓮の問いを吏善はバッサリと切り捨てる。だが緋蓮は反発することなく素直に頷くと、軌道修正された議題について考えていたことを口にした。


「私が相対した時、あの法力僧は餌にした人物を指して『同じ釜の飯を食った同朋』って表現をしたわ。つまりあの法力僧は、妖に喰われた人間と同じ釜の飯を食うような関係にあったということよね?」


 被害者二人はどちらも巌源寺の法力僧であるという身元がはっきりと分かっている。


 つまりあの発言をそのまま素直に受け取っても良いならば、あの法力僧も巌源寺の関係者であったということだ。


「事件の種は、最初は巌源寺の中にあったんじゃないかしら?」

「金堂に突き落とされたあの法力僧以外に、直近で妖に喰われた僧侶はいなかったのか? あいつの発言はこの一連の事件についてのみを指していたと断言してしまっていいのか?」

「大丈夫なはずよ」


 切れの良い言葉に怯まず、緋蓮は正面から吏善の言葉に頷いた。


「直近であの二人以外に妖に襲われて死亡した人間はいない。いれば必ず私がその検分に呼ばれるはずだもの。いくら一乗院と敵対する巌源寺の中のことでも、私が知らずに終わるはずがない」


 本題だけを剥き出しにした言葉に、緋蓮も同じく要点だけを切り出した言葉を返す。


「だからこそ私は、玲月と話がしたかったの。巌源寺の関係者で、一番話ができそうな身近な相手が玲月だから」


 あの男は、自分が『見張り番』であり、飼い主は別の人間であるということを言っていた。自分の役目の邪魔になったから同朋を殺したという趣旨の言葉も発していた。


 つまり金玄寺の金堂のあの一件は、誰か一人が成したことではなく、どこかが組織だって行っていることの一端が垣間見えただけなのだと緋蓮は考えた。亡骸を金玄寺の金堂に落とすことが目的などではない。恐らく真の目的はもっと別の場所にあるはずだ。


「吏善も巌源寺の関わりだと思ったから、玲月が噛んでいると考えた?」

「執生様が噛んでいる、と具体的に思ったのは、さっき書庫で執生様の姿を見てからだ。それまではかなり上位の法力僧が多数の妖を飼っているんじゃないかと考えていた」


 吏善は筆を矢立に納めて懐に入れると、空いた己の手を見つめた。


「あの時、妖達は俺が祓うよりも前……迦楼羅の炎が暴れはじめた初期の頃にどこかへ引いた。俺もあんたも、妖の本体を祓えてはいないんだ」

「手ごたえがなかった?」

「ああ」


 武器を手に直接斬り掛かっていなくても、迦楼羅の炎で妖が滅っされていれば独特の反発……『返し』があるから、緋蓮には妖がきちんと消滅したか否かが分かる。法力や響術にも似たような感覚があるらしい。


「それなのにこの三日間、月天の中では妖の被害はおろか、妖気すら感じない。いくらなんでもおかしいだろう、この状況は」


 その言葉にハッと緋蓮は眼を瞠った。


 妖というモノは本来、生じれば腹が満たされるまで無差別に人を喰らい続ける存在だ。一度は暴走する迦楼羅の炎を恐れて引いたとしても、三日も大人しくしていられるほどの知性はない。


 それに加えて月天を囲うように展開されている結界は、良くも悪くも外と中の出入りを禁じている。外からの妖を中へ入れない代わりに、一度侵入してしまった妖が簡単に外へ出ていくこともない。


 つまり奥の院で緋蓮達を襲ったあの妖達は、少なくともまだこの月天の中にいるのだ。だというのにその気配が掴めないと吏善は言う。


「誰かが完璧にあいつらを統制に置いているんだ。あの強さの妖達を相手にそんな真似ができるなんて、よほど力のある法力僧か、もしくは……」

「それを上回る力と器を持つ、肆華衆しかしゅうしかないということね」


 妖が人を襲うこともなく三日間も潜伏し続けるなど、本来ならばあり得ない。


 妖が知性を持った行動をするということは、その妖が人間の指揮下に置かれているという何よりの証だ。人間が何らかの方法で妖を己の指揮下に置き、待機を命じなければ、今の状況は生まれない。


 そして大概そんなことをしでかす人間に碌なヤツはいない。


 そのことを思い、緋蓮は一度コクリと喉を鳴らした。心の中に生じた疑問を声に出すためには、強い覚悟が必要だったから。


「……玲月の視力は、妖の器になった副産物だと、吏善も思う?」


 その言葉に、吏善は視線を緋蓮に戻した。


 妖と契約を結び、妖力を振るうようになった者は、時として損なった体の機能を取り戻したり、新たな力を発現させたりすることがあると聞いたことがある。そのたぐいの作用で玲月が視力を得たならば、あの書庫で一人本を手繰っていた理由にも合点がいく。


 ──目をさましてからずっと、考えてた。


 あの妖のことも。自分が燃やし尽くしてしまった法力僧のことも。緋蓮に言葉を託して逝った二人の法力僧のことも。


『あいつらだって、騒ぎ立てずに静かにしてりゃあ良かったんだよ。俺だってさすがに同じ釜の飯を食った同朋を手にかけるのは心が痛んだんだからよぉ』


 上位法力僧ならば、一乗院以外の人間でも緋蓮はある程度顔を知っている。だがどう考えても、あれだけの強さを持つ妖、ましてやそれら複数匹と契約を交わして器になれるほどの力を持つ法力僧は巌源寺にはいなかった。


 そこまで考えた時に、緋蓮はふと思った。


 あそこまでの規模のことを、少数の人間で成すことは難しい。全員かは分からないが、恐らくは多くの巌源寺の法力僧が関わっている。


 そこまで寺ぐるみのたくらみが生まれた時、果たして巌源寺の人間達は、自分達と関わりを持っている強大な器になりえる人物を、……玲月を、利用せずに放っておくことなどできるのだろうか、と。


「執生の風があれば、妖気を清めて消すことができる。他の場所にあった亡骸を、風で巻き上げて空から落とすこともできる」


 検分の場に最初に呼ばれるのも、検分の結果が一番重要視されるのも『声なき声を聞く』という能力を持つ執生だ。


 その執生が共犯者であるならば、何も怖いことはない。調書だって玲月が関わっていればいくらでも書き換えることができる。


 何より。


「肆華衆に選ばれるだけの器があれば、あれだけの妖気を身に納めて周囲に覚らせないように振る舞うことができる。……玲月になら、できる」


 何より、そう仮定したならば、あの二人の法力僧の言葉の意味が分かってしまうのだ。


 二人が妖に殺されなければならなかった理由も。


 ──反対したから、巌源寺の意向で、妖の餌にされた。邪魔をしないように、消された。


 亀覚は被害者の一人であった任坊にんぼうを指して『穏やかな人間だった』と言っていた。


 巌源寺も、決して一枚岩ではない。事の一端を知って反対する人間だっていたはずだ。


『どうか玲月様を、救ってくだされ』


 玲月の身を案じて巌源寺の意向に反対してくれた人が、いたはずなのだ。


「私は、そう思った。……吏善は、どう考えたの?」


 ──吏善の考えを聞きたい。でも、同意してほしくない。


 己の中でこれしかないと結論を出したはずなのに、それでも緋蓮の心は揺れる。


 そんな緋蓮の前で一度ゆっくりとまばたきをした吏善は、真っ直ぐに緋蓮を見据えると唇を開いた。


 万物を揺り動かす言霊を秘めた言葉が、偽りのない吏善の心を紡ぐ。


「俺も、同意だ」


 その言葉に、覚悟を固めていたはずなのに、緋蓮の心は一瞬、無音になった。


 ギュッと瞳をきつく閉じても、その空白は埋まってくれない。


「玲月……っ」


 緋蓮がやっと言葉を紡げた時、どれほどの時間が経っていたのだろう。酷く長くかかって口を開いたような気がしたが、吏善はその間急かすことなく緋蓮の言葉を待ってくれていた。


「どうして……」


 当代肆華衆は、迦楼羅と執生の二座だけ。先代迦楼羅が亡くなってから緋蓮が迦楼羅の座に就くまでの一年間、玲月は一人で月天を支えてきた。


 緋蓮より年上で先に肆華衆の座に就いていたこともあり、緋蓮にとって玲月は姉のような存在だった。緋蓮が生きることに絶望しながらも最後まで飛ばなかった理由の一端には、確かに玲月の存在がある。


「……っ、祓わなきゃ」


 ツキリとした胸の痛みをごまかしたくて、きつく襟元を握り込む。それだけで胸の痛みは消えることはないが、それでも緋蓮は瞳を開くと吏善を正面から見据えた。


「もしそうならば、なんとしてでも祓わなきゃ」


 妖気は決して人の身に納めておけるものではない。生気と相反する妖気は死気に近く、短時間の接触でも命を削る。いくら玲月が執生として莫大な力を備えていようとも長くもつとは思えない。


 それに今は平然と隠し通せていたとしても、妖気を身内に秘めていればやがては執生としての力が歪んでいく。清浄な祓いの風が澱んだ死気の風に変わったことを周囲に覚られれば、いくら肆華衆といえども処刑は免れない。


「玲月を、助けなきゃ」


 強い瞳で吏善を見上げる緋蓮に吏善は頷き返した。


「巌源寺があの妖に関わっているなら、その証拠なり、使った術式なりがここに残されているはずだ。それを見つけて根本を叩いた方が後腐れがなくていい」

「分かったわ」


 緋蓮は力強く頷き返すと腕を振るって炎を消した。吏善に目配らせをすれば、吏善は頷いてそれに返す。


 ──どこに隠せば分からないものなのかしら?


 恐らく証拠が残されているならば関係者しか入らないような場所だ。現在も妖を使役し続けているわけだから、契約やら召喚やらに使った何かしらが今でも残されていなければならない。


 ──儀式を行ったならば、そこそこに広い空間が必要よね? 蔵とか、地下倉庫とか?


 とにかく、行くならば本堂よりも庫裏くりだろう。巌源寺以外の人間の出入りも多い本堂にそんな大それた秘密を隠すとは思えない。


 今の時間帯ならば、皆作務に出払っていて庫裏に人気はないはずだ。亀覚にも話して協力してもらった方がいいかもしれないが、亀覚の前には玲月がいる。今の心の声を玲月に聴かれるわけにはいかない。


 緋蓮は木陰から飛び出すと庫裏の方へ足を進めた。本当は走っていきたいくらいなのだが、そんなことをしたら余計に目立つ。緋蓮ははやる心を抑えながら速足で巌源寺の広い庭を抜けていく。


「おやおや迦楼羅様。こんな所で奇遇ですな」


 だがそんな時に限って、出会いたくもない人間に出会うものだ。


「……万慶ばんけい


 立ちはだかるように現れた老僧の姿に足を止めた緋蓮は、苦々しさを隠しきれない声で目の前の老僧の名前を口にした。


「息災なようで、何より」


 書庫がある方向とは逆に僧堂を回り込み、庫裏の周囲に広がる庭へ差しかかった緋蓮達の前に立ちはだかったのは、巌源寺の貫首として権力を振るう万慶だった。


 まるで緋蓮がここに来ることを予想していたかのように現れた万慶は、緋蓮の背後に控える吏善を眺め、おやっとわざとらしく驚きを顔に乗せる。


「迦楼羅様が年若いおのこと御一緒とは。こちらの庭で逢引の最中でしたかな」

「万慶、迦楼羅に対してその物言い、不敬であるぞ。控えよ」

「これは失礼を。男と女が惹かれ合うのは、生物として当然の本能ですからなぁ」


 即座に切り返した緋蓮の冷ややかな声にカッ、カッ、カッと笑いながらも、万慶の目は欠片も笑っていなかった。朗らかを装った言葉の中にはあふれんばかりの敵意と蔑みが含まれている。


「して、迦楼羅様はこのような場所におられるとは、一体何事ですかな?」

「お前の方こそ、こんな忙しい時間にこんな場所で何をしている」


 ──一乗院と肩を並べる寺格の貫首であっても、迦楼羅である私の方が万慶よりも立場は上であるはず……!


 ギリッと奥歯を噛み締めて強気な言葉を返した緋蓮は傲然と万慶を睨み据えた。


「何かと忙しい時間帯であるはずなのに、さすが巌源寺の貫首となると余裕があるな」

「滅相もございません。ただ、心がざわつきましてな。その心を落ち着かせるために、こうして庭に出てきたのでございますよ」


 だが緋蓮の睨みや厭味いやみが効く程度の人間に月天の中でも筆頭に告ぐ寺格を持つ寺の貫首など務まるはずがない。


 緋蓮の厭味をサラリと流した万慶は、逆にニヤリと、内に抱えた緋蓮への蔑みを隠すことなく笑みを浮かべた。


「まぁ、忙しない生まれである貴女様には、少々分かりにくい心持ちかもしれませんがな」


 その言葉に思わず緋蓮は眉をね上げる。


 万慶の発言の根本にある感情は、東陽とうようが緋蓮に向けたものと同じだ。ただ布で一枚包んだような発言をしてくる辺りに万慶の古狸ぶりが出ている。


「何に心をざわつかせているのか知らないが、修行が足りないんじゃないのか? 悟りの境地に達すれば、大概の事には心がざわめくこともあるまいに」


 ──落ち着いて。落ち着いて対処ができれば、切り抜けられるはず。


 万慶は東陽のような小物ではない。下手な扱いをすれば今度こそ確実に一乗院まで累が及ぶ。迦楼羅の力を暴走させるなどもってのほかだ。


 ジワリと体が熱を上げるが、緋蓮はそれを己の意志でねじ伏せた。


『だからあんたも、迦楼羅の宿命に抗え』


 脳裏に、いつだって耳を惹きつけられてやまない声で紡がれた言葉が響いた。


 響術師が紡いだ言霊は音が消えても力を持つのか、その言葉が今まで怒りに任せて力を振るうしかなかった緋蓮の心を静かに支えてくれている。迦楼羅が、緋蓮の言葉を聞いてくれているのが分かる。


 緋蓮の反応が常とは違うことに気付いたのか、それとも緋蓮の瞳に険が乗ったことの方に興味を覚えたのか、万慶が纏う笑みが深くなった。


「ほぅ? 迦楼羅様は、同じ寺の同朋が無惨に殺された時でも、華仙かせんの道に励めば心は安らかであると申されますか。いささか薄情なのでは?」


 そんな心情が欠片もないことくらい緋蓮でも察することができるのに、万慶はわざとらしく目元を袂で押さえて声を震わせた。


「嗚呼、嗚呼、任坊にんぼう千壽せんじゅも、いまだ荼毘だびすことなく放置されて可哀想に。迦楼羅様の体調がすぐれず、務めが果たせないばかりに……」

「そのことだがな、万慶」


 権謀術数のど真ん中に置かれていながら、緋蓮は腹芸の類が苦手だ。それでもここまで安穏と生き延びて来られたのは、亀覚を始めとした一乗院の面々が緋蓮を守ってきてくれたからだ。


 だが今、ここに亀覚はいない。


 おそらく本性の吏善ならば、腹芸を駆使することもその舌鋒の鋭さで相手を論破することもできるのだろうが、吏善をこの場で喋らせるわけにもいかない。


 緋蓮自身が、言葉を以って、戦うしかない。


「ひとつ、訊きたいことがある」


 緋蓮はスッと瞳をせばめると万慶を見据えた。背後で気配を消したまま従った吏善も、注意深く万慶を観察しているのが空気で分かる。


 ──抗え。戦え。己の、全てで。


「私は三日前、奥の院の前庭で強大な妖気とかち合った。私が寝込むことになったのは、それが原因だ」


 スッ、と深く呼吸しながら言葉を音にする。思っていた以上に落ち着いた声音で、滑らかに言葉は紡がれた。


「は……それはそれは」

「その現場で一人の法力僧に出会った。妖と通じていたようで、巌源寺と関わりがあるようなことを言っていた。探しているのだが、心当たりはないか」


 緋蓮の直球とも言える言葉に万慶は一瞬だけ不愉快を露わにした。


 だがそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはすっとぼけた表情が顔全体に広げられている。


「我が寺の人間が、妖と通じているとおっしゃいますか。言いがかりも良い所ですな。その法力僧とやらが我が寺に関わりの者であると、確たる証拠はどこに?」

「ない。だから探している」


 緋蓮がなぜあえて単刀直入に切り出したのか、万慶には意図が読めなかったのだろう。表情を取り繕いながらも万慶が探りを入れようとしていることが分かる。


「他の寺にもその内通達を出すつもりだが」


 それを理解していながらも、緋蓮は迦楼羅としての不遜な態度を崩さないまま万慶へ命を発した。


「万慶、月天の巌源寺に属する法力僧が全員ここに揃っているか、名簿と照合してまずお前が私に提出しろ。他の寺よりもいち早くだ」

「なっ!?」


 緋蓮の物言いに万慶が目をむく。顔に赤みが上ったのは怒りのせいだろう。内心で小馬鹿にしている緋蓮に上から目線で小間使いのごとく用事を言いつけられたことが癇に障ったらしい。


 常の腹芸をどこに放り出してきたのか、万慶は怒りを剥き出しにした顔で緋蓮に喰ってかかった。


「貴様……っ! 貧民上がりの小娘がつけあがりおって……っ!」

「万慶。巌源寺の人間は、揃いも揃って華仙の基本的な教えを忘れたらしいな」


 空気のように静かなのに確かに緋蓮に温かな熱を分け与えてくれる存在を背後に感じながら、緋蓮は一度背筋を正した。真っ直ぐに万慶に据えられた視線は、余計な力みがないままスッと万慶を射抜く。


「『信に身の貴賤を問わず。貴賤に惑わされるは小人の心根なり』 御仏も折に触れて口にされたお言葉だ。一度お前の口から門徒達へ説いてやったらどうだ」

「っ……!!」

「それに、私の命に従えば、『言いがかり』というお前の言葉を証明することにもなるんだぞ。なにせ、私はその遭遇した法力僧を……」


 そこまで口にした瞬間、脳裏にあの時の炎の幻影がよぎった。生きながらにして焼かれた男の、断末魔の悲鳴が耳にこだましたような気がした。


 今更ながらに、自分が衝動的にひとつの命を吹き飛ばしてしまったことに、背筋が震える。


 だがその全てを飲み込んで、緋蓮は静かに続く言葉を口にした。


「迦楼羅の炎で焼き払って、亡きものにした。寺の法力僧が全員揃っていることが証明されれば、私が遭遇した法力僧は巌源寺の人間ではなかったことが証明される」

「なっ!?」


 その言葉を耳にした瞬間、万慶の顔をよぎったのは驚きだった。次いで現れたのは怒りだろうか。


 緋蓮の言葉に乗せられて怒りを露わにしてしまった万慶に表情を繕う余裕はないようだった。緋蓮の言葉に対する驚き以上の表情をはっきりと顔に出した万慶を、背後に控えた吏善がしっかりと観察しているのが分かる。


「さて、私の意図は分かったか? 万慶」


 その空気に背中を押されるような心地で、緋蓮はズイッと一歩前へ出た。


「分かったならば、さっさと動いてもらおうか。こうして私達と遊んでいるくらいだ。暇なのだろう?」

「っ……!!」


 その言葉に一瞬、万慶の視線が泳ぐ。


 だが緋蓮は万慶の逃げを許さない。


「抗うな。これは肆華衆が一角、迦楼羅の命である」


 僧侶達が読経を上げる時のように、緋蓮は腹の底から声を発した。明確に迦楼羅としての立場から発された緋蓮の声に、逃げ道を探すように揺れていた万慶の瞳が凍り付く。


 その出自から侮られることもある緋蓮だが、本来華仙における肆華衆の立場は大僧正よりも上だ。緋蓮が明確に迦楼羅としての権力を振りかざして命じれば、その言葉は華仙の長である総貫首でさえおいそれと拒絶はできない。


 怒りに我を失っていた万慶にだってそれくらいのことは理解できたのだろう。


 この命令は、拒否できるものではない。拒否した瞬間、たったそれだけで『不敬である』と断じられて首を飛ばされてもおかしくはないのだから。


「さあ、巌源寺貫首の万慶。さっさと……」

「あまり、万慶を虐めないでやって下さる?」


 ここで押し通せば万慶は屈する。少なくともこの場から追い払うことはできる。


 そう思って言葉に力を込めた瞬間、涼やかな声が一行の間に割って入った。


「万慶の物言いは確かに不敬ではあったけれど、万慶には万慶の立場があるのよ、緋蓮。あまり迦楼羅の権力を振りかざして無理を言うものではないわ」


 気配を感じさせないまま響いた声に思わず緋蓮は振り返る。


 脳裏に思い描いた人物は、緋蓮の脳裏に浮かんだままの姿で少し離れた木立の下に立っていた。


「……玲月」

「あら、緋蓮、案じてくれているの?」


 一人で立つ玲月の姿に『なぜ』という疑問と混乱が心を埋める。


 その声が聞こえたのか、玲月は麗しいその顔にたおやかな笑みを浮かべた。


「ありがとう。でも、大丈夫よ。ここは私の後見を務める寺。何度も来たことがあるから、付き添いがいなくても何も危なくなんかないわ」


 緋蓮の心の声に答えながら、玲月は軽く小首を傾げた。長く垂らした白髪が、そんな微かな動きに従ってサラリと揺れる。


「それでもわたくしを案じてくれているのなら、久しぶりにわたくしの杖になってくれないかしら? 緋蓮。門前に迎えの輿こしが来たらしいの。丁度いいから、一緒に飛天楼へ戻りましょう?」


 玲月の瞳は、いつも穏やかに下ろされた瞼の下に隠されている。だが向けられる先はいつも、まるで本当は見えているのではないかと思うほどに正確だった。


 今も瞼に閉ざされた瞳は真っ直ぐに緋蓮に向けられている。瞳が見えないのに視線を感じる、全てを見透かされているような空気がそこにはあった。


「……輿じゃ、吏善を連れていけないわ」


 一度飛天楼へ帰ってしまえば、緋蓮が再び外出するのは難しい。夜課から薬膳へと続き、それが終われば灯守とうもりの任もある。ここで吏善と別れてしまったら、せっかくやることが見えたのに事を進めることができない。


 どうしたものかと思いながらも、深く考え込むことは許されない。玲月に覚られないように他の思考を混ぜながら考えをまとめるには限界がある。


 ──そうだ、灯守と言えば……


 どうすれば、と迷った瞬間、緋蓮の脳裏に駆け抜けた光景があった。


 ──これなら……!


「吏善! 私、玲月と一緒に飛天楼に帰るわ」


 パッと吏善の方へ向き直った緋蓮は袖衣で手元を隠しながら吏善の腰の佩玉を握り込む。


「今日、私、灯守の日だから。今日はもうここでお別れね。私は玲月と一緒に輿で帰るけど、入口に私の履物を預けたままだから、私が夜課や灯守をしている間に、吏善が飛天楼まで返しておいてくれる?」


 手の中にある紅玉に、ほんの少しだけ力を注ぐ。炎と同じ色を宿す紅玉は迦楼羅を表す宝玉でもある。元々属性が近い石にならば、多少炎の気配が生じても怪しむ者はいないだろう。


「亀覚にも、そう伝えておいてね」


 佩玉に自分の力が宿ったことを確かめてから、誰にも気付かれないように佩玉から手を放す。確かめるように吏善を見上げれば、吏善は万事承知とばかりに肯定を返してきた、


「玲月、戻ろう。危ないから私の肩に掴まって」


 そんな吏善を一度しっかりと見据えてから、緋蓮は玲月の方へ歩みだす。


 緋蓮を迎え入れた玲月は、全てを聞きつけていたかのように嫣然とした笑みを浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る