あのこと

「亜紀さん、妊娠したって」


唐突に宗一郎から放たれた言葉に、可奈子は思わずパスタを食べる手を止めた。


「え、本当?いつ聞いたの?」

「だからお前が車に戻った後だよ。時間がかかってたのはそれが理由」


はぁ、とため息をついて、宗一郎はテレビに目を向けた。『富士吉田市で紅葉を見る!古民家カフェ』とテロップが付き、画面には赤や黄色が目を惹く富士の山々が映し出されている。


「なんだ、それならそうと早く言ってよ。安定期には入ってるのか聞いてる?どっちにせよ早いとこお祝いしなきゃね。新しい子ども服も見に行かなきゃ。でも、その前に男の子か女の子かを聞かなきゃ…」


あからさまに機嫌が良くなった可奈子を後目しりめに、宗一郎はスマホに目をやった。守には10時までなら話せると伝えてあるが、一向に返信がない。時刻は既に8時を過ぎている。あと4時間足らずで月曜日が来て、自分も守もまたせわしない一週間が始まってしまうので、本来ならば今日中に話を終わらせておきたいところではあるのだが。


――まあ、俺が急かすのも違うかな。


守には守のタイミングがあるだろう。そう判断し、宗一郎はスマホをポケットにしまい、再びテレビに目を向けた。画面には『紅葉茶』と銘打った赤い紅茶の写真が映し出されていた。


―――――――――――


夕食のあと片付けをしていると、ふと今朝読んだ手紙を思い出した。突如自分のもとへ届いた、元教え子からの手紙。


――教師時代、か…。


栄太の死をきっかけに可奈子が教師を辞めようと決意したのは、40歳の誕生日を迎えた当日だった。とはいえ、その1年ほど前から休職期間にあったため、実質39歳で教師を辞めたようなものだが。


元々完璧主義、正義感の強さゆえに精神を病みやすい可奈子であったが、この休職期間は、可奈子の人生で1、2を争うほど精神面でも体力面でも落ち込んだ1年間だった。


わが子同様手をかけ、愛し、良い教育を与えるよう努めた。輝かしい未来が待っていたはずの甥が、わずか4歳という若さでこの世を去ってしまった。可奈子と宗一郎はもちろん、実親である守と亜紀にとっても非常にこたえた1年間となった。


――あの手紙、まだ少ししか読んでないな。早いとこ食器を片付けちゃって続きを読まなきゃ。


辞職はしたものの、可奈子にとって教師時代の思い出は、どれもかけがえのない美しいものだった。そんな記憶を思い出させてくれる元教え子からの手紙は、奇妙ではあったがかなり嬉しいものだった。


現在、時刻は8時半。これから食器を洗浄機に入れ、シャワーを浴びて髪を乾かすとちょうど9時半になるだろう。可奈子はスマホのタイマーをセットし、テーブルの上の食器をその細い腕でよっと持ち上げた。

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屈託のない手紙 ろば歩(ろばあるく) @exp_start

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