第4節
四
「――まぁ、ざっとこんなところだ」
雲景は急須に残った柿の葉茶を峯匡の碗に注いだ。冷えてしまっていたが、峯匡はそれを美味そうに飲み干すと、友人の小さな冒険譚に感想を述べた。
「おまえにはお馴染みのことなんだろうが、わたしには耳新しく、面白い話だったよ」
「そうか。そう言ってもらえると嬉しい」
「今度も政綱殿がご活躍だったわけだが、今日は姿が見えないな?」
「ちょっとした用事があるとかで、今朝早く出かけたよ」
「ふうん……」と、少し間を置いてから、「さて」と峯匡は膝を打った。
「帰るか?」
「うむ。あまり長く留守にしていると、父上に叱られよう」
立ち上がった峯匡を見送ろうと雲景も腰を浮かせたが、峯匡はやんわりとそれを断った。
「それよりも、おまえは部屋を片づけたほうがいい。いまに黴だらけになるぞ?」
今朝、政綱からも同じことを言われたのを思い出して顔をしかめた雲景は、うるさそうに手を打ち振った。
「わかった、わかった。すぐに片づけるとも」
「それが賢明だろう。ではな、雲景。政綱殿にも宜しく伝えてくれ」
そう言い残し、峯匡は去って行った。
廂の戸を小さく開けると、来た時と同じように薄青の布を被いた峯匡の背中が見えた。それを見送った後、雲景は文机に紙を広げて、度々手を止めながらも筆を動かした。
それから一刻後、戸の外では相変わらず弱い雨が降り続いていた。雲景はすっかり手を止めていたが、押し込みに遭ったような部屋は綺麗に片づいていた。麻枝から新しく淹れてもらった柿の葉茶で一息ついていると、階下が急に賑やかになり、足音がふたつ聞こえ始めた。戸口に現れたのは、予想した通り政綱と遠時だった。
「重ね重ねご苦労だったな政綱。あぁ、おまえたちに言われた通り、部屋は片づけておいたぞ」
「おまえたち?」
政綱は、雲景の右手の
「彼にも部屋を片づけろと言われたんだ――あの化け猫殿にだよ」
政綱は笑っていたが、遠時は驚いていた。政綱は用事を済ませた帰路、遠時を呼び出して雲井小路に戻って来たのだが、詳しいことは聞かせていなかった。
遠時が、少し身を乗り出して尋ねた。
「化け猫が来たのか?」
「ああ、来たとも。政綱の言う通り、峯匡に化けてな」
政綱は懐から出した布で、愛刀の鞘を拭いながら言った。
「何人か候補は浮かんだが、ふらっと現れて最も自然なのは、やはり峯匡だろう。どうだった雲景。話していて、それだと気づけたか?」
「注意していたから、なんとなくはわかった。峯匡は、わたしを〝師春〟と呼ぶはずだが、今日はずっと〝雲景〟だった。だが事前に言われていなければ、気まぐれだろと聞き流したかもしれない」
「実を言うとな、おれも見送りながら、本当に峯匡なんじゃないかと思ったほどだ。右京の辺で猫に戻ったお蔭で、自分の目を信じられたが」
雲景の言った政綱の用事とは、化け猫の見送りだった。昨日、政綱の機知で難を逃れた化け猫は、説得に応じて都を去ると決めた。心ならずも追う役となった政綱は、都の外まで影のように忍びやかに添って、気づかれぬままに見送ったのである。
それを説明された後で、遠時が政綱に訊いた。
「殺しておらんのか? では、あの猫の死体はどこから持って来た?」
立ち上がった政綱は、雲景が壁に貼った都の地図上の一点を指し示した。遠時が座を立つと場所を入れ替わり、政綱は刀を置きに借りた部屋へ向かった。
遠時は政綱が指していた場所を見、「あっ!」と叫んだ。
「政綱、おぬし……そこは
戸の向こうから政綱の笑い声が漏れ聞こえた。
「とんでもないやつらだ! 見つかったらどうするつもりだったんだ?」
雲景が、にやっと笑って答えた。
「大丈夫。忍び込んだのは政綱だけだ」
「そういう問題ではなかろう! 帝のおわす内裏だぞ!」
「心配するな、判官――」
手に抱えた
「のろまな内裏の番衆ごときに、おれは捕まえられん」
「あぁ、そうだろうとも! いや、だからそういう――」
鼻息の荒い遠時を雲景が遮った。
「政綱、それは?」
「さぁ。置いてあったが、おれの物ではないぞ」
政綱が部屋の中央に筥を置くと、雲景は文机を脇に押しやり、身を乗り出して言った。
「開けてみろよ」
うなずいた政綱が筥を開けると、雲景と遠時は思わず息を飲んだ。中には金糸と銀糸で刺繍の施された美しい藤色の衣と、その上に乗った三つの小袋。それに切り紙が一枚添えられて入っていた。
政綱が小袋を開くと、三つとも中身は砂金だった。雲景は一つを取り、遠時の手に握らせた。
「判官殿、今回こうしておぬしは使庁を裏切ることにはなったが、これでよかったとは思わないか?」
「うぅむ……」
「いや、何も金のことばかりを言うわけではない。ほら」
そう言うと雲景は、添えられた切り紙を裏返し、遠時に見せた。そこには短くこう書かれていた。
〝まことにかたじけなく、ありがたく、ご芳志痛み入り候、かしく〟
そしてその左下には、花押の代わりに大小五つの肉球の判が捺してあるのだった。
「……妻子があったのか」
遠時はそう呟き、「これでよかったのかもしれんな」と、ひとりうなずいた。
安田遠時が若干の後ろめたさと、満足とを同時に感じながら帰った後、ふたりは麻枝を階上に呼んだ。
病に倒れ、一度は死にかけたために主家を退いたという麻枝だったが、ふたりが知っている限り非常に丈夫な老女だ。この時も、しっかりした足取りで階段を上がり、そして藤色の小袿を広げたふたりに出迎えられて、娘のように顔を輝かせた。
裾を翻し、小唄を口ずさみながら舞う麻枝には聞こえないように、ふたりはほくそ笑んだ。
「政綱、あの安田判官、やはり気がついていなかったようだな」
「ああ。まさか、御所から
人狗草紙――化け猫雨情―― 尾東拓山 @doyo_zenmon
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