新生世界録
秋月 影隻
プロローグⅠ 『ある少女の旅立ち』
「カルミア」
暗闇の中でわたしの名を呼ぶ声があった。何度も、何度も聞き覚えのある懐かしい声で呼ばれた。
気持ちよく微睡んでいたものだからその声を鬱陶しく思い、重い瞼を開ける。ぼんやりとした意識の中で、足がビリビリと痺れているのを感じ取れた。意識がはっきりするにつれてその痺れは強くなり、やがてそれは痛みに変わっていった。
「あ、い、痛ッ……!」
じんじんと広がる刺激に悶絶して跳ねる。意識が覚醒して、見慣れない景色に思わず目を丸くした。そちらの衝撃の方が大きくて、一瞬だけ痛みを忘れることができた。静かにしていると外から、パカパカ、という音が途切れる事なく一定のリズムで流れてきた。
……馬車の中?
「ああ、やっと起きた」
「……エル?」
はっきりとしない目を擦って、正面の席を見ると義姉のエルがいた。淡い金色の長い髪を払いながらエルは心底から呆れたような目を私に向ける。
「まったく、村を出てすぐに寝るなんて……本当に緊張感がないのね」
「……村を出て?」
寝起きのため、思考が鈍い。
ええっと、今日は確か……何か大切な日だったような……。
髪を乱暴に弄って深く長考しているわたしを見て、エルは眉を伏せた。
「十月二十五日。どう。流石に分かったんじゃない?」
しばらくしてエルはわたしに考えさせることを諦めたらしく、溜息をついて口を開いた。エルの口から出た日付を聞いて、今までの出来事が走馬灯のように蘇る。やがてなぜここにわたしがいるのかを思い出すことができた。礼を言おうと顔を上げてエルを見る。怒っているという雰囲気はなくむしろほのかな笑みを浮かべている彼女を見て、わたしの至らなさを自覚させられる。まだまだ私は未熟だ。
十月二十五日。その日は、私が長年思いを馳せ続けた王都へ働きに出る日だった。故郷から王都へは徒歩で三日、馬車で半日はかかる。いくら働きに出るからといっても、本格的に仕事がわり与えられるのは明日のため、今日は挨拶程度の予定だった。つまり、早くに着けばその分王都での自由時間が得られるのだった。そのため、肌寒い早朝にわたしは王都行きの馬車に乗った。無論、朝の寒さに耐えることができず、エルに叩き起こされたけれども、なんとか間に合うことができた。
本来なら昼前には王都に着く予定だった。しかし、確か橋が流されてしまっていたから、川沿いを迂回しなければならなくなったのだ。最初は不吉なことが起きる前兆だと思って、気を張っていたのだけれど、心地よい馬車の揺れ具合とぎいぎいと木の軋む音が、長時間同じ姿勢のままで疲れてしまった身体に響いて居眠りに耽ってしまっていた。対してエルはどうやらずっと起きていたようで、改めて睡魔の誘惑を容易に振り払える彼女はすごいな、と思った。
ふと後ろの窓を見た。そこには畦道が見えるだけで、当然わたしの故郷は見えなかった。少し早いけれど、郷愁の想いが湧いてきた。
私のいた村はそれなりの規模で、しかし、みんなが互いのことを知っているぐらいには狭かった。王都の情報が伝わらないという事はなく、定期的に送られてくる情報誌から王都での出来事を知ることができていた。知らない地区の知らない店での出来事や、知らない賢い人による新しい発見。毎月、届いた紙束を開けば、常に新しい知らないことや村で起きる何十倍の面白い出来事や悲しいものが載っていて、わたしが王都に憧れを抱くまでそう時間は掛からなかった。
父はそんなわたしに対して寛容だったが、それはわたしが魔女狩りになる事を前提としてのことだった。魔女狩りの業務は魔女の取り締まりだけでなく、魔物の調査に商業ギルドの護衛、住人の依頼の解決や公的機関の書類仕事の委託など多岐にわたる。あらかじめ父から現場のことを聞いていたため、魔女狩りは非常に過酷な役職であることを知っていた。しかし、わたしは父の提示した条件に何の抵抗もなく呑み込むことができた。
なぜなら魔女は、わたしの母の仇なのだから。
「___っ!」
急に馬車の揺れが強くなる。その揺れはすぐに収まったものの完全に気が抜けていたため、頭を操縦室と自分とを隔てる壁に勢いよくぶつけてしまった。ドン、と大きな音が響いたため前にいる人には自分が体を壁にぶつけたことを気づかれてしまっただろう。エルは静かに苦笑していた。
「大丈夫かい?」
声にならない悲鳴をあげて痛む頭を撫でていると、前方から優し気な声が飛んできた。声の方に目線を向けると、上部に設けられた窓が開いて、そこから若々しい男が心配そうな様相で顔を覗かせていていた。
「だ、大丈夫です」
開けられた窓から男に向けて返事をする。返事を聞いたら、「すまない、一言言うべきだったね」と言って窓の視界から消えていった。一度覗かせた顔から、わたしに声をかけてくれたのは御者ではなく、馬車が出る時に同行する事になった護衛の人だということがわかった。
エルは護衛の人が私の方に意識を向けている時に気配を消していた。エルはあまり私以外の人間とは話したがらない。それは十四年間全く変わらないようで、我関せずといった風に黙って護衛の彼が顔を覗かせていた窓の方を見ていた。代わりに話をしろということだろうか。
エルの思っていることと私の解釈が合っているかどうかはわからないが、その意を汲み取って、馬車の揺れに気をつけながらゆっくりと立ち上がる。そしてエルが見つめていた窓から顔を覗かせた。急に視界が広くなり、未だ森の中を行っていることがわかった。御者はこちらの出来事には目もくれず、馬を急かしているように見えた。
視線を移すと護衛の人と目が合った。少し気まずい間があったが、ゆっくりと声を絞り出す。
「……あとどれぐらいかかりますか?」
「やっと川を渡れたから、もうそろそろ森を抜けて、王都の外壁が見えて来るだろうね。到着するのは昼過ぎ頃になるかな」
護衛の人は陽気な雰囲気を纏いつつ丁寧に答えてくれた。どうやら、トラブルがあったところでさほど到着する時間は変わらないらしい。それを聞いて、わたしは座席に戻り身を捩る。そして閉じていたカーテンを開けて外の景色を覗いてみる。外はやはり木々に囲まれており、変わり映えのない景色が広がっていた。が、唐突にまばゆい光が差してきた。光に目をやられ、しばらく目を開けていられなかった。
瞼越しに光を目に慣らしてからゆっくりと目を開けると、窓越しの風景は一風変わって開けており、眩い光が大地を照らしていた。その光を受け、地に咲く色とりどりの花々はそれぞれの色を反射して輝いて見えた。
「あの村から出るのは初めてかい?」
「え、あっ。はい、初めてです」
一人、その壮大な景色に夢中になってしまって気づかぬうちに感嘆の息を漏らしていた。エルはあまり関心がないようで、反対の席から腕組みをしてその風景を眺めていた。人一倍綺麗なものが好きな癖に素直じゃないな、なんて思っていた時だった。無意識に出したわたしの声を聞いたのか、はたまたわたしの様子を見たのか、さっき声をかけてくれた護衛の男が再び話しかけてきた。あまりにも綺麗なその光景に夢中になっていたものだから、少し反応が遅れてしまった。その反応に対して彼は微笑んで言葉を続ける。
「そうかい。ならしっかり目に焼き付けておくといい。王都で仕事をし始めたら、こんな綺麗な景色をゆっくりと眺めることはできないらね」
その言葉を聞いて、再び彼の方を見た。彼の浮かべる微笑みに少しの翳りが見えた気がした。
その後何事もなく王都への道を進んでいった。花の群生地を過ぎた頃には日が真上に登っていた。本来ならすでに王都についているはずで、昼食も適当なお店で取っているころだった。しかし、早朝に発ったのにもかかわらず今なお王都への道半ばで、いくら動いてはいないと言っても、少しの空腹感を抱いていた。精一杯耐えていたが、我慢しようと思ってもそれを抑えることはできず、大きな腹の虫の音を立ててしまった。最初はなんともなかったが、後からあまりの恥ずかしさに悶えて赤面してしまう。不幸にもこもった空間ではその音は響いてしまい、操縦室に座っていた彼に聞こえてしまった。
「すいません」
「別に謝るほどのことではないよ。こういうのは慣れないだろうから仕方がないさ」
護衛の彼は笑みを浮かべながら至らぬところばかりのわたしを宥めてくれた。早朝からの付き添いのため、彼自身も腹を空かせているだろうに、わたしにかけてくれた親切なその言葉には申し訳なさを感じた。
「トラブっちまってすまないね。昼食を抜くのはきついだろう?シャルルさん、儂の鞄の中にりんごがあるはずだ。二人で食べてくれ」
そんな会話が続いた中、今まで一切口を開かなかった御者が唐突に口を開いた。初老風のその御者の声はゆっくりで淡々としていたが、重々しく響き、また言葉の端々からは優しさを感じられた。護衛の彼は驚いたように振り返り、窓の視界から消えていった。
「俺にも、ですか?」
「ああ、そう言ったろう? シャルルさん、あんたもまだ若いんだから痩せ我慢などしなくていいんだよ」
「いや、しかし………」
シャルルと、窓の外から聞こえてくる声から私はこの時初めて護衛の名前を知った。わたしに配慮してなのか、しばらく小声での話し合いが聞こえたため、はしたないが気になって窓の方に近づいて、再び顔を覗かせた。
彼は御者の気遣いを躊躇っていた。それはおそらく彼自身と同じように出発してから何も口にしていない御者を思ってのことだったのだろう。一応、御者も護衛対象だ。尚且つ、職業柄休息することはできない。だから、御者の気遣いに応えかねてしまうのだろう。しかし、彼も不意に腹を鳴らしてしまう。それを聞いた御者は首をゆっくりと動かし、シャルルさんに柔和な笑顔を見せた。その笑顔からは圧力のようなものを感じたが、同時に御者の勝った、という気持ちが見えたような気がした。
「……すいません。お言葉に甘えさせていただきますね」
「ああ、どうぞ」
はあ、とやるせない息を吐いてシャルルさんは、御者が目で示した鞄を手に取った。
御者が鞄といったそれは薄い布製のもので、麻袋に近いようなものだった。シャルルさんがそれを引き上げると、布が伸びるようにして持ち上がった。
「はい」
「あ……えっと……」
じっくりと二人の優しい攻防を見ていたものだから、麻袋を差し出されて固まってしまう。ほいと何度も前にちらつかされたら、受け取らないというのもどうかと思い、ついつい受け取ってしまった。シャルルさんはわたしが麻袋を受け取ったのを見ると、いつの間にか取っていた林檎に齧り付いていた。
「あの…ありがとうございます」
「いいから、いいから」
御者に礼を言うも流されてしまい、その場の流れで、わたしは林檎に齧り付いた。口の中で軽い酸味と甘い果汁が広がる。口の中にある果実を噛めば噛むほど、どんどん甘くなるものだから目を見開いた。
「__っ! …この林檎とても甘くて美味しいです!」
「ははは。お客人の口にあってよかったよ」
結局、遠慮なんて言葉は消し飛んで五個も食べてしまった。エルにも勧めたが、「私はいい」との一点張りだった。御者さんに失礼だと、無理やり食べさせようにも力量では敵わないことが目に見えていたので、エルに食べさせるのは諦めた。そのため、エルの分まで食べないともったいないと思ってついつい食べる手を止めることを忘れていた。
「……気をつけてください。何か、います」
わたしが六個目の林檎に手を出した時だった。シャルルさんが真剣な面持ちでわたしたちに告げた。今まで話していたときのような陽気さはなく、ただ淡々としかし覇気を纏った声だった。側面の窓からは平野が続いているだけで、特に何も見えなかった。しかし、エルは何者かの気配を察知していたようで、前方の一点を睨んでいた。エルの目線に釣られて私もその方を見る。じっと見ても特に何もわからなかったが、小窓の方を見ればエルが目線をやっていたところにシャルルさんも剣を構えてそちらを見ていた。
馬車がついに警戒していた地点を横切ろうとした時だった。突然、脇道の地面が隆起したと思えば、土砂を纏った何かが飛び出し馬車に体当たりした。馬車は大きく揺れ、それに驚いた馬は耳を劈くような声色で嘶いた。何かが来そうな予感があったため、心の準備はできていたものの、突然の衝撃によって反対の席に吹き飛びそうになる。だが、エルが手を貸してくれたおかげでなんとか踏ん張ることができた。
襲い掛かってきたそれは四つの四肢を持つ獣だった。大きさはおおよそ大人二人分で、土に潜っていたためか暗い藁色の体毛に土砂を絡めて全身に纏っていた。顔は狼の様相をしており開いた口からは鋭い刃物のような歯が何本も並んでいるのが見える。しかし、その何よりも目に付いたのは、異常に発達した黒い前足だった。それは獣の後ろ足より長く、四本指は猿のように物を掴むことに特化した形をしていた。爪は歪な弧を描いて曲がっており、もしそれに引っ掻かれてしまえば、致命傷は免れないだろう。
獣の初発は防げなかったものの、一度姿を捉えた時のシャルルさんの動きは早かった。大きく揺れて足場が不安定だったのにも関わらず、馬車から獣の方に飛び出して巨体の前に躍り出ると、携帯していた剣を鞘から抜かないまま横凪に振るう。振るわれたそれは巨体の胴に当り、驚くことにシャルルさんは自らの倍以上ある獣を退けさせた。
休息を与える間もなく怯んでいる獣の頭に目掛けて追撃を加えるが、獣は己の前足で頭を守り追撃を防いだ。ゆえに剣は確かに右足に直撃したが、鞘に入れられたままだったため、まるで効いているようには見えなかった。
一方、御者は一連の出来事に呆気を取られている様子で、暴れていた馬たちの手綱をずっと引っ張ったままでいる。二頭の馬は鳴き狂っており、後方の獣の存在に恐怖して今にも逃げ出そうとしていた。しかし、御者がずっと手綱を引っ張っているせいで逃げようにも走り出せず、苦しそうに暴れ狂っていた。
「くそっ! 何を見ている、行け!!」
そんな時、獣と対峙しているシャルルさんが怒声をあげた。細身の青年から出たとは思えないその声は十分な覇気があり、御者ははっとした様子で手綱を緩めた。すると、苦しそうに悶えていた馬たちは物凄い力で馬車を引っ張って前進し始める。火事場の馬鹿力とでも言えるようなその推進力は馬車を大きく揺らした。
今度は踏ん張ることはできず、尻餅をついて倒れてしまった。あともう少しで後頭部を反対の座席にぶつけてしまうところだったが、エルがなんとか方向をずらしてくれたため、大きな苦痛を感じることはなかった。腰が少々痛いものの、それよりも置いて行かれたシャルルさんのことが気に掛かり、急いで後方の小窓を覗いた。なんとか無事に応戦しているようだったが、やはり獣の身体が大きいため、攻撃を仕掛けるのを躊躇っているようだった。もう少しその様子を見ていたかったが、かなり早い速度で地を駆けているためか、みるみるうちにシャルルさんの姿は小さくなっていってしまった。
馬車は襲撃地点より十分遠くに離れたのにも関わらず、止まる様子を見せなかった。その速度に意識を持っていかれていた私は、ある程度過ぎて、はっとする。思うよりも早くすでに行動に出していた。
「置いていくんですか!?」
「仕方なかろう! 儂は人を運ぶことが仕事だ。そんな儂があそこに留まって何ができる? 彼の邪魔になるだけだろう!」
御者は焦ったように声を荒げて私の問いに応えた。その返事は非情なものだったが、確かに彼の言い分も理解できた。
「それに彼は魔物退治の専門家だ。自分の身ぐらい自分で守れるだろう!」
続けて先ほどよりも声を落ち着かせて彼は言う。確かにこれも正しい意見だった。彼は冷静な判断をして、最善の選択をしたのだろう。しかし、未熟なわたしにはどうにもシャルルさんを見捨てることを正当化しているようにしか思えなかった。自分の胸に手を当て、目を瞑って深く考える。
彼の言うとおりこのままシャルルさんにあの獣を任せたままで良いのだろうか。確かに、シャルルさんの体幹や動きは良かった。敵を捉えてからの判断は年季の入りようが見て取れた。
しかし、それでも去り際の攻防では獣に一方的に押されていなかったか?
あの体格差の相手を手練れとはいえシャルルさん一人でなんとかできるものだろうか?
そもそも鞘から剣を抜いたところで土砂を纏った獣に深傷を負わすことができるのだろうか?
本当に彼に全てを任せてしまっていいのだろうか?
とは言え、自分が行ったところで何か役に立てるだろうか?
逆にシャルルさんの邪魔になってしまったらどうしよう。
目を開けてエルの方をじっと見る。エルは唐突に視線を向けられたことにキョトンとしていたが、すぐさまいつもの見透かしたような笑みを浮かべた。
「仕方ないわね……」
その言葉を聞いて私はほっと息を吐いた。
揺れるかごの中で立ち上がり、側面の窓に手をかけた。窓はあまり開けられることがなかったためか、滑りが悪く、ガタガタと耳障りな音を立てて開いた。当然、音は大きいものだったから、御者に私たちが何かを企んでいることを気づかれた。
「な、何をする気だ」
「……シャルルさんを助けに行きます」
御者の声に小窓の方を見て応える。確かにわたしはシャルルさんのような魔物退治の専門家ではない。どうしようもなく未熟な人間だ。私一人なら何の役にもててないだろう。
だけど、私にはエルがいる。
私よりも知恵や技術に優れた、ただ一人の姉がいる。エルはやれやれといった風に屋根を掴めば、床と窓枠とを順に蹴って私より先に屋根に乗り上がって行った。彼女がいるならば、役に立てないなんてことはない。絶対にあんな獣には負けない。
「何を言っておる! 馬鹿なことはやめなさい!」
御者は焦りと不安が入り混じったような声をあげた。だけど、そんな静止はもう私には意味がなかった。私たちが今から行うことは馬鹿なことではない。他人を助けると言う、私が生きていく中で第一の指針である良いことだ。だから、彼の言葉はわたしの判断を揺るがす言葉にはなりえなかった。
私はエルがしたように開けた窓から屋根に飛び出した。風が勢いよく吹き付ける中、淡い金色の髪をなびかせてエルは後方を見ていた。わたしも彼女が見ている方を向いた。知らぬうちに軽い丘陵を越えていたため、すでに襲撃された場所は見えなくなっていた。
少なくともこの丘陵を越えていかなければならないことを目の当たりにして固まってしまったが、そんなわたしにエルは寄り添って不安を和らいでくれる。
ああ、やっぱり未熟だな……。
感傷に浸りながら、でも、前を見る。こうしている間にもシャルルさんとの距離は離れているのだ。勢いよく飛び出そうかと思ったが、一つだけやらなければならないことを忘れていたため、踏みとどまる。
「ありがとうございました」
振り向いて、忠告してくれた御者にその一言を送る。御者はこちらを何度も見て何かを叫んでいたが、風で何も聞こえなかった。この調子では私の声が聞こえていたのかも怪しい。そもそもこの言葉さえ無駄だったかもしれない。だけど、形だけでもお礼がしたかったのだ。
「準備はいい?」
「うん」
振り向けばエルがいつも通りの笑みを浮かべて話しかけてくれた。エルの言葉を噛み締めて、ついに私は屋根から飛び降りた。受け身は何度も練習していたため、なんとか無傷で着地することができた。それはエルも同様で、何なら体裁的にはエルの方が綺麗だったかもしれない。やり残したことはもうないのにふと後ろを振り返って、馬車を見た。馬車は止まる様子はなく、王都へ続く道を全速力で駆けていった。それを見て少し安心して、反対の方向へ駆け出した。
「で、どうするつもり? あれだけの啖呵を切ったのだから、それなりに勝算のある策はあるんでしょうね?」
「……へ?」
息を少し切らしながらなんとか丘陵を登り切り、下り坂に至る頃、唐突にエルが尋ねかけてきた。突然の問いかけに思考が止まってしまって、応えるのが遅れてしまう。そんな私の様子を見たエルは、走りながらこちらにじろりと詮索するような目を向けた。
「『へ?』って、まさか全部私に任せようとしていたってこと?」
「いいや、違う! まさかそんな……違うよ」
慌てて彼女の考えを否定する。心の中ではエルに任せておけばいいなんて邪な考えがあったのは真実だったが、決して彼女一人に全てを背負わせるなんて考えてはいなかった。自分の考えが確かにあったのだ。しかし、それを伝えようにも、丘陵を登りきるのに意外と体力を使ってしまっていたため、うまく話すことができなかった。
「はぁ、仕方ないわね……代わって!」
エルがそう言えば、私は軽く頷いた。
すると次第に手足の感覚が抜けていき、体の感覚も消えていった。残ったものは確固たる自己と動かすことのできないただ一つの視点だけだった。
わたしは、わたしの身体をエルに譲渡したのだ。おかげで身体を動かす必要がなくなるばかりか疲労感も消えていった。
「で、どうするの」
わたしがさっきまで駆けていた倍の速度で進みながら、尋ねてきた。わたしよりもわたしの身体の扱い方を理解していることに改めて恨めしく思いつつ、再び思考し始める。
「えっと、わたしが遠くから獣の注意を引いて、近づいてきたらエルが斬る」
「結局最後は私なのね」
わたしの考えなど最初から分かっていただろうに、エルは皮肉な笑みを浮かべて言った。
「遠くから注意を引くと言っても、あのデカブツは専門家の彼に夢中だと思うけれど? ……それに軽く小突く程度じゃ、注意なんて絶対に引けないわよ」
「なら、奇跡を使う」
本当に意地悪な姉だな、なんて思っていると、急に真剣な面持ちになって問いかけてくる。彼女の問いに端的に答えると、彼女からの返事はなかなか返ってこなかった。おそらく彼女は奇跡に頼ることに躊躇っているのだろう。
「大丈夫。見られるとしてもシャルルさんぐらいだし、なんとかごまかせる程度に抑えるから」
そう推して言っても、呑み込んでくれる事はなく、ずっと黙ったままだった。しばらくすれば、エルの返事が返ってくるよりも先にわたしたちが襲撃を受けた場所に着いてしまった。着いた頃には シャルルさんとあの獣の姿はなかった。しかし、轍を遠く離れた茂みのところまで地面が抉れたり、泥や砂利がそこら中に散らばったりしていた。どうやら被害をおさえるべく、人目のつかぬところへ移っていったことが推測できた。
「どうやら向こうに向かったらしいわね」
「ねぇ……結局どうなのって、うわっ!!」
結局、エルは私の答えに結論を出さずに、茂みの方へ歩みを進めた。結論を出し渋るエルに少しだけ業を煮やしていると、突然エルがわたしから抜けた。なんの準備もできていない時に突然身体の感覚が戻ってきたので思わず躓いてしまった。
「いたた……、変わるなら言ってよ……」
「……いいわよ」
「え?」
「注意をこっちに向けたいんでしょう? やって見せなさい」
エルは大きく息を吐いて、重々しい口調でわたしの提案を呑み込んでくれた。やっと返ってきた言葉に理解が追いつかず、もう一度エルが言葉を口にしてようやく思考が追いついた。
じゃあもう少し早く返事してくれてもよかったじゃないか、と内心不服に思いつつ、でもわたしの提案を飲み込んでくれたことが嬉しかったので、恨めしい気持ちは消えていった。
「ただし、あの獣は、あなたがなんとかしなさい」
「……え?」
突如突き放すようなことを言われて身が固まってしまう。確かにエルにだけかかる負担は多い作戦だったが、だからと言って私に丸投げされても困る。抗議の視線をエルに向けると、やれやれといった風に口を開いた。
「あのね、カルミア。貴方は私に頼りすぎている。正直言って、貴方が王都でしっかりとやれるか不安だよ。今回だって、最終的な決め手も私に頼っているじゃない。なんなら、奇跡を使うか使わないかの判断すら私に頼る次第じゃない。だから、今後のことも考えて、それがあの力を使うための条件よ」
エルはまるでわたしに諭すように、冷たい言葉をなるべく優しく包み込んで言った。彼女の弁を聞いて、わたしは何も反論できなかった。今日を思い返せば、いろいろなことをエルに頼ってしまっていたことを思い返す。確かに、これでは彼女を不安にさせてしまってもなんら疑問はない。わたしはいつまで経っても未熟だ。
「……わかった。わたしがちゃんとやる。しっかりと、自分で決めたことをやり遂げるところを見せてみせる」
わたしは大きく息を吸ってからエルの目をしっかりと見て、そう言い切って見せた。そんなわたしの姿を見てエルは少しだけ安心したように微笑んでみせた。
なるべく気配を消して痕跡の跡を追っていくと、雑木林のようなところに出た。整備が一切されておらず、乱雑に背の高い草が生えていたり、木の根によって石が持ち上がっていたりしていて足場が悪く、視界も狭まっていた。そんな自然の環境の中、この場には不適切な固いものと固いものがぶつかり合う、重々しい音がたびたび響いていた。
その音の方向を見ても視界が狭まっているため、何が起きているのかわからなかった。そのため、わたしは視界を確保すべく、ガッチリとした背の高い木を登って、上から辺りを観察することにした。木登りは得意な方だった。なにしろ村での娯楽は、広い森の中を走り回ったり、木登りをしたりすることだったため、自然と得意になっていた。パキパキと邪魔な枝を折りながら上まで登り切るのに数分もかからなかった。
登ってみれば村の屋根よりも高く、ちょっとした浮遊感を覚えたが恐怖はなかった。むしろキシキシと軋みながらも、かなりガッチリとしているようで、折れる様子が全くなかったことからかなり安心感を得ていた。
「見つけた」
まだ上に伸びる幹に手で身体を支えながら、枝先の方を見下ろすと一匹の大きな黒い獣と一人の人間が戦っているところが見えた。
シャルルさんだ。
シャルルさんはいまだに自分から攻撃を仕掛けるということはせず、獣の攻撃をいなしては避けるといった防戦一方だった。単純な作業に見えるが、かなりの距離を移動しながら繰り返していたためだろうか、シャルルさんはかなり疲弊しているように見えた。
「……よし、やるぞ」
そう自分に言い聞かせるようにして、落ち着かせると幹から手を離して枝の上で直立する。あまりバランス感覚に自信はなかったが、案外自分の感覚も捨てたものじゃないらしい。次にわたしは右手を前に出し、ジリジリとシャルルさんに近づく獣を捉える。そして、宙で弓を射るような構えを取る。するとたちまち空の弓を補うように淡く眩い光が溢れて両手に収まった。やがて矢尻の羽を掴むように光を掴み、弓の弦を引くように力強くそれを引っ張った。
もう一度獣の方を見る。相も変わらず獣は涎を垂らしながら円を描くようにシャルルさんの方ににじり寄っていた。どうやらこちらの気配には気づいていないようだった。
そうとわかれば光を掴んだ指を離した。拘束から解放された光は滞った空気を引き裂きながら獣めがけて飛んでいった。光は獣に直撃し、身体中に纏った土砂を吹き飛ばすばかりか、その巨体を二転、三転させた。その場にいたシャルルさんは何が起きたのか理解ができなかったように一瞬固まっていたが、すぐさま茂みの方へ消えていった。
一方、砂まみれになった獣は起き上がるとこちら睨んだ。流石に私の存在に気づいたらしい。獣は大きな前足を大きく伸ばしてこちらに駆けてきた。獣の動きを見ながら、シャルルさんが標的から外れたことに安堵して木から飛び降りる。そして、携帯していたレイピアの柄に手を添えた。
おそらく、というまでもなくわたしの武器ではあの獣を倒すに至らない。たとえ、心臓を一突きしたところで即死させることはできない。なんなら絶命するまでの一瞬に奴に殺されてしまうかもしれない。だから、わたしはエルには無断で再び奇跡を使うことにした。
鞘をベルトから取って、利き手で柄をしっかりと掴み、もう片方の手で鞘を握った。レイピアを鞘から引き抜く前に息を整え、再び両手に意識を向ける。
こうしている間にもあの獣はこちらに駆けてきていた。しかし、それに焦らずにゆっくりとレイピアを鞘から引き抜いていく。鞘から顔を出したその刀身は淡く眩い光を放つ炎を纏っていた。完全に引き抜かれると、炎によって刀身が伸びており、もはやそれはレイピアとは呼べない代物となっていた。
鞘を放り投げ、剣を構えて前を見る。あの獣はもう目の前まで迫ってきており、その凶悪な右足を大きく振るっていた。
すぐさま剣を振り上げ初撃を防ぐ。思っていた通り、獣の力はとても強く、身が潰されるような気がした。慌ててしまえば誤った判断をして酷い目に遭うことが目に見えている。ゆえに全力で柄を握りつつ心を落ち着かせて獣を見る。獣は重心を大きくずらしており、私が横に躱せば相手の体勢を崩すことができると見てとれた。
そうとわかれば、一瞬だけ力を抜いて即座に横に飛ぶ。予想通り獣は体勢を崩して隙が生じた。ビリビリと少しだけ痺れる腕で再び剣を構え直し、獣に接近して背後から首元目掛けて斬りつけた。血が吹き出したものの食い込みは浅く、獣の動きを止めるには至らない。
獣は悲鳴のような咆哮を上げながら、こちら目掛けて身を転がす。無理やり起きあがろうとする獣から剣を引き抜けば飛び上がり、転がる巨体を踏みつけて飛び越えた。
(もっと、出力を上げないと)
刀身に纏わす炎を見れば、燃える刀身に手を添えた。そして、添えた手に再び意識を集中させる。燃える炎は僅かに勢いを上げ、光を増した。
(……まだだ)
こうしているうちに獣は起き上がり、こちらの様子をうかがっている。それに構わず、もっと意識を手に向ける。
(もっと……もっと燃えろ!)
刀身の炎はわたしの意志を受け取って益々勢いをまし、空気を引き裂くような甲高い音を上げた。獣は僅かに身を震わして、怖気付いたようだが、再び攻撃を仕掛けてきた。刀身に沿って手を払い、剣を構える。先ほどとは比べようのないほどに勢いを増した炎は剣の先から柄元までを巡る。今度は横凪に振るわれた右足に合わせるようにしてその足を縦に断ち切るように剣を振り下ろした。
振り下ろされた剣はその凶悪な足に綺麗な断面を作って斬り裂いた。右足の先は前方に吹き飛び、放物線上の木を薙ぎ倒す。それを背で感じて我ながらさっきはよく潰れなかったものだと苦笑を浮かべる。
獣は何が起こったのか理解するのにしばし時間を取られたようで、己の右足が切断されたのに気づけば、怒り狂ったように大きな咆哮を上げた。あまりの覇気に目を逸らしそうになってしまうが、自分の弱さに耐えて前を見る。咆哮を絶えず上げる獣は右足の先が欠損して体のバランスをうまくとれなくなってしまったのか、大きくこけていた。立ち上がるにも先のない右足を必死に使っており、起き上がるには時間がかかりそうな様子だった。
そこまで追い詰めてしまえば、あとは簡単だ。わたしはホッとため息を吐いて近づき、止めを刺した。
全てが終われば安堵に包まれた。すっかり安心しきって、それとともに纏われた炎は消え失せていった。辺りを見回して落ちていた鞘を見つければ、拾い上げレイピアを納めてベルトに改めた。
「ふう……やったよ、エル」
林の入り口で待つエルの方を見てそう呟けば、そばの茂みがガサガサと揺れた。再び柄に手を添えて警戒をするが、茂みから出てきた人を見て手を離した。
「シャルルさん、大丈夫でしたか!?」
急いで駆け寄って、彼の身なりを見やる。髪が荒れ、頬に擦り傷があるだけでわたしが見た範囲では特に身体に異常があるところはなかった。
シャルルさんはわたしを見ると軽く驚いて、私越しに奥を見るなり目を見開いた。目線の方を振り向くと、首と右足が欠損した獣の骸があった。それがよほどの衝撃だったのかうまく声が出せないようだった。
「…は? えっ? ……あ?」
「とりあえず、怪我がなくてよかったです。……ああ。あははは……少しやり過ぎちゃいましたかね?」
「な、なにを……何をやっているんだ!!」
突然シャルルさんはわたしを怒鳴りつけた。表情からは怒ったというよりも、若干青ざめており、何かに恐怖しているように見えた。しかし、私シャルルさんの意図を掴みかねてとりあえず、考えるよりも先に声を出した。
「…え? ……ああ、すいません。気遣いを無碍にしてしまって……でも、見捨てるなんてことはでなくて…」
「違う、そうじゃない! 君はとんでもないことをしたんだぞ!」
それに対してシャルルさんは焦ったように声を荒げる。それでもやっぱり声を荒げられるようなことをした自覚がなかったため、顔を傾けた。
「とんでもないこと?」
「ああ、そうだ。君は保護対象の魔獣を手にかけたんだ! 王都では重罪なんだぞ!?」
私の両肩を掴んで真剣な面持ちで叫んだ。言われたことに対して意味を理解しかねて思考が止まってしまう。しばらくしてから額に汗がふつふつと湧いてきた。
「……重、罪? ………え、ええぇぇぇぇ!!?!」
こうして私の憧れだった王都での生活は波乱の幕開けとなった。
新生世界録 秋月 影隻 @eiseki3145
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