1-2 商売が上手くいっているのも、慕われているのも、ただ運が良かっただけだ。

 男は手の中の正六面体キューブをカウンターに置くと、懐に入れていた財布から大銀貨ルナを三枚取り出した。

 

「今すぐに金貨一枚を用意するのは難しいです。前金として、これでは足りないでしょうか?」

「いいぜ。こっちも用意が必要だ。一週間後、残り大銀貨七枚と引き換えだ」


 契約書を出して俺がサインを求めると、男はペンを手にしたが、すぐには動かなかった。ずいぶんと慎重に、文面に視線を落としている。


「本当に……壊れることはないんですね」

「安心してくれ。俺の見立てでは、こいつは古い遺物じゃない。多重封印ではあるが、そこまで複雑なものでもない」

「もしも壊れたら……」

「壊れない。まあ、壊れた時は、そこに書いてある通りに無償で復元してやるよ」


 契約書の一文を指さし、にっと笑うと、男は腹をくくったようだ。紙の上にペンをさらさらと走らせた。


「ケビン・ハーマン……契約成立だ」


 契約書の名が一瞬、赤く光ったのを見た男は、こくんと頷いた。



 ***


 翌日、海沿いの商店街を歩いていると「ラス!」と声がかかった。振り返ると、果物を扱う露天商の婆さんが手を振っている。

 婆さんと言っても、腰が曲がった老いぼれなんかじゃない。現役の商売人で、この辺り一帯の露天商たちにも一目置かれる人物だ。当人は、町の人たちが年寄りに優しいだけだと言って笑うが、それだけとは思えない。


「婆さん、元気そうだな」

「この前、あんたが直してくれた義手これ、随分調子が良いんだよ」


 そう言った婆さんは、革の手袋がめられた左手を見せると、手押し車カートに積まれた果物を紙袋に入れ始めた。そして、当然のようにそれを俺に押し付けて「持っておゆき」と言う。


「この前も、貰ったばっかだぜ?」

「良いんだよ! 新しいのを買うのを考えたら、格安で直してもらったんだからね。そのお礼だよ」

「おいおい。そいつは使用年数がだいぶいってるから、早めに新調した方が良いって言っただろ? 直したって言っても、その場しのぎ程度だぜ」

「そうしたら、また直してもらうよ」

「マジかよ……次は、直んねぇかもよ」


 にこにこと笑う婆さんは、紙袋にさらに果物を載せた。

 

「あんたなら出来るって!」


 どこに根拠があるんだろうか。婆さんの自信たっぷりな台詞せりふに、思わず苦笑で返した俺は、ちゃんと病院行けよと釘を刺しつつ、果物はありがたく受け取ることにした。

 さらに進むと、また声がかかる。


「ラス! 調理場の着火装置イグニスが不調なんだ。ちょっと見てくれないか!」

「うちの製氷機が水浸しなんだよ!」

「店の時計が止まっちまって困ってるんだ」

「ラス! オルゴールって直せる?」

「ねぇ、ラス──!」

「ラス!」


 行く先々で、町人たちに声をかけられ、夕暮れ前には両手いっぱいのお礼の品を抱えることになる。当然だが、修理代をもらいつつのこれだ。

 町の連中は気が良すぎる。


 いつだってこんな調子だから、守銭奴魔術師なんて呼ばれてる俺だって、ちょっとした調整で金をもらうのは気が引けてしまう。おかげで、顔馴染みの簡単な依頼は格安で引き受けるようになってから、随分ずいぶんと年月がたっている。

 それもこれも、町の奴らのふところ事情を俺もよく知っているからだが。


 庶民の働きで稼げる金は高が知れている。

 露天商の婆さんは物々交換をしているのも見かける。いや、婆さんだけじゃない。そう言った場面は、ここじゃよくあることだ。

 紙袋の中からプラムを一つ取り出した。

 これを袋いっぱいに詰めたって、小銀貨ステルラ一枚にも満たない。それすら持ち合わせてない町民だっている。

 俺は、しわが刻まれた人の良い婆さんの笑顔を思い出した。


「腐らせる前に食わねぇとな」


 かぶり付いたプラムは瑞々みずみすしく、乾いた喉を潤してくれた。

 金に勝るものはない。それでも、町の奴らの気持ちが嬉しくないわけもない。運がなけりゃ、俺だってどんな人生を歩いてたか分かったもんじゃない。婆さんたちと同じだったかもしれないんだ。

 そう、運が良かっただけだ。

 師匠から魔術と封印術を学んで独り立ちできたから、稼げてる。そうじゃなきゃ──


 暗い路地の奥でうずくまる子供の姿が目に入った。

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