終章
リョウが息絶えてから小一時間ほど経った。
リョウとウアンの死体が転がるこの部屋は真夏の真昼なのに、訪ねる者が誰もいない墓場か、人が死に絶えた後の灰色の世界をさまよい歩いているみたいに気味が悪く、エアコンがつけっぱなしなので出血多量の俺には真冬のように寒い。俺は薄れて行く意識の中、寒さに震えながら「貴子」が救出に来るのを待っているが、それははじめから食糧の入っていない戸棚をあさる貧困国の子供のようで虚しかった。喉の渇きがひどいが水など飲んだら間違いなく腸炎を起こして死んでしまうだろう。
―「貴子」。何してるんだよ?早く来てくれよ。「貴子」……
そのときだ!
目の前の地獄絵が全てリセットされて、天国か或いはその入り口のように白い雲が足元を覆い、前方も後方も白い雲。頭上だけはどこまでも続く、澄み切った青の中に太陽の光ではない菩薩か何かの後光のような神聖な光がさんさんと照っていた。それは「もう生きて貴子には会えない」ことを俺に教えるかのように三次元とかこの世というものを感じさせない光景だった。
―貴子。もし、生きて会えたらもっと優しく君の唇を蓋いたかった。もっと君の子供の頃の話を聴きたかった。背骨が折れても尚、愛し合いたかった。泊りがけでパタヤやホアヒンにも行きたかった。君の事を文章に残したかった。君を小説のヒロインにしたかった。君をパートナーにしたかった。もっと君の笑った顔が見たかった。そして、いつの日か胸を張って父や「悦子さん」に君を紹介したかった。
こんな福音の降るとても高い場所に居ても、「貴子」のことを想うと、メランコリーが心の隙間に入り込み、回想は止まらず、涙が零れた。俺にリョウのことを笑う資格なんてない。
―「貴子」……
「リュウ。何を女の子みたいにメソメソしているの?顔を上げなさい。今日は土曜日だから『野田岩』に鰻を食べに行くわよ。早く支度をしなさい」
俺のウジウジとした回想に痺れをきらせたのか、三年ぶりに聞く「悦子さん」の声は少し、憤慨しているようにも聞こえた。俺は「貴子」に生きて会えない悲しさと「悦子さん」の声を聴いた懐かしさに目を真っ赤にして顔を上げた。
舞台の上か銀幕の中にいないのが不思議なくらい相変わらず「悦子さん」は若々しさと華と美貌に溢れていて、いまだにもって母親に思えない。ただ、いつもの「悦子さん」と違うのは天使のように白いネグリジェのような衣装を着て、背中に羽があることだ。
「ごめん。行きたいんだけど、先約があるんだ」
「やめておきなさい。あんな『さげまん』。それよりも三年も行方をくらませていったいどういうつもりなの?どう説明するつもりなのよ?」
天使の姿の「悦子さん」は眉間に皺を寄せ、腰に手を当てて、お見合いの日にバンコクにとんずらした俺の身勝手さと不可解な行動を責めた。俺は後悔などしていなかったが、「悦子さん」が恨み言を言うのも当然だと思うし、親よりも先に死ぬ不幸はなんとしてでも詫びねばならないと思った。
「悪かったよ。『貴子』にも聞いた。心配掛けてごめんよ」
「はぁぁ……何でだろ?リュウに会ったら色々、文句や厭味を言ってやろうと思ってたのに、あんたに謝られると弱いわ」
「ねぇ、『悦子さん』」
「何よっ?」
「一回でいいんだ。『母さん』って呼んでもいい?」
俺は物心付いた頃から一度でいいので「悦子さん」を「母さん」、乃至は「ママ」と呼びたかったし、そういう存在に思ってみたかったが、「悦子さん」の精彩とプライドはそれを許さなかった。
結局、俺は「悦子さん」からも「家族」からも逃れられないことを知ったに過ぎない。つまり、「異土の乞食」と成り果てても俺は「悦子さん」の息子であり、いまさら認めるのも厭だが、軽度の「マザコン」である。
「ダメ!あたしは高杉悦子なの!今度おんなじこと訊いたらぶっ殺すわよ!」
「やっぱ、そう言うと思った」
俺はいかにも「言ってみただけ」という顔をして、「じゃぁ、『悦子さん』。今日は肝吸いとう巻きも付けるからね」と「貴子の恋人」ではなく、「悦子さんの息子」に戻って、ささやかな我儘を言った。
俺は天使の「悦子さん」に手を引かれて、雲のじゅうたんの上を歩いている。行き先が『野田岩』ではないことはわかっているが、もう逆らうような真似はしない。俺はどこまでも天使の「悦子さん」に手を引かれてゆくだろう。
俺は心の中で呟いてみた。
―嗚呼。最後まで「母さん」とは呼べなかったなぁ……
了
リュウとリョウ 野田詠月 @boggie999
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