第2話

 べたべたした湿っぽい夏が過ぎ、次は俺たち秋の出番だと主張するような冷たい風が、ひゅっと首元から入ってくる。

 結局いつもと同じ時間に帰路についた灯はジャケットの襟を立て、大学生になった時に父に買ってもらった皺だらけの腕時計を覗き、はあ、と湿っぽいため息をついた。ため息はよくない、と慌てて吸い込むが、吸い込み過ぎて咳が出た。


 再びため息を吐くついでに下を向くと、右目の端に、白い布切れのような物が見えた。誰か落としたのか、不法投棄か。そうは言っても布切れだ。

 右目の端に、今度は布切れがふわっと浮いたのを見た。あれ、今、風吹いた?と少し訝しげに思った灯は、もう一度真っ直ぐに布切れを見つめたのだが、今度は布切れが、ふわっふわっと軽快にこちらに向かって来る。


「あんた、犬じゃん」


 布切れと見間違えたのは犬に失礼だが、口を開けて涎を垂らしているこの犬は、色は少し黄ばんだ白色で、毛らしくもない毛が皮膚と平行にぴったり生えていて、まるで使い古した布切れを身体に巻き付けているかのようである。

 首輪をしていたので、野良犬ではなさそうだ。この様子だと噛まれることもないだろう。灯は腰をかがめ、犬を撫でた。犬は涎を垂らすだけで、撫でられたことにも気づいていないのか、表情を変えないし尻尾も振らない。

「ごめんね、布切れと犬を間違えるなんて」

 犬は一度口を閉じ、器用に左足をぐいと振り上げて耳を掻き、また涎を垂らし始めた。

「ちょっと、謝ってるんだけど。聞いてる?」

「人の話はちゃんと聞いた方がいいよ。涎ばっか垂らしてないでさ。じゃないとあんたのこと、ヨダレイヌ、って呼ぶよ」

 犬だから、人の話は聞かないよなあ、疲れてるのかなと、灯は凝った首をぐるっと回してから犬に微笑みかけ、家へ歩き始めたが、振り返って

「あんたには思ってること、言えたのに。ねえ、ヨダレイヌ」と漏らした。

 聞こえているのかいないのか、ヨダレイヌは、くわあっと歯を上に剥き出して、欠伸をしていた。


 家に帰った灯は、過去型シミュレーションについて考えていた。正しくは、苛立っていた。未来型シミュレーションの場合、シミュレーション通りに行動出来ず、悲しくなる。過去型シミュレーションの場合は、どうせ過去のことであるのに後からシミュレーションされるので、苛々してしまうのだ。


「うまくできなかったら、うまくできる方法を、誰かに聞いたらどう?」

「わかってるんだったら教えてくださいよ、うまくできる方法ってやつを」

「一生懸命、試行錯誤して発注書の処理して、終わらなかったらそれは仕方ないの。でも黒地くんは人間でしょう?人間は、考える葦なんだよ。私たちはたかが1人の人間だけど、人間は考えて行動することができるの。わかる?」

「パスカルでしたっけ。そんなに熱くなって、何なんですか」

「まずは考えなさい。どうするべきか。私は、誰かに聞いたらいいんじゃないって、アドバイスをしているつもりだけど」


 これが、今日の過去型シミュレーションの内容だ。理想の自分は、随分きりきりと話しているが、もう少し実現可能な理想にしてくれないものか。

 ぐずぐずとシミュレーションにケチをつけていると、いつの間にか眠ってしまったようだ。気怠い気持ちをなんとかごまかし、いつも通りの時間に出勤すると、舞川さんが「篠田さんも黒地くんも、残業多すぎない?仕事が多いのはわかるけど、工夫してくれないと」と、文句をぶつけてきた。半分は独り言なのか、はあ、へえ、ほお、と適当な相槌を入れても気にしていないようである。こんなことで始まるなよ、シミュレーション。自分に念を押し、席に着く。


 始業ギリギリになって黒地くんがやってきたので、なんとなく目を合わせないように「おはよう」と挨拶をした。「おはようございまっす」と小声で答えてくれた後、こちらを窺うようにチラチラと目線を投げられていることに気づいた。

 これ以上マイナスな気持ちになることは今日こそ避けたい、と灯は意気込み、とことん黒地くんから投げられた目線を交わし続けていたのだが、舞川さんが処理済みの書類を部長へ提出するために席を外した途端、黒地くんが「篠田さん」といつもよりカリカリした細い声で話しかけてきた。

「昨日はどうもっす」

「いえ」

「えーと」

 黒地くんが、もじもじしている。もしかして昨日のことを反省してくれているのではないか、と期待してしまう。


「えーと、今日、暇っすか」

「え?」

「今日、飲みに行かないっすか」

「誰と?」

「一応、俺、ですかね」

 じゃあ終わったら西公園の入り口で、と黒地くんは勝手に約束を取り付け、さっさと書類整理を再開し始めた。

 灯は、予想外の誘いに戸惑ったが、きっと昨日のことや今後の働き方について相談されるのだろう、それ以外で飲みに行く理由なんてないし、マイナスな気持ちになる要素はない、と頭の中で唱え、期待と強張りが混在した気持ちを落ち着かせるためにすうっと思い切り息を吸い込んだ。直後、盛大に咳き込む。

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