第3話
灯と黒地くんは、お互い見計らったように帰り支度を始めた。夜の7時半を過ぎている。8時くらいに飲み始めて、2時間くらいでお開きになれば、日を跨ぐ前には寝られそうだ。寝る前のルーティンを頭の中で組み立てながら、「お先に失礼します」と黒地くんより先に会社を出た。
西公園は会社の裏側にある小さな公園で、小さいながらも多くの遊具が設置されているため子どもの利用率は高いが、鬼ごっこやボール遊びには向かない少し窮屈な公園だ。灯が黒地くんを待つこの時間は、とっくに日が落ちているので子どもの姿はなく、代わりにサラリーマンが煙草をふかし、ぼうっと地面を見つめているだけである。
タートルネックを着てくるべきだったかと、灯は首元に冷えた風が潜り込まぬようシャツのボタンを留める。間もなく、「お待たせしました」とカリついた声がした。
「夜はちょっと冷えますね。俺が先に出れば良かったっす。すんません」
「全然、待ってないから大丈夫」
「俺がいつも行く居酒屋でいいっすか」
「もちろん。私はあんまりわからないから、助かる」
黒地くんは、近くの飲み屋街から1本外れた道に入り、申し訳程度にちまっと光るオレンジ色の明かりを見つけると、ここです、とその明かりに照らされた小さな建物を指差した。こじんまりとした居酒屋だったが、それなりに席は埋まっていたため、カウンターに案内された。店の壁に貼ってあるメニューの中に大好物のクリームコロッケを見つけた灯は、微妙に残っていた強張りが少し解けたように感じたが、いかんいかん、と気を引き締めて椅子に座り直した。
「ここ、クリームコロッケがうまいんすよ」
「クリームコロッケ好きだから、食べたい」
「あとは、刺身とオニオンリング。居酒屋でオニオンリングって、よくわかんないすよね。でもうまいっす。玉ねぎいけます?」
「ピーマン以外なら」
「7歳の姪っ子以外にピーマン嫌いな人、久しぶりに会いました」
「人の好き嫌いに文句つけないでよ」
ごく他愛もない話がしばらく続いたが、灯は「黒地くんってこんなに喋る人だったっけ」と少し戸惑っていた。いつも声は小さいし、口数は少ないし、口を開いたと思ったら灯の心をちくちくと攻撃してくるような言葉ばかりだけれど、お酒が入ると元気になるのかしら。いや、お店に着いた時からよく喋っていたような。
黒地くん=よくわからない人、と頭の中で勝手に結論づけ、ビールをぐうっと流し込むと、黒地くんが「俺、こんな感じに見えないっすよね、いつも」と、カリカリというよりモツモツとした小さな声で呟いた。灯は、え、と黒地くんの顔をぽかんと見つめた。
「この間、というか昨日、ちょっと言い方良くなかったですよね。すんません」
「ああ、いや、うん」
過去型シミュレーションを生かすチャンス、と理解はしているのだが、言えない。
「気にしないで。私もそんなに気にしてなかったよ」
すると灯の目に、黒地くんの細い切れ長の目が映った。正面から見つめられているのだと気づくのに、一呼吸分の時間がかかった。
「篠田さんって、思ったこと口に出さないタイプでしょ」
「え、」
「気にしてなかったって、嘘じゃないの」
いつの間にか灯への敬語が抜けていることにも気づかず、返す言葉を必死に探していた。おっしゃる通り、いつも思ったこと言えないのよ、シミュレーション通り言えないのよ、思っていることをきちんと相手に伝えられる人になりたいのよ。言葉が頭の中で書き出される反面、口からは「え、いや、そ、そんなことなにゃい、ないよ」と、しどろもどろだわ噛むわのてんてこ舞いな返答しか出てこない。さっきまでは冷え込みを感じていたのに、今はちょっと熱い。黒地くんは灯を見て、
「俺も、思ったことと違うこと言っちゃうから、勝手に同類だと思っちゃってたんだけど、違いますか」
「え、そうなの」
「昨日、篠田さんと話した時も、言い方良くなかったってわかってはいるんです。でも、こう言いたいって思ったことをその通り伝えるってのが、俺には難しいみたいで」
「今、思ったこと言えてるじゃない」
「それは、篠田さんもちょっと辛いんじゃないかなって、思ったから。俺と一緒なんじゃないかって」
「…」
「俺、今、頑張って話してます」
黒地くんの声は小さいけど、いつもより良く聞き取れた。言葉を頭の中で紡いでから、丁寧に伝えてくれようとしている、と灯は思った。切れ長の目に力が入っているのか、いつもより大きく見開かれ、三白眼気味になっている。乾いた唇を何度も舌で潤してから話し始める黒地くんを見て、本当に頑張って話してくれていることはわかった。
はあ、ふう、と小さく荒い息をしている黒地くんが、「なんか、会社の人間としてっていうより、これから生きていく上で、色々話した方が、お互いの人生ちょっと楽になるんじゃないか、って」と言った時、その勢いに続くように灯も話し始めた。
「シミュレーション通り、いかないの。したい訳じゃないのに、思っていることを言うシミュレーションが勝手に始まるの。でも、いざその場面になると言えないの」
黒地くんのおっしゃる通りなんです、とぺこりと小さく頭を下げた灯は、思っていることをそのまま話すことができて、素直に嬉しいと感じた。すぐに頭を上げたが、嬉しさで崩れた顔が見えてしまわないよう、カウンターの木の節をじっと見つめることにした。
「やっぱり」
なぜか得意気な声色の黒地くんを横目でちらっと見ると、口元を隠すように右手で頬杖を付いているが、くいと上がっている口角は隠せていない。
「部長から聞いたんですけど、舞川さんも、思ってもないことを言っちゃうことがあるらしいですよ」
「え、さすがに思ってもないこと言い過ぎじゃないの」
「俺からも言っとくから、ちょっと辛抱してくれって、部長が」
「信じたくてもあまり信じられないかも」
「確かに。さすがに口うるさすぎるもん」
でもさ、と笑いながら黒地くんが再び話し始める。
「俺ら、ずっと悩んでるってことは、簡単には解決できないってことなんだから、いっそあえて言わないってことにしてみるとか」
「どういうこと」
「真意を、あえて隠しているってことに。お前なんかに俺の真意がわかってたまるか、教えてやるわけないだろ、って」
ちょっと無茶苦茶すぎない?と灯は笑う。黒地くんもつられて、確かに無茶苦茶だ、と笑う。
「真意は、本当に大切な人にだけ伝わってれば、いいんじゃないですか。大切な人とは良い関係性でいたいでしょ。そのためには、自分が辛いままその人と居るのはあんまり良くないから、真意をきちんと伝えるべきだと思う」
俺はね、と付け足す黒地くんに、いつもの憎たらしさは感じなくなっていた。黒地くんもだけれど、私と同じように、理想通りの人生を送っている人は、案外あまりいないのかもしれない。そう思うと、厄介だと思っていたシミュレーションへの強い抵抗感が少し薄れた。大切な人には真意を伝えられるように。そのためのシミュレーションだと思えば、怖くはない。私の大切な人は誰だろう、と思いを巡らす。
お互いの本当の気持ちを伝え合うと、2人とも満足したように目の前のお酒をゆっくりと飲み、残っていた最後のクリームコロッケを賭けてじゃんけんをし、へらへらとした笑顔のまま、店を出た。
駅に向かう2人は、もう一度西公園を通りながら、特に言葉は交わさずのろのろと歩いていたが、急に黒地くんが
「名前を付けました。俺らの」
と、小学生が手を挙げて「先生、わかりました!」と意気込んで発言するかのような、明るい声を出した。
「名付けて、俺たち真意防衛軍!」
シュワッチ、とポーズを決める黒地くんの目は、もう三白眼ではなく、いつもの切れ長の目に戻っていたが、目尻が垂れ、皺がいくつも出来ていた。
「シュワッチって、ウルトラマンじゃないの」
「細かいことはいいって」
「真意防衛軍って、地球防衛軍のパクリ?」
「細かいことはいいじゃんって」
地球防衛軍って、ゲームだっけ、かなり昔に映画もあったよね。お互いふふ、と笑いながら再び歩き始める。なぜか居酒屋に向かう前より暖かく感じる空気が心地良い。
翌日、灯はタートルネックの長袖をジャケットの下に着込み、仕事へ向かった。赤信号で立ち止まり、凝った首をぐるっと回すと、目線が一周する直前で、左目の端に再び布切れのような物が見えた。慌てて、そういえば物ではなく犬だった、と正面からその犬を見ようとすると、今日は首輪にリードが付いている。目線を上げると、記号の丸の右側だけ切り取ったかのように腰が曲がり、右手に杖、左手にリードを持っている老人が、その犬を連れていた。散歩しているのだろうか、されているのだろうか。散歩といえるのか不明な程の速度でゆったり歩いている。犬は以前と同じように、歩きながら涎をぽたぽた垂らしていた。
老人と目が合って、会釈をした。目線を戻した途端、突然、走り出したヨダレイヌが見えた。老人は走り出す犬に驚いたのか、ぱっとリードを離していた。灯はとっさに、ヨダレイヌを確保しようと、進路を塞ぐように向かって来る犬の正面に立った。捕まえて服に涎が付いたらどうしよう、と不安になる。
「こらあ、ポン!待ちやがれ!」
灯は、ヨダレイヌを捕まえようと広げていた手をいつの間にか下ろし、口を開けて一部始終を見ていた。
老人が、杖を投げ捨て、曲がっていた腰をぴんと張り、老人にしては目を見張る程の綺麗なフォームで走り出したのである。老人は、灯が口を開けて閉じるまでの数秒で、あっという間に逃げたヨダレイヌまで追いつき、リードを掴み直して、まったくもう、やめておくれよ、とぶつぶつ言いながら杖を取りに戻っていた。
今のは何だったのか、とぽかんとその場に突っ立っている灯を見つけた老人は、照れたように頭を掻きながら「すみませんねえ」とぺこぺこと頭を下げた。
何も言えずぺこっと会釈を返した灯に、老人が近づき、「本当のことは、隠してるのさ」と言った。
「本当のことって、本当はピンピンしてる、ってことですか?」
「それもだし、色々ね。杖も腰を曲げて歩いているのも、隠してるのよ。本当のことをね。あえて隠している」
老人は、自慢気に鼻をフンと鳴らした。
「楽なのよね。ゴールド免許なのに初心者マークを付けて運転している人と同じよ。電車で席を譲ってくれたり、買い物帰りに荷物を持ってくれたり。日本人って優しいからねえ」
「なるほど」
「真意を隠して、自分を防衛しているのよ」
ちなみにポンという名前は、アンポンタンのポンよ、と老人が犬を撫でる。
会社に着いたら、黒地くんにこの話をしよう。そう思い、「これからも、防衛、頑張ってください」とだけ言い残すと、灯は会社への道を歩き出した。あ、と思い出したように呟いた灯は、振り返って老人を見つめ、
「大切な人には、真意を伝えているんですか」
と問いかけた。老人は「さあね、どうでしょうかね」とだけ言い残し、腰を曲げ直してヨダレイヌと共に去っていった。
会社に着き、メールの受信リストを確認していると、黒地くんが今日も始業ギリギリに駆け込んできた。灯の横で止まり、にやりと笑いながら小声で「俺ら3人、真意防衛軍!」と言ったかと思うと、隣の部屋で営業部の社員と話し込んでいる舞川さんに向かって、おおい、大将、時間ですよう、と大きな声で呼びかけた。灯は、ちょっとやめてよ、と慌てるが、自分の顔が笑顔で崩れていることに気づいていない。
真意防衛軍 熊谷あずさ @azskmgi
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