ふっと意識が浮上する。


 ゆっくりと瞼を押し上げてみたが、視界は変わらず闇に閉ざされたままだった。それでも体を包む慣れ親しんだ感触で、自分が飛天楼ひてんろうの自室の寝台に寝かされていることが分かる。


 緋蓮ひれんはわずかに視線を巡らせると部屋の中を見た。


 開け放たれたままの窓の向こうにも部屋の中と変わらない闇が広がっている。


 この暗さから推察するに、今は夜明け前だろうか。同じ闇であっても、夜中より明け方前の闇の方がより暗く、より静かだから。


「夜が明ければ、あんたが倒れてから三日になる」


 どれくらい時が経ったのだろう、と思った瞬間、傍らから響く声があった。静かに響く声は、独特の揺らぎを空気に残してゆっくりと消えていく。


 ──口がきけないっていうは、この独特の揺らぎを周囲に覚らせないためだったのね。


 緋蓮は内心で小さく呟いてから口を開いた。


一乗院いちじょういん分寺わけでらの証文は、偽物だったの?」


 忍び込んでいたのか、はたまた正式な許可を以ってここにいるのか、吏善りぜんは寝台の傍らに置いた椅子に腰かけて緋蓮の様子を眺めていた。


 そんな吏善の方向ではなく、寝台を覆う天蓋へ視線を投じた緋蓮は、けだるげな声で問いを投げる。


「本物だ。先に一乗院へ送った推挙状もな。ただ、俺がここへやってきた目的は、選抜試験を受けるためじゃない」


 淡々と答える声は、灯守とうもりを務めていたあの日、大塔だいとうの闇の中で聞いた声に相違なかった。意識を失う直前、瘴気の中で聞いた、緋蓮を助けてくれた響術師きょうじゅつしの声でもあった。


 吏善に、もはや己の正体を隠すつもりはないのだろう。あっさりと緋蓮の問いに答えた吏善の言葉に、嘘の響きはない。


 そもそも、初めて声を聞いた時から今まで、吏善が紡ぐ言葉には、嘘の響きがひとつもなかった。


 ──吏善は、真っ直ぐに問えば、答えてくれる。


 だから緋蓮は、己の心の内に浮かんだ言葉を、真っ直ぐに吏善へ向けた。


「私を殺すために、一乗院分寺が証文を出したというの?」

「それも違う。……話せば長くなるが、聴くか?」


 緋蓮は寝台に体を預けたまま首を縦に振った。


 この暗さでも緋蓮の姿が見えているのだろう。吏善は小さく頷き返すと静かに言葉を紡ぎ始める。


「俺は元々、この月天げってんで生まれた。親が誰かは知らない。物心ついた時には一乗院で養われていて、八歳まで本山の一乗院にいた。もう十五年くらい前の話になる」


 ならば吏善の歳は二十三で、漠然と思っていたよりも年上だったのだなと、緋蓮はまずそこを思った。


 響術師である吏善の生まれが月天であったことと、月天の外へ出た人間であることに思いが行ったのは、吏善が次の言葉を紡いでからだった。


「その当時一乗院の貫首かんじゅを務めていらっしゃったのは、亀覚きかく様の先代様で、阮善げんぜん様とおっしゃられた。俺を養育してくださったのも、その阮善様だ」

「亀覚はその当時、一乗院にいたのよね? 十五年ぶりに帰ってきたあなたに、気付かなかったの?」

「恐らくは気付いておられる。だが、正面切ってそのことを俺にただしてきたことはない」


 ならば亀覚は、吏善が己の素性を隠しているということを承知の上で、一乗院に受け入れたということなのだろうか。吏善に秘められた過去があることを承知の上で、緋蓮に付けたということなのだろうか。


「俺が八つの時だ。急に阮善様が一乗院から都の分寺へ移られることになった」


 長く一乗院貫首を務めた高僧の出向ともなれば、弟子や供が多く付き従うのが通例だ。


 だが阮善はそれを断り、吏善一人だけを伴って月天を出ると決めたという。


「そこにどんな意図があったのか、当時の俺には理解ができていなかった。俺は何の疑問も抱くことなく素直に阮善様に同行し、都の分寺に身を移した」


 緋蓮は想像を巡らせてみたが、小さな吏善の姿も、吏善を養育していたという先代貫首のことも想像できなかった。


 もう十五年も前の話なのだ。一乗院の人間とて、当時を知る者はもはや亀覚を含めた数人だけになっていることだろう。


「なぜ阮善様がそのような行動を取ったのか分かったのは、都の分寺に入って、自分の立場を月天の外から見ることができるようになってからだった」


 そこまで語って、ふと吏善の言葉が切れた。


 気になって吏善の方へ視線を投げれば、先程よりも鮮明に吏善の姿が目に映る。緋蓮見下ろす吏善の瞳は、部屋を満たす闇の色を映して暗く沈んでいた。


「その理由はふたつ。ひとつは俺が『変光へんこうの瞳』を持っていたこと。ふたつには俺が迦楼羅カルラ様……あんたの先代に当たる方と、個人的に親しくしてもらっていたからだ」


 あるいはその瞳の影は、過去に思いをはせることで生まれたものだったのか。


「変光の、瞳?」

「特定の定まった色を持たず、周囲の色を映して色を変える瞳のことをそう呼ぶ。呪力が高い人間に多いと聞くが、それ以上に『変光の瞳』を持った者の出生は、凶事の前触れだとされているらしくてな」


 聞き馴染みのない言葉をぼんやりと口にした緋蓮に、吏善は分かりやすく説明を加えてくれた。その声は淡々としたものだが、緋蓮の理解が追いつくように組み立てられる言葉の底には優しさが通っている。


「どのみち『変光の瞳』を持つ人間の出生は、肆華衆しかしゅうの器たる人間が生まれること並に稀なことらしい。俺が物心つく前から一乗院に預けられた理由も、恐らくはそこに関係しているはずだ」


 吏善の言葉に、緋蓮は奥の院へ向かう前、吏善の瞳に見入った時のことを思い出す。


 色まで吸い込まれていきそうだと感じたのは、緋蓮がその瞳に魅入られていたせいではなかったらしい。


 あの時の吏善の瞳は、本当に緋蓮の髪の色を吸い込んで紅を瞳に躍らせていたのだろう。あの闇の中で瞳が赤みがかって見えたのも、燈明の赤や緋蓮の赤を映し込んでいたからに違いない。


 他の人間にその瞳について言及されなかったのは、ひとえに月天の住人の大半を占める僧侶が揃いも揃って墨染に近い暗色の衣を纏っていたせいだろう。建物の中の薄暗さと相まって、大半の人間と相対する時、吏善の瞳は黒に近い色を映していたはずだ。


「俺が五歳の時、先代迦楼羅様と格別に拝謁が叶ったのも、当初はこの目のせいだった。俺によって災いが引き起こされるのではないかと危惧した人間達が、俺に絡みついているはずだと勘繰った悪縁を事前に焼き払うために、俺は飛天楼にいらっしゃった迦楼羅様と極秘裏に対面したんだ」


 不意に、引っ張られるように意識を叩き起こされたような気がした。


「吏善は、先代様を知っているの?」

「あんたはお会いしたことはないのか? 迦楼羅は肆華衆の中で唯一途切れることなく次代が現れると聞いているが」


 首ごと吏善に向き直って問うが、返された言葉には思わず息が詰まった。


「……ないわ。確かに迦楼羅はほぼ絶え間なく後継が見つかる。……だけど、私の時には、もう、先代様は……」


 話だけは聞いている、先代の迦楼羅。


 器として見出されるのが遅かった彼女は、生まれついての炎髪紅眼ではなかったという噂があった。


 十五で迦楼羅の座に就いた彼女の髪が紅に染まり始めたのは十三の時。託宣に従い僧侶達が遠き地にいた彼女を探し出した時、彼女の髪はまだ半ば黒を残していたが、遠い旅路を越えて月天に至った時、彼女は見事な炎髪を翻して大門をくぐったという。


 一人の迦楼羅の在位期間は、きっちり十五年。彼女がその務めを果たし終わったのは、緋蓮が月天に入る半年前のことだった。


「先代迦楼羅様……春紅しゅんこう様は、その対面の後も、何度も俺を飛天楼に招いてくださった」


 緋蓮が語尾を濁したことで問いへの答えを察したのだろう。吏善はそれ以上追求してくることはなかった。


「『変光の瞳』の修祓のため、という名目だったが、特に何をされるわけでもなかった。初めて対面した時からずっと、ただ春紅様と他愛もない話をして、茶を飲んで。華仙かせんのことを教えてもらったり、手習いを見てもらうこともあった」


 ただ、訥々とつとつと零れていた言葉が、ふつりと止まる。


 緋蓮が吏善を見上げると、吏善の瞳は緋蓮ではなく、どこか遠くを見つめていた。


 その唇から、ポロリと言葉が落ちていく。


「……きっと、春紅様は、お寂しかったんだろうな」


 その小さな独白じみた言葉が、己の胸を突き抜けていったような気がした。


 ──寂しい。悲しい。……寒い。


 その『寂しさ』が、緋蓮には分かる。きっと直接春紅を知っている吏善よりも深く、言語化できない場所から、理解ができる。


 ──だってここは、孤独な籠の中だもの。


 六歳で迦楼羅の座に就き、月天の外に縁らしき縁を持たない緋蓮だって、この煌びやかな鳥籠に息苦しさを覚えるのだ。


 十五でこの鳥籠に入れられるまで外を自由に飛び回っていた彼女は、一体どれほどの息苦しさを覚えたことだろう。残してきた縁を思って、どれだけ涙を流したことだろう。


「俺は、その寂しさを埋めて差し上げたかった。きっと、春紅様も、俺に対して同じような感情を抱いていたのだと思う」


 凶事を司る『変光の瞳』を持って生まれた幼子。


 生まれた時から災いだと言われてきた吏善の生は、決して祝福されたものではなかたった。


 その未来を、先代の迦楼羅は憂えた。少しでも助けてやりたいと、思ってくれた。


「春紅様から直接そう聞いたわけじゃない。ただ……、俺は、勝手にそうだと、思っている」


 不意に、さっきは浮かばなかった幼き日の吏善の姿が見えたような気がした。


 墨染の衣に身を包んだ幼子と、煌びやかな紅の衣に身を包んだ妙齢の女性が、卓を挟んで向き合っている。


 窓の向こうには眼下に広がる月天の町並みと、どこまでも広がっているのに決して飛び立てない空。卓の上に広がる茶器はやがて硯と筆になり、珍やかな花になり、何もなくなれば二人の間に言葉があふれる。


 崇め奉られ、恐れられ、時には権力の道具とされる迦楼羅にとって、その日々はどれだけ安らいだものであったのだろう。


「だがそんな俺達の交流を面白く思わない者も、危ぶむ者もいた。阮善様が急に俺だけを伴って月天を出たのは、三年にも及んで春紅様と私的な交流を重ねていた俺の存在に、月天中枢が目を付けたからだった」


 向けられる敵意の視線が、殺意に変わったことを、恐らく阮善はいち早く察したのだろう。


 吏善の育ての親であった高僧は、吏善を生かすために月天の外へ出る道を選んだ。


 その読みの正しさを証明するかのように、都に身を寄せた後も吏善の元には刺客が送り込まれていたらしい。恐らく月天にいる間は一乗院の手勢が吏善の見えない所で暗躍してくれていたはずだ、と吏善は語った。


「俺を消そうとする人間だけではなく、俺の身柄を生きたまま手に入れようとした人間もいた。春紅様に取り入るためなのか、取引を仕掛けたかったのかまでは分からないが……」


 吏善は教養だけではなく、命を守るための体術や法術も阮善に叩き込まれたという。阮善の加護とその鍛錬のお陰で吏善は命を繋ぐことができた。


 同時に、刺客を退けるたびに、心にかかったのは春紅のことだった。


「月天の中枢の、殺伐とした中に身を置き続けなければならない春紅様が、俺は哀れでならなかったんだ」


 その言葉に緋蓮の脳裏に浮かんだのは、吏善の訪いがなくなったこの部屋で、一人静かに時を過ごす先代の姿だった。


 緋蓮と同じ衣に身を包んだ彼女はきっと、緋蓮と同じようにあの窓枠に腰かけて飽きることなく外を眺めていたのだろう。


 顔も知らない。声も知らない。


 だが歴代の迦楼羅と同じ部屋に住み、同じ役分を負っている緋蓮には、分かってしまうことがある。


 緋蓮が窓枠に腰かけた時、爪先が納まる場所にちょうどいいくぼみがある。幼子の時にはそれが何でできた物なのか分からなかったが、成長して体の大きさが先代達に近付くにつれて分かった。


 これは、迦楼羅達が窓枠に座り続けたことで擦れてできたくぼみなのだと。木の窓枠が素足で擦られてへこむくらい、繰り返されてきた仕草なのだと。


「元を正せば法力僧であった俺が響術を身に付けたのは、飽きることなく送り続けられていた刺客から己の身を守るためだった」


 法力僧にとって、響術は未知の領域だ。それはかつて法力僧であった吏善が一番理解している。


 吏善は送り込まれてくる法力僧に対抗するために、その未知の力を利用することにした。ただ、華仙の僧侶である阮善に正面から『響術を学びたい』とも『響術の師となる人間を紹介してほしい』とも切り出すわけにはいかない。


 結果、吏善は夜な夜な寺を抜け出し、身元を伏せて名が知れたの響術師の元に通い、半ば独学で響術を身に着けた。そんな無茶苦茶な真似ができるくらい、都には響術師があぶれているのだという。


「阮善様は、そんな俺に何も言いはしなかった。きっと、俺が何をしているかなんて、全部お見通しだっただろうに」


 阮善は分寺に移って二回目の冬が終わる頃に身罷みまかった。


 高僧でありながら月天の外で死を迎えたことへの嘆きも、吏善への恨み言も、吏善が華仙にとってかたきである響術に手を染めていることへの叱責も、阮善は最期の最後まで口にすることはなかったという。


「俺なんかが言っても何にもならないが、本当に立派な方だと、今でも俺は思う」


 吏善は淡々と言葉を続けた。


 口を開いても静かな気配は感情をにじませない。あえて感情を押し殺しているのだろうということは、吏善の瞳を見ていれば分かった。


「春紅様が亡くなったことは、旅の巡礼者から聞いた」


 吏善が春紅の訃報を耳にしたのは八年前の春のことであったらしい。春紅が没してから、すでに四年の歳月が過ぎた後だった。


「月天の中にいたら信じられないかもしれないが、外に中の情報が伝わるのはとても遅いんだ」


 本山から分寺へ報は行っていたかもしれないが、それを知ることができるのは寺の運営に関わる一部の上級幹部だけだ。


 阮善亡き後も身を狙われていた吏善はひっそりと隠れるように生きてきたのだろう。そんな吏善がいち早く中の情報を知らせる報を掴むことができたとは思えない。知るのが遅れることも無理はないだろうと緋蓮は思う。


「その事実は悲しかったが、そのことを知ったからといって、何か動こうとは思わなかった。俺にできることがあるとも思えなかったしな」


 吏善に再び月天の大門をくぐろうという決意を抱かせたのは、別の要因があったからだという。


「阮善様の追善法要のために遺品の再整理をしていて、偶然手記を覗き見してしまったんだ」


 吏善は懐に手を入れるといつも持ち歩いている帳面を取り出した。


 暗闇の中でも目が利くのか、吏善は迷うことなく裏表紙の隠しに入れていた紙片を抜き出す。差し出された紙片を受け取った緋蓮は、片手を振って指先に炎を灯した。


 ほのかな明かりに照らし出されたのは、変色しかけた紙だった。書き付けられた文字はいかにも僧侶の手跡らしく四角四面にしたためられている。


『あの御方を月天に独り残してきたことが、今際いまわの際の今になっても悔やまれる。しかしの方を外へ連れ出すことはできぬとも、また頭では分かっている。むくろから魂は解放されても、迦楼羅からは未来永劫逃れることはできぬ。死した後さえ迦楼羅に喰われるが迦楼羅の器に選ばれてしまった者の定め』


 その文字をゆっくりと見つめ、緋蓮はスイッと炎を消した。再び広がった闇は、さらに深く緋蓮と吏善を包む。


「……あんた、俺に訊いたよな。『昔、響術師が、すめらぎの命を受けて肆華衆をかどわかしたことがあるのは本当なのか』って」


 その闇の中に、淡々と、深々と、吏善の声が零れ落ちた。


「本当は俺に問わなくても、答えを知ってるんじゃないのか?」


 その声に、緋蓮は静かに瞳を閉じた。


 そして数拍、自分の心の臓の鼓動を数えてから、閉じた時と同じ速度で瞼を開く。


「……あなたは、これだけの記述で、気付いてしまったのね」


 己の指先さえ見えない闇の中で、緋蓮は天蓋へ視線を投げた。


肆華衆私達が、死した後でさえ、この町と華仙に縛られるということを」


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