最終章『届かなかったSOS』➁

 クロゼットの隙間から盗み見る白石さんは相変わらず、ずんぐりむっくりでドラえもんというか長州小力というか、いるだけでちびっ子が寄って来そうな風体で、実際、憎めないキャラクターである。リョウの一件は会ったら恨み言のひとつでも言ってやろうと思っていたが、そんな 白石さんのコミカルでインノセントな御姿を見ていたらどうでもよくなってきた。第一、白石さんは俺をここから救い出す切り札か、或いは「貴子」へのメッセンジャーの役割を果たすかも知れないのだ。リョウが用を足す間でも何でもいいので、兎に角、一瞬の隙を突いて、白石さんに助けを求めないと、ただでさえリョウの部屋は来客が少なく、おまけにウアンの目も光っている。援軍を要請するチャンスは今回しかない。セカンドチャンスはないものと考えたほうがいいだろう。

「ねぇ、あれからリュウちゃんから連絡はあった?」

 白石さんはリョウに取って貰ったスクムビットソイ三十三『雑談室』の仕出し弁当を豪快にがつつく箸を一時停止して、そっと探りを入れた。普段、こんな風体で自虐的なギャグばかり言う白石さんにはついつい気を許してしまうが、足元を掬われてしまうこともままある。糸を引いたような細い目だけは笑っていなく、眼光は鋭く光っている。それは値踏みをしているようにも心の内側を読んでいるようにも見える。

「それが『なしのつぶて』ですよ。親友が発狂したと聞いても、安否を確認しようともしない。冷たい奴ですよ」

「それ本当?おかしいなぁ。あんなに友情に篤いリュウちゃんなのにね。あ、そうだ。あたしがもう一回言ってあげようか?今度は交通事故に遭って意識不明になってみる?」

「いえ。それには及びませんよ」と言いながらもリョウは不満そうに首を横に振った。

「そう?リュウちゃん来るといいね。リョウちゃんの毒牙にかかりにね」

「し、白石さんったら!」

リョウの必死すぎる反応を楽しむように白石さんは不敵に笑い、再び、仕出し弁当との格闘に戻った。悪い人ではないのだが、この人は時々、このような感じで背負い投げを喰らわす。ついでながら、白石さんの口調は明確な「性別の危うさ」を感じるが、リョウと違って、「そっち」ではない。

俺は暗く、蒸し暑いクロゼットの中でリョウと白石さんのやり取りを聞きながら、リョウが席を外すタイミングを窺っていた。白石さんの性格から言ってこのあと間違いなく、食後のデザートが食べたいとか、折角、来たんだから飲んで大いに語らおう、などと言い出すに決まっているのでとりあえず、向こう数時間はここに居ることは確定と言ってもいい。ただ、リョウに向かって「早く席を外せ」と念を送り続けるのは精神衛生上、あまりよろしいことではないし、何よりも疲れるので早くアクションを起こして欲しい。

 しかし、それは「案ずるよりも産むが易し」だった。仕出し弁当を食べ終えた白石さんはリョウに「リョウちゃん。悪いんだけど、そこのジャスコでウーロン茶とティラミスを買ってきてくれない?」と口調こそ穏やかであるが、その行間からは「ゲイであること」と「俺が好きであること」の弱みを握っているという絶対的優位に立った底意地の悪い恫喝のような語気が感じられ、リョウも「ティラミスはないと思いますけど」と念を押しながらも渋々と出掛けていった。

―好機到了(チャンス到来)!

遠くでドアの音が閉まるのを確認して、俺がクロゼットのドアを開くよりも先に白石さんが幽閉中の俺に向かって、「リュウちゃん。そこにいるんでしょ?」と言った。虚を突かれた俺は「白石さん。助けてください!」と飛びついて助けを請う予定を変更して、投降した捕虜のように両手を上げて、おどおどした目の配り方で、明るい真昼の世界へと這い出た。白石さんは囚われの身の俺を見ても眉一本動かさずに真顔で「かくれんぼ?」と訊いた。

「まさか。こんなときに冗談はやめてくださいっ!」

 俺は半泣きで白石さんのタチの悪い冗談を窘めた。

 そんなこと意に介することなく白石さんは本題に入った。

「あたしね、実は昨日、貴子ちゃんから『リュウちゃんと連絡が取れなくなった』って相談を受けたの。居るんだとしたらここしかないと思って、様子を見に来たんだけど、顔色悪いよ。ちゃんとご飯食べてる?」

「でも、なぜここだってわかったんですか?」

「そんなの簡単。だってリョウちゃんはリュウちゃんのこと愛しているもの」

 おぞましい。

 胃液が上昇し、口の中が酸っぱくなった。俺は反射的に顔を歪めた。その表情の変化は当然、白石さんには気付かれている。

「あら、ごめんなさい。あたし変なこと言ったみたい」

「いえ。いいんですよ。それよりも白石さんに折り入って頼みがあります」

「頼みって何?ここ七階だし、外ではあのゴツいのがバンの中から見張ってるからあたしがリュウちゃんを逃がすって相談だったら無理よ」

「それはわかってます。俺が白石さんに頼みたいことって言うのは『貴子』に俺がここに軟禁されているってことを伝えてもらいたいんです。あいつの耳に入れば、頭のいい女だから何か対策を講じてくれると思うんです」

「つまり、あたしにメッセンジャーになれってことね?いくら出す?」

「もしここから出れたら戦勝記念塔の『いずみ』で焼肉を奢ります!」

「生ビールも付ける?」

「勿論です!」

「仕方がない。お互い貧乏作家だものね。それで手を打ちましょう」

「白石さん。恩に着ます!」

「それより、早く押入れに戻ったら。そろそろリョウちゃんが帰ってくる」

 メッセンジャーの報酬を焼肉食べ放題二百十二バーツプラス生ビールで手を打った白石さんは俺の熱い握手と抱擁もそこそこに俺にクロゼットに戻るように促した。恐らく、リョウをジャスコに買い物に行かせたのは俺と話をするために他ならない。白石さんの機転と心意気に感謝だ。

 俺はクロゼットに戻り、白石さんから俺の消息を聞いた「貴子」がここに来て俺を救い出してくれる、という美しい結末を夢見て、リョウに抱かれるという悪夢をやり過ごし、忘れることができそうだ。但し、男に犯された俺を「貴子」が前と何も変わらず受け入れてくれるだろうか?と考えたら、新たな不安が芽生え、心中穏やかではなくなる俺だった。

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