最終章『届かなかったSOS』③

 その夜、白石さんはリョウの部屋にあったハイネケンやシーヴァスやジョニーウォーカーをエンドレスに鯨飲し、これまでの旅の話や自身の人生を語り尽くしたかと思ったら、ビートたけしや西城秀樹の似てないモノマネを始め、それに飽きたらライヴ盤のCDの曲順どおりに光り輝くカラバオナンバーを歌ってリョウを困惑させた挙句、最後は「だからね、あたしが言いたいのはみんなしあわせにならなきゃいけないのよ」のひとことで強引に〆て、「じゃぁね。リョウちゃん。法廷で会うわよ」と支離滅裂なことを言って帰路に着いたのは明け方の五時過ぎだった。

 この分だと白石さんは確実に二日酔いなので、携帯を持たない白石さんから「貴子」に俺の消息が届くのは早くても明日だ。

 仕方がない。その分、今日はリョウに抱かれずに済むんだ。もしかしたら、この一週間ほどの全てが悪夢で、目が醒めたら、「貴子」が横で微笑みながら魘されていた俺を見詰めている、と言うことだって可能性ゼロではない。

 つけっぱなしにされた午前四時のブラウン管のような砂嵐が吹く夢の中、俺はただ、白布のように空間に揺れている。ここは核戦争後の世界であり、感触のない世界であり、「貴子」もリョウも俺に関係ある者は誰もいない世界である。わかっていることは今、生きていることといつか死ぬことだけだ。本当の宇宙とは、本当の永遠とはこのように全てがアッシュの世界なのではないだろうか。三次元で起こりうる一切は俺にとって激しく、喧しすぎる。俺はこんな虚しい夢の中によりよく生きる方法を見つけたように思う。つまりは何も感じないことで、誰も愛さないことで、ただたゆたうことでその理想を実現できるのではないだろうか。だけどそれは「貴子」にひと目会えば崩れてしまう脆い悟りに過ぎない。そんなちゃちすぎる瞑想ごっこのような夢を覚ます一発の弾丸が闇に響いた。

 それはどうやら現実世界の出来事のようで、図体はでかく、顔もいかついが、性格は至ってフェミニーなウアンの断末魔のような叫びがクロゼットの中にまでハッキリと轟いた。俺は放銃の主が「貴子」であるような気がして、少し胸が躍った。「俺を奪還する為にリョウを殺しに来てくれたんだ」と嬉しさがこみ上げてぐんぐんと体温が上がっていくのを感じた。

 俺はまた夢を見た。

 このまま「貴子」がリョウの脳天を射ち抜き、この部屋にある金目のものを全て掻っ攫って俺の手を取って逃げる。

「貴子」は俺を救うために正しいことをやるのだ。後ろ暗くなんかない。ただ、タイにはいられなくなるだろうから逃げよう。やはり、暖かいところがいいので南へ逃げよう。シンガポールの親戚宅でしばらく匿ってもらって、その後、モロッコか、カナリア諸島あたりへ渡ろう。そして、「貴子」とふたりでお洒落なカフェでもオープンして残りの人生はゆるやかに過ごそう。

何もなかったかのように……

共に百歳になるまで……

「貴子」とふたりで……

 明らかに非常事態が発生しているのに俺はのん気すぎる。或いは「天性の作家」か?「貴子」は「天性の女優」。いいカップルだ。タイを脱出したら二人だけの結婚式を挙げよう。

 二発目の銃声を聞いて、リョウはやっと目を覚ましたようで、くぐもった声で「なんだ朝から物騒だな」と他人事のように呟いた。俺以上に現実が把握できていないようだ。三発目の銃声は鳴らなかった。ウアンは絶命したようだ。それを確認したのと同時にドタドタと乱雑で無神経そうな靴音が近付いてきた。どうやら「貴子」ではないようだ。

「木戸涼在不在(木戸涼はいるか)?」

 福建の田舎者が喋るような訛りがきつく、声ばかりがでかい品性を感じない中国語が靴音交じりに聞こえた。

―「貴子」は俺を救う為にチャイナマフィアを雇ったのか?手回しがいい。しかも、己の手を汚さないだなんて、なんて頭のいい女なんだ。

 俺はその瞬間に「貴子」を「一生の伴侶」に、メッセンジャー役を見事に、且つ、迅速に果たしてくれた白石さんを「一生の友」にすることを決め、「でも、一寸、早過ぎないか?」という疑問もなくはなかったが、晴れ晴れしい気持ちでクロゼットを出たら、ホールドアップをして表情が凍り、まだ昨夜の酒が抜けきらず浮腫んだ顔をしたリョウとジーンズによれよれの木綿シャツと汚れたスニーカーを履いた如何にも福建の田舎者のような出で立ちをした角刈りで、白目の部分が黒目の部分よりも多い所謂、「四白眼」をした、日本では土建屋の面接でも落ちそうなほどの凶相の男が無表情でリョウに銃口を向けていた。

「リュウ!いったいなんなんだよこいつは!?」

 恐怖のあまり失禁してしまったリョウは四十度の高熱を出して、病床でガタガタと震えるマラリア患者のように力なく俺に助けを求めている。昨日までまるで俺の運命を司る神の如く振舞っていた暴君がいいザマだ。もっと、命の危険を感じ、もっと、取り乱すがいいさ。

「あんた『貴子』に雇われて来たんだろう?木戸涼はこいつだ。できるだけ苦しむようにしとめてくれ」

 俺は早口の中国語で底意地悪くリクエストした。

「はぁ?『貴子』って誰のことだ?俺は毛利という日本人から木戸涼を殺すように依頼されてきた」

 つまり、こいつはリョウに放たれた刺客。顔を見られて雇い主を明かした以上は俺の口も封じられてしまうに違いない。さっきから刺客の喋る福建訛りのきつい北京語の重厚な響きが腹に冷たく響いて圧倒され、どうも軀に力が入らなくなっていたが、「貴子」に生きてまた会いたい俺は極めて大人然と「こいつがその毛利とかいう日本人にいったい何をやらかしたんだ?」と質した。

「株のことらしいが、詳しくは知らん。俺は任務を忠実に遂行するだけだ」

「おいリョウ。マオリー……毛利って日本人といったい何があったんだ?何か怨まれるようなことでもやったのか?」

 俺が日本語に切り替えて問い詰めると、リョウは全身の血が引いてしまったかのように顔を瓜のように真っ青にして、全ての罪と嘘が白日に晒されたかのように放心した。

まったく、なぜ人は同じ間違いを繰り返すのか?デイトレなんて所詮、「虚業」だ。悪行をせずして儲けられるわけがないのだ。

 俺はタチの悪い悪戯がばれた子供を叱るようにきつくリョウの目を見据え、「いいから俺にもわかるように説明しろ」と自白を促したら、リョウは蚊の泣くような声で所業を語りはじめた。

「毛利って野郎は人間の屑さ。俺がライヴドア株を売却してひと財産作った頃に一番の理解者のような顔をして近付いてきてたんだ。『実は俺もゲイなんだ』って告白するからついつい心を許してしまった。その間に俺のことを調べ上げたのさ。どうやらそいつはお前と同じ在日華僑で情報収集能力ときたら悪寒がするほど詳しくて、俺の戸籍抄本もあげられてたし、俺の交友関係は勿論、俺が店で指名したゴーゴーボーイまで調べやがったのさ」

「まぁ、そんな下種なことをするのは大方、大陸系の人間だろうな」

「それである日、『ゲイってことをばらされたくなかったら、今後、確実に伸びる銘柄だけを教えろ』と利益強要をしてきやがったんだ。もうわかるだろう?そいつはゲイなんかじゃねぇ。はじめから俺を恐喝して甘い汁を吸いたかっただけなんだ」

「それから?」

「怖いから肩組むしかねぇじゃん。だが、今度はそいつ俺が最近、手堅く儲けてるFXのノウハウを表も裏も教えないとゲイであること以外にてめぇのことを棚に上げて匿名でインサイダー取引のことをバラすって言ってきやがった。さすがに頭にきたからな、嘘教えたんだよ。一千万近くの大損が出るようにな。ざまぁ見ろってんだ!」

「それでこういうことになっているってわけか」

「な?俺は悪くないだろう?」

「悪くない奴が何で命狙われてんだよ?え?日本人ならともかく、華人から一千万円もの金を騙し取ったってことは殺されても文句言えないんだぞ。よしんば、今、お前に銃を向けてるこいつに金を掴ませて見逃してもらえたとしても、二の矢三の矢がすぐに放たれる。それをかわせたとしてもお前は一生、命をつけ狙われることになるんだ」

 正当防衛とはいえ、天才相場師にしてはお粗末なお話だ。

 勝者にも敗者にも何もやるものはない。すでに取り乱す気力すらないリョウは擦れた声で「なんであのときお前に相談しなかったんだろうなぁ」と悔いて見せたが、涙も出ないようだった。バンコクという魔界では隙を見せればあの世行き。悪事を働くにしてもちゃんと背後関係をリサーチし、「問題ない」と確認してからでないと確実に報復を受ける。「この街で誰を信じたらいいのか?」という愚問は不要だ。同胞だっていつ肝を齧ってくるかわからないのだから。

 刺客は萎れた花のようにへたりこんでいるリョウに銃口を向けたままで「説完了没有(話は済んだか)?」と訊いた。中国語のわからないリョウは不安そうに目を泳がせたが、俺は「明白了馬上槍了把(事情はわかったからさっさとやってくれ)」と目を伏せた。

「リュウ。何て言ったんだよ?おい。俺は悪くないって言ってんだろ!」

 燃え尽きる前の蝋燭が最後の輝きを放つように、リョウが刺客に向かってにじり寄って、己の無実を叫ぼうとしたとき、刺客は眉一本動かさず、豚か犬でも屠殺するように三発目の弾丸をリョウの腹に撃ち込んだ。不謹慎ながら俺は飛び散ったリョウの鮮血が紅の華のように見えて、一刹那、見蕩れた。人一人、しかも親友だった男が撃たれたというのに背徳や罪の欠片も感じない。

 リョウは己の血で汚れたフローリングに虫のようにのた打ち回りながら「リュウ。痛いよう。おなかが痛いよう」と狂人のように唸っている。俺はそれがなんだか汚らわしいものに見えて、正視できず、眉をしかめて「自業自得だ」と繰り返すのみだ。

 そして、俺は俺自身にも迫り来る終焉には全く目も呉れず、「貴子」のことを想った。

―「貴子」のところに帰らなければ!

関が原の戦いで破れた西軍の大将石田三成は東軍に処刑される前に「喉が渇いたから」と柿を所望したそうだが、俺は密室の処刑を前に「貴子のところに帰ろう」と思い、リョウにトドメの一撃を加えようとする刺客に「那、愛人等著我。我走了(では、奥さんが待っているのでこれにて失礼します)」と軽く片手を挙げ、昔のアイドルのようにはにかみながら微笑んで、お暇する旨を告げたが、「やっぱり」と言う感じで、「そうはいかん」とばかりに刺客は顎をしゃくり、銃口を向け俺を踏みとどまらせた。

「なぜだ?俺はこいつに拉致監禁された被害者だぞ。株のことなんて知らない」

「顔を見られた以上はお前を生かしておくわけにはいかねぇ。それが凶手(殺し屋)の掟だ」

「そうかもしれないが、台湾の黄龍三の甥っ子を殺したとなったらあんた華人世界では生きていけないぜ。対岸のアモイや福州や泉州と言ったら黄財閥の本拠地も同然だ。福建の片田舎にだって追っ手が来るぜ」

「黙れ!」

「悪いことは言わない。俺を見逃してくれたら台湾に逃がしてやるから」

「黙れと言っているだろう!」

「やめとけ!あんたのためだ!」

「黙れと言ったら黙れ!」

 本当ならばリョウの脳天を撃ち抜くはずだった四発目の弾丸は俺のハラワタを重いジャブのように抉りながら貫通した。至近距離で撃ったためか弾丸はリョウの血飛沫で汚れた壁に半分うずまった。やはり、「郷下的福建(福建の片田舎)」という言い方がまずかったか。

撃たれたハラワタの痛みは「痛い」と言うよりも寧ろ、体中に電流が走った感じで熱くてしびれるという言葉が妥当だ。そして「筆説にし難い」ほどの痛みはまるで悲しみのように少し時間を置いて体中にじわじわと蔓延していった。

 刺客は「俺の仕事は終わった。今夜、遅くても明日、依頼者がお前らの遺体を処分しにくる」と言い残して数時間後には三つの死体が横たわっていることになるリョウの部屋を文字通り逃げるように後にした。痕跡は残していたとしても実際に福建の田舎に逃げ込めば誰も追えまい。

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