1-5 精霊と戦うなんてのは、まっぴらごめん。頼むから帰ってくれ!

 現れた青い陽炎かげろうは夕日を浴びてキラキラと輝いた。幻想的なその姿をよく見れば、朧気おぼろげだが四足歩行の獣のような形をしている。

 周囲のやじ馬連中にも、その姿は見えているようだ。俺の背後で、怖れとは違う感嘆の声が上がっていた。


「ラス、あの獣は一体……?」

「俺は専門外だが、精霊ってやつだな」

「精霊?」

「意志を持つ魔力とも、自然の権化ごんげともいわれる」


 恐る恐る声をかけてきた一人に淡々と説明し、青い獣に視線を戻した。

 びしびしと伝わってくるものは、怒りだ。

 綺麗なだけならこの見世物にも箔がつくってもんだが、どう考えても嫌な展開しか想像が出来なかった。


 俺だって、突然封じられたのなら腹を立てるだろう。

 人に精霊の区別が難しいように、この精霊から見たら、ここにいる全員が自身を封印した人間に見えていてもおかしくない。人混み全てを敵に見ているのかもしれない。

 考えれば考えるほど、きもが冷えた。

 何がなんでも、穏便に帰ってもらいたいところだが。さて、人の言葉がどこまで通じるのか。


「名もなき水の精霊、お前を封じた奴を俺は知らない」


 青い獣は陽炎を揺らして振り返った。

 まるで蛇に睨まれた蛙の気分だ。

 途方もない威圧感に、背筋が寒くなる。だが、ここで引くわけにはいかない。被害が出ることになれば、損害賠償もんだろう。

 訳もわからないトラブルに、銅貨フロンス一枚たりとも払ってたまるか。


かせを外した褒美を欲しいとも思わない。ただ願うのは、お前があるべき世界に帰ることだ!」


 ゆらゆらと陽炎を左右に揺らしながら、近づいてくる。凍えるほどの冷気が怒りと共に迫ってくるのを感じ、心拍数が跳ね上がった。


 こんな場所で戦闘になるのは、ごめんだ。かくなる上は再び封印をするしかないが、準備もなしにそれが出来るだろうか。

 そんなことを考えながら、周囲に意識を向けたその時だ。青い獣は地面を蹴って俺を飛び越えた。その先にいるのは──


「婆さん!」


 振り返りざまに地面を蹴り、子どもを抱える婆さんに手を伸ばした。

 周囲から悲鳴が上がり、子どもが目を固くつぶった。

 誰もが直感しただろう。間に合わないと。そして、その先の悲劇から目を逸らすように、多くのやじ馬が顔を伏せた。


 シャンッ、とガラスが割れるような、それでいて涼やかな音が響いた。


 冷たい風が吹き抜け、青い獣は婆さんと子供の真上を駆けて行った。

 空へ、空へと登っていく姿を見上げ、呆然としていると。陽炎をまとったその足が宙で立ち止まる。

 冷ややかな瞳と視線がこちらを見ていた。俺を捉えている瞳はまるで宝石のように美しく、怒りの色はすでに消えていた。


 精霊は夕闇に消えた。

 静まり返っていた沿道に、ややあって、子どもの上げた大きな泣き声が響き渡った。

 誰も、何が起きたのか分かっていない。それは俺も同じだった。ただ、助かったことだけを実感していた。


 ***

 

 馴染みに店で酒を飲みながら、深々とため息をついた。

 目の前で食事にガッツいている子どもは、時折、婆さんに汚れた口元を拭われている。

 青い獣が消えた後、ごめんなさいと泣きわめいた子どもを断罪するわけにもいかなくなった。婆さんの顔に免じて穏便に話をしようと思ったのだが、小さな体に似つかわしくない腹の虫が鳴ったことで、晩飯を共にすることになった。


 店主が焼きたてのパンが乗った皿をテーブルに置いた。


「ずいぶん腹が減ってたんだな。小僧、しっかり食えよ」

「うん!」

「ラス、お前も食え。俺の奢りだ!」


 豪快に笑う店主は、小さな手が丸いパンをむんずと掴むのを満足そうに見て、席を離れていった。

 魔剣に振り回されていたのだから、相当、体内魔力も消費していたのだろう。カラカラに干からびたような顔をしていた子どもは、羊肉の煮込みをぺろりと平らげるとパンをむさぼり始めた。

 いくら食べても、足りないのだろう。まぁ、食欲があるなら回復も早そうだ。


「おい、小僧」

「小僧じゃない。マーサー!」

「……なぁ、マーサー。あの魔剣は誰からもらったんだ?」


 店主には笑顔を向けたくせに、俺に向けるのは、未だに生意気な顔だ。まぁ、子どもに気に入られた所で面倒なだけだから、気にはしないが。


「知らないおじさん」

「じゃぁ、なんで俺を刺そうとしたんだ?」

「そのおじさんに、姉ちゃんは、守銭奴魔術師に殺されたって聞いた」

「知りもしない奴の言葉を真に受けて、俺を殺そうとしたって訳か」

「だって! 姉ちゃんが自殺するわけないんだ! 仕事だって楽しいって言ってた。ご主人様も、奥様も優しいって! なのに、なのに!」


 だんっと小さな手がテーブルに叩きつけられた。

 雲行きの怪しい話に眉をひそめていると、婆さんがマーサーの涙をぐいぐいとスカーフで拭った。


「マーサー、あなたのお姉さんの名前は何て言うんだい?」

「……オリーブ」

「ラス、聞き覚えは?」

「ねぇな。おい、ご主人様とか奥様って言ってたが、どこかの屋敷で働いてたのか?」

「……うん。姉ちゃんは、メナード家でメイドをしてたんだ。僕を学校に入れるために」


 うるうると再び目に涙を浮かべたマーサーは、婆さんに頭を撫でられると、汚れた袖でその顔を擦った。

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