9-4 ビオラの悲しみを垣間見る。
次に瞼を上げると、そこは天井の高い絢爛豪華なホールだった。
壁際のテーブルには豪華な食事が並び、給仕たちが銀の盆を手に
これは
俺には縁のない場所だが、お伽噺に描かれるものとよく似た光景だ。
俺はどうやらここでもイレギュラーなようで、人や物に触れることは出来なかった。さらに、通りすぎる人々の顔は霞んでいて分からない。
おそらく、これもビオラの記憶なのだろう。
辺りを見回すと、すぐにビオラの姿を確認できた。真っ赤なドレスに身を包んだ姿は、二十五歳くらいだろうか。それは、あの鏡から解き放たれた瞬間の姿と同じだった。
美しい顔に笑みはなく、この舞踏会を楽しんでいるとは思えない。
ビオラが空になったグラスを、横を通った給仕のもつ銀盆に載せると、礼装に身を包んだ男が近づいた。俺たちと歳はそう変わらないだろう。
「魔女様、よろしければ一曲、踊っていただけますか?」
手を差し伸べ、ダンスの誘いを申し入れた男に、ビオラは笑み一つ浮かべず堪え、その白魚のような手を差し出した。
嫌そうにため息が赤い唇からこぼれ落ち、赤いドレスの裾が
「魔女殿、宰相にはお気をつけなされよ」
「……北の辺境伯殿、それはどういう意味じゃ?」
「あなたを陥れようと画策しているそうですよ」
「
「宰相はあなたの力を恐れている。いつ、寝首をかかれるかと」
「妾が宰相を? バカな話じゃ。そのようなこと、なんの得になる」
「魔女殿にその意思がなくとも、あの男は命を狙われていると思っていますよ」
声をひそめながら笑顔で話していた男は、ビオラの耳元にそっと口を近づけた。
「私はあなたの味方です。いつでも、頼ってください。北のアベルは、魔女様の訪れをいつでも歓迎します」
ビオラがそれに言葉を返すことはなかった。
会話が途絶えてしばらくすると、曲が終わりを迎えた。北のアベルと名乗った男は挨拶を終えて離れると、人混みへと消えた。
ビオラはドレスをきつく握りしめると、裾を翻して歩き出した。舞踏会のホールを足早に歩きながら、誰かを探しているようだ。
その赤い目は冷たく怒りに満ちている。
「やはり、来ておらぬか……」
ややあって呟いたビオラは諦めたように足を止めると、深く息を吐いて俺の方を振り返った。
一瞬、ぶつかると思ったが、やはりそんなことはなく、ビオラは俺をすり抜けて足早に歩いていった。
ビオラを追いかけていると、辺りでひそひそと声がしていることに気づいた。
「暴食の魔女よ」
「近づいたら食べられるそうだ」
「おお、怖い」
「この前、ラモント卿が食われたと聞いたぞ」
「よくもまあ、舞踏会に来たものね」
「次の獲物を探しているのか」
「噂では、宰相の情婦だと言うじゃないか」
「王の
「どちらにせよ、食っているのは男ばかりだな」
まるでビオラを
ビオラは、これから逃げようとしていたのか。しかし、逃さないというように、笑い声は追いかけてくる。
それを払おうとしても、俺の手はすり抜けるばかりだ。
「ビオラ!」
赤いハイヒールが脱げ落ち、転倒したビオラはその場に踞った。
いつの間にか、絢爛豪華だった景色は消えていた。黒い手も闇に紛れてなくなっていた。だが、嘲りと笑い声は響いたままだ。
「何も、知らないくせに……」
ビオラはきつく拳を握りしめ、震えていた。その前に腰を下ろした俺は、その顔を覗き込む。
はらはらと輝く涙がこぼれ落ちていた。
「……ビオラ」
俺の声は届かない。触れることも出来ない。
分かっていたが、その赤い瞳から止めどなく溢れる涙を拭ってやりたくて、仕方なかった。
「お前の過去を、俺は何も知らないんだな」
「妾を知らない世界に行きたいの……
「来たじゃないか。五百年後、俺たちの世界に」
「……師匠と二人で、また、のんびりと暮らしたいの」
「俺は、マージョリーの代わりになれるか?」
「なぜ……師匠は宰相の言いなりなのじゃ。妾と二人であれば……」
国を滅ぼすことも簡単なのに。そう言いたかったのか。
言葉を濁したビオラははらはらと涙を流し続けた。
俺の言葉など届いていない。そうと分かっていても、繰り返し、俺はその名を呼んだ。
「ビオラ、もう考えるな」
触れることのできない細い肩を抱きしめ、その美しいハニーブロンドを撫でた俺は、瞼を下ろした。
次に目蓋を上げると、そこにあったのは静かな闇だった。
封印されたビオラは、どんな思いだったのか。目覚めたあの時の怒りは、誰に向けられたものだったのか。
闇の中にその答えはなく、今すぐ、ビオラの声を聞きたい。そう思った。
それからしばらくして、遠くで、俺の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
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