生者の道

落ちこぼれ侍

生者の道


「なんでこんな点数しか取れないの!ちゃんと勉強してるの?」


11月中旬の乾燥し寒さが身にしみる静まり返った夜に響き渡る怒声。


「バチンッ!!」


叩かれた方向に僕の身体は傾いた。

頬に走る痛みは寒さによってさらに倍増されていた。

今日、学校で返された模擬試験の結果にご立腹のようだ。

母はよく怒る。僕の勉強に対してばかり。

僕はまだ高校1年生だ。高校受験が終わったばかりであるから、ゆっくりさせてほしい。でも、そんな事は言えない。さらに怒らせてしまうから。

口の中で血の味がした。ビンタによるものか、唇を噛みしみたせいか。

何も言い返せないまま時間だけが過ぎる。


母の怒りがおさまったところで歯を磨き、入浴する。

曇る視界の先になんとかバルブを見つけてひねる。

頬にある違和感を温かいお湯が流してくれる。

バルブを回すだけで、いつでも流れ出すお湯。

求められたことだけをやるバルブに少し同情してしまった。

物に同情するなんてなかなかヤバい奴ではあると自覚している。

でも、勉強をしていい結果だけを求められている僕と、回したときに温かいお湯が流れ出てくることだけを求められているバルブ。期待に応えられないようだったら、怒られ、罵倒され、修理される。そんなところに自分を照らし合わせていた。

勢いに物足りなさを感じつつも、体に浴びる。


……温かい


思わず溜息がこぼれる。

その音はシャワーの音にかき消されて、水と共に排水口へと流れていく。

くせっ毛で硬い髪の毛が僕の手にひかかって数本抜けた。


たしかに僕は勉強をしていなかった。でも、300人以上もいる学校で2桁の順位を取ることは別に悪いことではないと思う。


高校受験で公立高校の第一志望校に行けていれば変わっていたのだろうか。

ここまで落ちこぼれずに親からも怒られない生活を送れたのであろうか。


わからない。


『あのときに勉強をしていれば』何度そう思ったことか。

でも、過去は変えられない。

第2志望の私立高校に来てしまった事実は変わらない。


父の帰宅の挨拶が聞こえた。また言われるのだろうか。

兄は僕とは正反対で、順風満帆な人生を送っている。

高校入試では第1志望の公立に受かり、大学受験では第1志望の学校を含め、受験した大学、全てに合格していた。日本では名のしれた有名大学に通い、この間はイギリスに交換留学生として留学をしたばかりだ。

ここまで成功する人なんてそうそういないだろう。

母と父は兄が成功しているのに、僕が成功しないのは僕が「何か」をしてないからだの、頑張ってないからだのと文句をたれてくる。

出来るのであればとっくにそうしていたさ。


でも、僕は兄とはタイプが違う。兄は地道にコツコツ出来るタイプだが、僕にはそれができない。兄は両親の良いところだけを持って生まれてきたが、僕はその逆で両方の悪いところだけをもらった。

誰かが「生まれる家も実力のうちだ」って言ってたな。

生まれる前から実力のない僕……。

もういいや。



シャワーを止め、髪を後ろに掻き上げる。

掻き上げきれずに前にぶら下がっている髪の中に白髪を見つけた。

白髪が最近になって増えてきた。まだ17だっていうのに……。

普段だったら、少し明るい気持ちでそんなふうに思えていたのに。

銀髪ってかっこいいなって思いながら。

でも、近頃は全てにおいて元気がない。


やつれたな、僕。なんとなく頬の肉が削げた気がする。


長く浸かっているとまた母に怒られそうだったので、さっさと髪と体を洗い浴室から出た。冬真っ盛りでなくとも湯船に殆ど浸かっていない僕はとても寒いが、しょうがない。濡れて、スーパーサイヤ人にでもなれそうなくらい爆発している髪を、手櫛で適当に下ろしながらリビングに行くと、父がこちらを見ていた。


「ヤバくないか?この結果」


始まった。母の後は父が僕にタラタラと文句を言ってくる。彼らの文句は僕と兄との差から生まれる。兄が通っていた高校と、僕が通っている高校は偏差値で見ればどちらも70近いため、あまり差はないにもかかわらず、公立と私立というだけで僕を見下している。兄はそんなことを思っていないし、僕には優しく接してくれるが僕らよりも馬鹿な学校に通っていた両親に見下されるのは無性に腹が立つ。


「結果出せばいいんだよ?結果さえ出せば何も言わないからな!まぁ、俺には関係ないから別にいいんだけど。あれだけ勉強しろって言ってもやらないのはお前なんだし……」


成績が印刷された紙を乱雑に机に戻しながら、そう吐き捨てて父は書斎に向かった。


やっている。僕は勉強を頑張っているにも関わらず、結果が伴わない。

結局、才能と運に恵まれていないやつはただの凡人で終わりなんだ。

中途半端に努力したやつこそ、痛い目を見る。努力していないやつよりもだ。

だから、多くの真面目な人は落ちこぼれになってしまう。

落ちこぼれの多くは真面目な人ばかりであろう。

自分で考え込んでしまうから、だから落ちこぼれる。

これは自分の勝手な考えではあるが、人はきっと死ぬまで進み続ける。どこに向かっては人によって異なると思う。だから、後退することはないと思う。ただ、歩くスピードが違うだけだ。みんなとは自分は違う、と思うのはただ置いていかれているだけ。自分自身の歩くスピードが遅いだけだ。だから、頑張れば追いつく。でもそんな事に気づかず、自分はみんなとは違って後退してると思い込み、自殺する。生者の道は進むしかない。一方通行だと思う。死んだときに初めて止まる。だから、後退なんてことはありえないのに、僕自身もそう考えてしまっている。



机の上に残された成績表をグシャグシャにまるめてゴミ箱に放り投げた。

縁に当たり、跳ね返ってきた紙くずに怒りを覚え、丸まった紙を力任せに引きちぎり、ゴミ箱に突っ込む。紙に当たっても仕方がない。そんな事はわかっている。

でも、どうしても八つ当たりしたいときはあるものだと思う。


誰からも称賛してもらえない。国語は学年3位だというのに。

誰からも認めてもらえない。

こんな状況だったら誰でもそうなるはずだ。


階段を登り、自室にこもる。

勉強をするときはいつも少し古いウォークマンを使って音楽を聞きながらやっている。このウォークマンには最近の曲は全く入っていない。兄の影響で入れた1980~2000年位の曲が多い。

どうしてスマホで聞かないのと思うかもしれないが、このウォークマンにしかない曲があるからだ。


兄は今、どうしているのだろうか。


兄だけは僕を褒めてくれた、優しくしてくれた、認めてくれた。

そして、愛してくれた。

でも今年の夏からイギリスに留学しているため、日本にも、もちろん家にもいない。

僕の唯一の支えが消えた。

だから、今の僕は母からも父からも怒られて、罵倒されている。

前までは途中で兄が割って入ってくれたのに……。


何年も前に祖母と叔母が話しているのを聞いたことがある。

母は僕を妊娠したと知ったとき、「子供一人でもお金がかかるのにさらにもうひとりなんて無理だ」と言って泣いていたらしい。つまり、僕は生まれる前から母から歓迎されていなかった。そんな事がありえるのかと思った。

どんな本も、教科書に載っている物語も最終的には、冷たかった親も自分を愛していたことに気がつくのに……。

僕に関しては生まれる以前から憎まれていた。



そう、生きることが『』だった。



こんな事を考えても意味はない。

スマホのファイルの一番下にある「No title」という文字を押す。

少し音の粗い音楽が流れてくる。

これは兄の影響で入れた曲ではない。最高の友が作ってくれた歌である。


僕には幼馴染がいた。

幼稚園生の時から一緒で、同じマンションに住んでいた。僕が引っ越しても交流は続いていた。でも2年前、彼女が少し離れた街に引っ越してから、連絡はしていない。小さい頃はマンションの屋上に勝手に忍び込んで、二人で遊んでいたものだ。


彼女は綺麗だった。

顔じゃない、心が綺麗だった。

それが僕の憧れだった。

彼女は誰にでも優しかった。当時の僕は何でも出来る人気者だった。

でも、そんな自分でいることに嫌気が差し、疲れた時だった。

なんでも人一倍できた僕は周りから頼りにされすぎていた。


〈あいつに任せればやってくれる〉


そんなレッテルさえ貼られていた。

しかし、僕が失敗すると周りは僕を蔑むような目で見てきた。

いつしか、僕の失敗を笑うようになっていた。

失敗をさせるためにイタズラまでしてきた。

当時はいじめだとは思っていなかったし、今もそうとは思っていない。

自分ができないからって僕に押し付けてきたくせに。

次第に僕は人を信じられなくなった。

まだ幼かった僕はどうして自分だけがここまでのことをされなくちゃいけないのかがわからなかった。


だから、僕は人との間に一本の線を引くようになった。

相手を傷つかせないために……。

そして、自分も傷つかないように。

誰にも弱いところを見せなければいい。

自分で全てを抱え込めばいい。

孤高の存在で有り続けるんだ。友達なんていなくていい。

そう思っていた。

ただ孤高と孤独を間違えていた。


しかし、彼女はその一線を軽々しく飛び越えてきた。

最初は気圧された。苦手なやつだと思った。

でも、時を重ねるにつれ、感じることがあった。


彼女といることが「」だった。


彼女といるときだけは本当の自分でいていられた。

僕がミスをしても、彼女は笑ったり、蔑んだりせず一緒に解決しようとしてくれた。


今思えば、あれは初恋だった。

でも、思いを告げることなく終わった。初恋なんてそんなものだろう。学生時代の恋なんてものはお遊びで、思いを伝えられないまま終わるもののほうが多いであろう。

引っ越す前に思いを告げておくべきだっただろうか?

もう二度と会えないかもしれないのだから、その時を大事にするべきだった。


時間は巻き戻せない。

同じ時間は二度とこない。

だから、悔いは残したくない。

それと同時にただの願望を実行に移せるはずがないと頭の片隅で思っている。


『あの時に〜しとけばなぁ』と思うことこそが、過去を思い出して懐かしみ、悔やみ、反省し、次に活かすことこそが生きていくことだと思う。


でも、そんなにうまくいくわけがない。


こんな人生なんて………ただの暇つぶしでしかないんだ。

この考えのもとで生きていくと、全てが楽になる。

心なんてものは捨ててしまえばいいんだ。


心があるから悲しむ。

心があるから苦しむ。

心があるから辛い。

心があるから傷つく。


ならば、無くしてしまえ。

僕は成長している途中に、親のせいで心が消失した。

せっかく彼女のおかげで人間味を取り戻していたのに……。


喜怒哀楽がないわけでは決してない。

ただ、表に出さないだけだ。

いや、心をなくしたことによって周りに自分の感情をどのようにアピールすればいいのかがわからない。

だから、僕の目はいつも笑っていない。

親が子供に及ぼす影響はとても大きい。


特に、僕の毒親おやのような人が及ぼすものは。


そんな時だった。机の端っこにほったらかしにされていた僕のスマホが通知を知らせる音とともに「ここにいるよ」と主張してきたのは。

だいたい僕は無視をする。だが、今回だけは見なければいけない気がした。


高校の友達であるたけるからのLINEだった。

送られてきた文言はたったの一文。


『今から会える?』


『ごめん、親が厳しいから夜は外出できないんだわ』


両手を合わせて謝るようなポーズのスタンプとともに返す。


『そっか、ごめんな』


『こっちこそ悪いな。また明日学校でな』


親指を立てたグッドマークのスタンプが帰ってきた。


淡白な何気ない会話だった。アイツのことだから町にアイドルがいたとかだろう。

スマホを机の上に戻し勉強を再開した。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

学校帰り、いつもどおり途中で友達のたけると別れて一人で帰路についている。

肩にかけたリュックは教材と、家に帰ればどうせまた怒られるという思いで、とても重く感じた。

一歩、そして一歩と家に近づいていくことが堪まらなく嫌だった。

この道が永遠に続いていれば。


いっそ、線路に飛び込んで僕の生涯を終わらせてしまおうか。

もしかしたら、昔の自分に戻ってもう一度人生をやり直せるかもしれないし……。なんとかリベンジャーズみたいに。

線路に飛び込んで自殺をすると、電車が遅延をするせいで親族に大量の損害賠償を払う責務があるらしい。僕が死んだあとにどうせ悲しみもしないあの母と父を苦境に陥らせることができる。永遠に僕を恨むだろう。


気味がいいな。


少し体が線路に向かって前傾姿勢になったときだった。


を見つけたのは。


最寄り駅に見覚えのある後ろ姿を見かけた。

一瞬、とても懐かしい気配がした。

古い木造建築の家の匂いを嗅ぐと祖父母のことを思い出すような感覚である。


街の街灯に照らされて光を反射する漆黒の髪に、ランウェイを歩くモデルのような歩き方とスタイルの良さ。マンションの屋上での笑顔がフラッシュバックする。


思わず右手を前に伸ばしていた。

今逃したら、もう二度と会えない気がした。

彼女との間にある無限のような虚空を掴む。

最近は全く会っていないため、今の彼女がどんな姿をしているのかは全く知らない。

でも、自然と確信していた。彼女だと。


鼓動が高まっていた。

家に帰るのが遅くなって母に怒られるのなど、どうでも良かった。

彼女を追った。ものすごい勢いで改札を抜け彼女を探す。近くのファミレスに入っていくのが見えた。

手元にある金も確認せずに、そこに飛び込んだ。


カランッ、と扉を開けると鳴った。

少し前にいる彼女に声をかけた。


「僕のこと覚えてる?」


一瞬、肩を震わせたあとこちらを少し不安気味に振り向いた。

しかし、僕の顔を見るなり微笑んできた。


「あっ!……久しぶりだね。2年ぶり?」


僕を覚えてくれていたことに喜びを感じた。

久しぶりの喜びを。

その後一緒に食事をした。

何を話せばいいのかわからなかったので、成績が良くなくて親に怒られていることなどを話した。久しぶりに会ったのにこんなことを話すべきではなかった。

でも、一度話し始めると止まらずにいろんな事を話してしまった。


突然そんな話をされても、彼女は別に何も言わなかった。

同情もしなかったし、否定もしなかった。

たまに相槌を打つだけで、ただ静かに聞いてくれた。

ただそれだけのことなのに心の重荷はいつの間にか消えていた。


時間もあっという間に過ぎ、日が暮れてしまった。

会計をしようとして財布を開くと、そこには清水寺で受験前に引いた凶のおみくじしかなかった。

すなわち、金がない。


「誠に申し訳ないのですが、お金を持ってきておらず……」

レストランの床を見ながらそう告げる。黒いシミが目にとまった。

優しく微笑んで彼女は言った。


「フフ。おっちょこちょいな所は変わってないんだね。安心した。いいよ、私が払うよ」


「……ありがとう」


せっかく久しぶりに彼女に会えたのに、かっこいいところも見せられずにただ奢られてしまった。面目丸つぶれだ。


「お金、今度返したいからさ。こっち来たら連絡してくれない……かな?」


「別にいいのに……」


「払わせてくれ!お願い」


「う〜ん、分かった。じゃあ、来週の今日ね」


「ありがとう」


僕らは駅で別れた。

連絡先を交換したスマホは外気温に比べて暖かく感じた。

なんとか彼女ともう一度会う口実を作った。思いを伝えるべきだろうか。

急すぎるよな。どうすればいいんだろう。

というか、来週の今日って同じ曜日ってことでいいんだよな?


言わずもがな、帰宅時間が遅いと母から怒られた。

しかし、その日は別になんとも思わなかった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

神様がいるのなら痛めつけて殺してやりたい。

人間を不平等に作り出し、一寸の喜びも与えてくれぬ神とやらを……。

今まではそう思っていた。でも、今は違う。

僕の前に彼女がいるから。

この前のお礼にということで今は他のレストランにいた。


昔はこんなにかわいいだなんて思っていなかったのになぁ。可愛くなったなぁ。

食事にも手を付けられぬまま、幸せを噛み締めながら彼女を見ていると目があってしまった。


「どうかしたの?こっちばかり見て」


「いや、ただ君が僕の前にいるのが夢みたいでさ。嬉しくて……つい」


なんてことを口走ってしまったのだろうか。キモいやつだと思われたに違いない。


「そうだね。私も君に会えるとは思ってもいなかったよ」


そう言いながら、紙ナプキンで小さな口元を拭いていた。


それからというもの、僕らは1週間に一度ほど会っていた。

1ヶ月が過ぎようとしていたときだった。

周りはクリスマスムードになっていた。

街で流れるクリスマスソングを聞きながら彼女と一緒にいる。

僕はなにかの拍子に、昔彼女のことを好きだったと言ってしまった。


「へぇ〜、そうだったんだ。嬉しい」


こちらを覗き込みながらそんな事を言ってきた。

その時に見た彼女の目は、光で溢れていた。

僕の漆黒のどこまでも続いていそうな暗闇のような目とは逆だと思った。


だから、思わず目をそらしてしまった。


「……変なこと言ってごめんね」


「そうかぁ〜。じゃあ、付き合っちゃう?」


「へッ!?」


突然彼女の口から出た言葉に驚きを隠せない。

付き合う?

僕が彼女と?

ありえない。釣り合わない。

そう、自覚していたにも関わらず首は上下に動いていた。うん、とでも言うように。



それからというもの、彼女と僕の不思議な交際は続いた。

たまに会って、話をして、少し何かを食べたり買うだけ。

僕はそれだけでも幸せだった。

家に帰れば何かと母と兄から怒られる。

ストレスでしかなかった。

そんな中で彼女と会うことは夢にも等しかった。

ただ話すだけでこんなにも人は幸せになれるのかと思った。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

学校の昼休み

僕は友達と飯を食べながら雑談をしていた。学校だけが楽しい。本当の自分ではないけれど、楽に生きていられる気がした。


「最近寒いね」


「そうだね、クリスマスも近いしな……。今年も彼女なしのクリスマスか……」


友達に僕に彼女ができたことを話していなかったことに気づき、少し気まずくなったので、話題をそらした。


「そういえば、たけるは?」


「たしかにいねぇな」


いつもはあいつも一緒に昼食を食べているのに。


「トイレじゃない?」


「便所飯か!?」


友達がふざけて言う。


「あいつには俺という心が通じ合った友だちがいるんだからそんなことしなくてもいいだろう?」


「えっ?俺カウントされてない?」


「あっ、忘れてた」


「忘れんなよ!」


友達は俺の弁当の米の上にあった梅干しを取っていった。

おい!それは俺の大事な米のお供!!


そんな時だった。

クラスの女子が窓を見て悲鳴を上げたのは……。


クラスの皆がその女子を見た。


「そ、そ、外で何かが落ちた!」


「鳥だろ〜」と言いながら、俺らは窓を開けて下を覗き込む。

この学校は5階までと屋上があり、俺らの階は4階。

視線の先には校庭へと続くアスファルトの道に赤い液体とともに倒れている人影があった。


――――たけるだ――――


悪い冗談かと思った。

でも、僕らは流石に冗談だとは思えなかった。

だから、瞬時に行動した。

まだ困惑している隣りにいる友達に言った。


「119番で救急車を呼んでくれ!」


なんとか乾いた喉でそうとだけ口に出せた。

頼りない返事が帰ってきたものの、信じるしか無い。

周りにいる奴らもまだショックを受けているようだ。

恐怖で鉛のように思う足を無理矢理に動かして、俺は急いで1階まで駆け下りて、尊の傍に行こうとした。


上履きから靴に履き替えることも忘れて外に出ると、急いでいたのと外が寒いせいで、息がとても白かった。

頭の片隅でそんな事を考えながら、足を早めた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

間近で見ると酷いものだった。

ピクピクとまだ痙攣しているからだが、頭をピンで刺されたゴキブリのようで吐き気がした。

出血がひどい……。特に頭からだ。

息をしているようには見えなかった。保健の先生がにAEDを持ってきた。

その間、俺は必死に頭の出血部位をハンカチで押さえていた。


どのくらい時間が経ったのだろうか。短いような長い時間が過ぎて、救急隊が到着した。AEDや止血、出来ることは全部やったと思う。

俺も救急車に乗ろうとして先生に止められた。

「お前はよくやってくれた。だが、ここから先はお前たちには受け入れがたいものがあるかもしない。だから、……先生に任せろ」

いつもは冗談ばかり言う国語教師が怖いくらい真面目な顔でそういった。

その表情が逆に僕の不安を煽った。

何もできない無力感と喪失感をいだきながら教室に戻ると、クラスの人達は放心状態に近かった。

ショッキングな現場を目の当たりにして、泣き崩れている女子。

悔しそうにあいつの机をたたきながら何かを言っている男子。

対して仲の良くなかった者たちまで悲しんでいるように見える。

思わず拳をギュッと握りしめた。


その日はすぐに学校が終わった。

帰宅途中の記憶は殆どないが、家に帰って自室にこもった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

学校で使っているG-Mailにあの国語教師からメールが来た。

普段はG-Mailの通知をオフにしているから気づかないのに、今回はなんとなくスマホを開いてG-Mailを開いた。

それは個人宛のメールだった。




――――たけるは亡くなった――――



たったの一文だった。

しかし、その一文による衝撃は想像を遥かに超えていた。


スマホが手から零れ落ちそうになる。なんとか留まらせる。


人生で初めて体験する友の死。


その後には、僕が迅速かつ適切に処置を施したおかげで尊は親に見守られながら亡くなったと書かれていた。きっと僕のことを思って書いてくれたのだろう。

でも、そんなこと以上に僕は自分の罪を思い悩んでいた。


あいつは俺の仲の良い友達だった。

いつもヘラヘラしてるくせに本当は優しくて真面目なやつだった。

だから、こんなことは考えられなかった。

この間も一緒に帰ったし、いつも通りに見えたのに……。

悔しさと悲しさと他の色々な感情が入り乱れていた。

あの時に僕にLINEをくれたのは、相談したかったからではなかったのだろうか。

僕はそれを拒絶した。だから、尊は飛び降りた。



全部僕のせいだ。



せっかく僕を頼ってくれたのに、僕はその期待を裏切った。

きっと勇気を出して相談してくれたに違いない。

僕がスマホを手放したことで、あいつの魂の叫びを手放した。

人に話すだけでも救われると彼女に会って身を持って感じたはずなのに……。

自分のことで精一杯になっていた自分が許せない。


しかし、過去は変えられない。

僕は尊の死を背負って生きなければいけない。

間接的に自分が殺したという事実と、罪の意識は死ぬまで消えることはない。


生きるということはそういうことなのかもしれない。



を重ねること〉



長く生きれば、多くの人の死を体験する。

そして、数多もの『罪』を背負うことこそがせいを実感すること。



そんな方法でしか生を実感できないなんて……。

こんな事がわかったところで自分の中の罪悪感などは消えない。

悲しみも、尊が死んだ事実も変わらない。

無性に彼女に会いたくなった。

LINEをしようと思ってスマホを見つめるが、やめる。また、周りの人を傷つけてしまうから……。こんな薄っぺらい、便利なものは凶器にもなり得るのだ。

すべてを打ち明けたかった。でも、自分が会いたい時に会えるはずもなく、外で勢いよく吹く冷たい風が、壁を通り越して僕の心に吹き付けていた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

彼女と会った。でも、いつもと違って楽しめなかった。

会いたいと願っていたはずなのに、いざ会ってみると何も言えなかった。

自分でもわかるくらいに視線が留まらなかった。

僕の異変に彼女は気づいて何度も大丈夫かと尋ねてきた。

でも、僕は何も言えなかった。

手元にある空のコーヒーカップばかり見ていた。

ホットなのに、そのカップを掴んでいる僕の指はかじかんだままだった。

尊の死が僕にはとても重かった。

しかも、自分が殺したようなものだと言えるはずがない。

彼女には話そうとは思ったのに。

自分の身の可愛さに、彼女に嫌われたくないという思いによって阻まれた。

しかも、話すとあいつの死が軽くなるかもしれないという恐怖に見舞われた。

僕もどうしてこんなふうに思ったのかは分からない。

尊をきっかけにして、彼女に癒やしてもらおうとしている自分に嫌悪したのかもしれない。


彼女は何も話さない僕に堪忍袋の緒が切れたようだった。


「私のことを信用してない?」


突然の彼女の言葉に驚いた。信用していない?そんなわけ無いだろう。


「じゃあ、なんで話してくれないの?」


それは君に僕の罪を背負わせたくないからに決まっている。


「あなたにとって私って何?」


君は僕の大切な彼女で憧れの人さ。

彼女は泣きながら僕にすがってきた。どうして僕は泣かせてしまったのだろう。


「なら……なら……頼ってよ!」


それは君に悪いよ。僕が僕を許せなくなる。


「そんな変なプライド捨てちゃいなよ!」


そう言って、彼女は流れた涙も拭かずに走り去ってしまった。

途中、サンタの格好をしたおじさんにぶつかっていた。

足元を見ると、クリスマスの明るい街灯に照らされた不気味な光を放つゴキブリが、さっそうと僕の足元の闇に消えた。



僕は最初に彼女と出会ったマンションの前まで来ていた。今は他の人達が住んでいるのだろう。久しぶりに屋上に行った。そこから見た夕日は遠かった。


どうしてここに来たのだろうか



昔のように階段を駆け上がるような気力はなく、たっぷりと時間をかけて屋上まで上がる。錆びついた扉を前にする。南京錠はついているものの、とてもぼろぼろになっている。あの頃と変わらない。慣れた手付きでガチャガチャと揺さぶると外れた。

ただただ屋上を散策していた。


僕はフェンスの近くまで行って下を眺めてみた。

このマンションは12階まである。

それなのに地面がとても近く見えた。

腰元までしか無いフェンスを一気に飛び越えてフェンスに腰を下ろす。

不思議なことに恐怖はなかった。

昔はとても高く感じていたフェンスを軽々と超えてしまった。


その時は気づきもしなかった。自分が死に近づこうとしていることに。


――――――死は連鎖する――――――


ある本で読んだことがある。身近な誰かが自殺すると、自分も自殺してしまいたくなる。人間はほとんどの人が今という苦しい現状から開放されたいと思っている。そこから開放される一番簡単な方法こそが、死である。


死ねば楽になれるのかな?

そうかもしれない。


僕はフェンスから立ち上がりふちに立った。

もう少しで沈みきってしまう夕日に目を細める。

やさしい、暖かい光だと思った。

きっと死神の鎌は僕の首元に添えられているのだろう。


「な、何やってるの?」


後ろから声が聞こえた。振り返ると状況を把握しきれていない彼女がいた。



「どうして君がいるのさ?」


「何も言わずに帰っちゃ悪いと思って、さっきの場所に戻ったらいなかったから……。その時に後ろ姿が見えたからついてきたの」


胸のあたりを押さえながら、白い息を吐きながらそう言った。

走ってきたことを物語っていた。


「何をやっているのかだっけ?僕はこの苦しみから開放されたいんだ」


「苦しみ?」


「僕は自分が憎い、友達の一人も救えなかった自分が。周りから必要とされても力にもなれず、見捨てることしかできない自分が。努力をしても実らない、認められない。自己承認欲求ってのは人間の中での大きな欲求の一つだ。なのに僕は満たされたことがない。誰からも必要とされない。誰がこんな自分を愛してくれるというの?君だって軽いノリで付き合おうって言ったんだろ?本当の愛なんかない。そんな苦しみにまみれた人生から開放されたいんだ」


「だから死ぬっていうの?」


彼女は本気で怒っているようだった。


「そうだ、僕はこの世界から必要とされていない資源ゴミなんだよ。ゴミは排除しなきゃいけない。土に還らないといけない。人間がプラスチックとは違ってちゃんと土に還るしね」

ハハハと乾いた笑いが出る。


そう言って僕は前を向いた。まだ17時だというのに空は暗くなっていた。

さっきまでの夕日も沈んでいた。


ここから一歩踏み出せば楽になれる

そうだ、たったの一歩だ。でも、僕には大きな一歩だった。



徐々に足が前に動いていた。

正直、もうどうでも良かった。


「ガシャンッッ!!」


後ろのフェンスから勢いよく腕が伸びてきた。僕を抑え込み、包み込み、抱きしめるかのように。


「ダメだよ、やっぱり!」


驚きのあまり、振り払うことができなかった。彼女にはこんなに力があったのか?


「何がダメなんだよ。目の前で人が死ぬのを見たくないんだったら、さっさと帰りなよ!」


自分でもびっくりするくらい低く唸るような恐ろしい声が出た。

力づくで引き剥がそうとするができない。


彼女は涙で濡れた顔を僕の背中に押し付けながら言った。


「私は……君が死んだら……悲しいよ、毎日寝れないくらい泣いちゃう……。

私があなたに好意を持っていないのに付き合うと思うの?誘うような言い方をすると思うの?私はあなたに恋をしていたの、小さい頃からずっと……。皆の前を歩いて誰にでも優しくて……。憧れていたのに……大きくなった君は変わっていた。私が知っている君とは大きく違っていた。色々なことをこじらせて、自分で自分を攻め続けていた。……とても繊細で壊れやすい人なんだってわかった。だから、助けてあげようって思った。


だから……だから!今ここで放すわけには行かないの!」



僕は何を聞かされていたのだろうか?



「僕だって……努力したさ!皆に認めてもらいたくて……一緒にいてほしくて!

なのに、皆僕のそばから離れていく……。

誰かの一番になりたくて!でもなれなくて!

僕は……僕はどうすればいいんだよぉ!

……死ぬ以外の方法があるのか?」


こんなふうになるはずじゃなかったのに……。

彼女に引き出されていく。僕の本心が……。

涙がこぼれていく、唇が震える。心も……。


なんとか手を振りほどき、彼女のほうを向く。


何かを言おうとする前に、彼女の手が僕の胸ぐらを掴んだ。


「それは本当に努力したって言えるの?

シャーペンの芯の減りが早いと感じるくらい、寝る間を惜しむくらい勉強した?

毎朝トレーニングを欠かさずやった?一日も怠らずに?

あなたは本当に全力で努力をしたの?」


至近距離でそんなことを言われたことで、更に心に響く。


「ッ!?」


一番痛いところを突かれて何も言えずにいた


「私だって……もっとかわいくなりたいって思ってた。

でも、顔なんかそう簡単に変わらない。だから、心から変えていくことにした。

そして、雰囲気だけでも美しくなれるように努力した!

今だって早く起きて、毎朝1時間使ってセットしてる。


確かに皆に認められるために努力をしても実らないことだってある。

でも!それと同時に実ることもあるんだよ!


そもそも、あなたは何にこだわってるの?


皆に認められなくてもいいじゃん!


皆から愛されなくてもいいじゃん!

そんなことなんてありえないんだから!

皆誰かを嫌ってる。皆誰かを認めたくない!


でも!


私一人が君のことを思い続けるから!……愛し続けるから!


それとも……



私一人じゃダメなの?」


片手で胸ぐらを先程よりも優しく掴みながら、空いた片手で僕の胸元にやさしくなんども拳をぶつける。


みんなから愛されなくても、認められなくてもいい……。

そんな発想はなかった。


君が僕の……


孤独を埋めてくれる。



どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。



僕をやさしく叩く彼女の手をそっと手にとる。

何を言うべきなのか分からなかったから、僕の気持ちが一番伝わるようにした。


目の前にある桜色の唇に目を奪われる。


「君さえ……君さえ愛してくれるならそれでいい」


そう言って僕は彼女の震えている唇を塞いだ。


僕はフェンスを超えて屋上に戻り、さらに


「ごめん、ごめん」


と言いながらキスをした。涙の味がするキスだった。

外はとても寒いのに唇から伝わる体温は僕より少し暖かかった。

そして僕は久しぶりに声を上げて泣いた。



人って暖かいんだな……。


外を見回すと、駅前のクリスマスツリーが人工的な暖かい光を帯びていた。



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クリスマスも正月も終わって、春になった。

桜が舞う季節、最近は気候変動のせいで3月末には桜が舞う。


僕は尊のお墓参りに来ていた。

近くにある墓石に比べて全然きれいだ。

それでも、軽く掃除をしてやった。もちろん線香も上げた。


「尊……、あの時は悪かったな……。僕はお前の死を背負っていきていくからさ、心配しないであっちでゆっくりしていてくれよ」


しゃがみながら手を合わせていた態勢から立ち上がり、墓石を眺めた。


『ありがとう』


あいつの墓石に刻まれた言葉が僕の支えだ。


ありがとうか、僕がお前に言いたいよ……。


じゃあな、また今度来るよ。


そう心の中で言って踵を返す。


僕を引き止めるかのように、桜の花びらが僕にハラリと舞った。

頬についた桜の花びらをとる。

「僕は……今を生きてるからさ……、悪いけどお前のことばかりは考えられないよ。



僕を愛してくれる人がいて、愛すべき人がいるから。


たった一人でもいるんだよ……」



一人で喋っている僕に訝しげな目線を送ってきた一もいたが気にしない。


ポケットに入れていたスマホが振動する。

「もしもし?あぁ、ごめん。すぐに行くよ。待ってて」



生者の道を歩くスピードを速めて皆と、いや




彼女と同じスピードで今一度歩みだす

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生者の道 落ちこぼれ侍 @OchikoboreZamurai

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