最終章『届かなかったSOS』④

 ここはラッチャダーの高級コンドミニアムの一室であり、今朝方まで白石さんが酔っ払って狂喜乱舞していたはずの場所なのに、今や血とウアンの死骸と腐っていく俺とリョウの肉体が転がるまだ熱く、脈打っている惨状のあとだ。このように地獄は地上にしっかりと存在する。この世そのものが地獄であり、誰もが紙一重の幸運で平和に暮らしているというだけだ。きっと俺と地獄とを隔てていた壁がウアンに拉致された瞬間に崩れてしまったのだろう。それはこの世とあの世とを隔てていた壁かもしれない。そうでなければこの一週間の悪夢に説明がつかない。無論、納得はいかないが。

「う、う、うぅ」

 すでに虫の息のリョウが風船から空気が抜けていくように呻いた。

 一応、元親友の最後くらいは見届けてやろうと仏心をだし、俺は片手で血が滲み、溢れてゆく腹を押さえ、もう片手で俺とリョウの血で滑ったフローリングを這うようにリョウに近付いた。俺が「リョウ」と声を掛けると死んだ魚のような目が一瞬だけ輝き、青紫色の唇がゆるんだ。

「リ、リュウ……」

「もう喋るな。明日、お前を恐喝した毛利とか言う奴がここに来るらしい。俺たちはカオヤイかどっかに埋められるみたいだ」

「お、おわりだな」

「そうみたいだ。因果応報って奴だな。俺はお前の友情を虚仮にしてしまったその罰なんだろうな」

「はは。だから言っただろう。あの女は危険だって」

「『貴子』は関係ないし、『貴子』を愛したことに後悔はない」

「しあわせな女だな。俺はどうやったってダメだって言うのに」

「お前、しつこいぞ」

 俺自身ももう軽口を叩くのも辛いほどに激痛は鎮まらず、出血は止まらず、意識が確実に「ここではないどこか」に行きはじめているのがわかる。「貴子」や白石さんに一縷の望みを託すにも残された時間が短すぎる。死にたくない。死にたくないが、「死にたい」と言ってる奴はなかなか死なないし、心から死にたいなんて思っていないものだが、「死にたくない」と思っている奴は逆だ。この俺がそうであるように。世の中えしてそういうものなのかもしれないが、俺は生きて「貴子」の元へ帰りたい。たった五分だっていい!

「なぁ、リュウ。」

「ん?」

「俺たち悪い夢を見ているんだよな?目覚めたら、俺たちが出会ったあの日で、今日までのことは白紙で、全てゼロから始まるんだよな?」

「はん?随分と都合がいい話だな。あれだけ俺の軀を弄んでおきながらよくそんなことが言えたもんだな」

「だけど、戻れたとしても、リュウは俺のことなんか……」

「愛さない。だって俺、ゲイじゃないもの」

 俺は最後の最後までこんな愚かしいことを考えているリョウがいい加減、かわいそうに思えてきた。だからと言って同情から俺がリョウに永遠の愛を誓うことは絶対にないが、中国人や朝鮮人のように死体に鞭打つような真似だけはしたくない。

「でもさ、最後だから言ってやってもいいよ」

「リュウ……」

「リョウ。お前のこと愛してるぞ」

 勿論、タイの男どもが口にする「キィトゥン(君が恋しい)」と同じくらい口からでまかせの心のない言葉だが、リョウにとっては俺の軀を暗い情欲のままに自由にすることよりも重要なことに違いない。リョウは苦痛に顔を歪めながらも、俺の言葉に救いを感じたかのように、力尽き、最後の一葉が舞い散るように儚く目を閉じた。

 ロペスピエールも坂本竜馬も楊貴妃も時代の寵児の最後というのはどうも血まみれが相場らしい。もっとも、俺は完全なるとばっちりだが……

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