雛鳥たちの向かう先 第2話

 一歩外に出ただけで、今日の午後はむせ返るような暑さになることは明白だった。日が昇ってからまだ数時間しか経っていないにも関わらず、空から差す強い日差しにアスファルトは熱され、温まった空気の塊に閉じ込められているかのようだった。こんな日は、足取りが重くなる。溜息を吐いたあと、同じ分だけ息を吸い込むとじっとりとした空気が肺になだれ込んだ。


 駅のホームで椅子に腰を掛け、アーチの隙間からみえる空をぼんやりと眺めた。今朝、母とした会話が胸の中にもやもやとした塊になってずっと残っている。


 僕は、誰になるんだろうか。

 何に、なるんだろう。

 将来やりたい仕事もない。それどころか、どんな人生を送りたいかというビジョンすらない。


 僕のような高校生が、社会の中での雛だとしたら、今は柔らかな巣で囲われている。だが、その肩書きが無くなった時、雛は巣立たなければならない。そうなった時、僕には行き場がない。


 頭上に広がる抜けるような空をみながら目を細めた。


 この世界は、あまりにも広すぎる。

 怖いくらいに。

 飛び立つ準備の出来ていない雛は、その力すらない雛は、どこに向かえばいい?


 そんなことを考えていると虚無感だけが胸の中で膨れ上がっていく。弾けて無くなってくれたらいいのに、それは日に日に膨れ上がり僕の心を腐食させていくようだった。昨日、このホームから飛び降りようとした海月をみて羨ましいと思ったことを思い出す。


──この世界は、生きる意味を見い出す方が難しい。


 冷え切ったその考えが、僕の頭の中でずっと根付いてる。


「生きることって面倒くさいんだなぁ」


 無意識に呟いていた。僕の中だけで留めようと思っていた考えを溢してしまい一瞬にして誰かに聞かれたらと羞恥に駆られた時、「何が面倒くさいの?」と甘い声が僕の鼓膜をくすぐった。


「え、なんで?」


 僕の座っていた椅子の隣には海月がいた。


「なんでって何?」

「え、だからなんでここにいるの?」

「だって、ここが最寄り駅だから」


 不思議な生き物を見るかのような目で僕をみながら、笑いを堪えているかのようだった。ついには笑いだし、僕の肩を何度も叩く。


「昨日私とここで会ったこと忘れたの? もしかして記憶喪失とか? 響って昨日から思ってたけどちょっと変わってるとこあるよね。その、なんで笑われてるのか分かりませんみたいな目とかつぼなんだけど」


 海月は声をあげて笑っている。不思議と僕も笑みを溢していた。今年も蝉が産声をあげた。けたたましく鳴く蝉達のそれに掻き消されないように、向かいのホームに入り込んだ電車の走行音に掻き消されないように、少しだけ声量を上げて僕がずっと考えていたことを話した。こんな事、他の誰かには恥ずかしくて言えないが、海月なら分かってくれる気がしたのだ。


 全てを聞き終えたあと「まあ、分からなくはないよ」と海月はまっすぐに目をみつめてくる。夏のひかりをめいいっぱいに吸い込んだ瞳が綺麗だった。


「この世界は退屈で、それでいて残酷で」と言いながら海月は椅子から身体を引き剥がし、歩みを進めた。その先には黄色の線があり、奥にはホームがある。


「でも、時として凄く綺麗だとも思う。怖いくらいにね」


 一度振り返り、それから緩やかに笑みを溢したあと、再びホームに顔を向けた。吹き抜けていく風が海月のスカートの裾をふわりと揺らし、蝉が悲しげな産声をあげた。電車のアナウンスがそれに重なる。


「間もなく電車が参ります。黄色の点字ブロックの後ろまでお下がり下さい」という機械的な音声がホームに響き渡った。その声が、ホームへと歩みを進める海月の姿が、昨日の出来事と重なりあい、僕は咄嗟に駆け寄っていた。海月の、細く、白い、腕を掴んだ。「そっちは危ないよ」と目をみて言った。


「うん、知ってる」

「じゃあ黄色の線より後ろに下がって。もうすぐ電車がくるから」

「また死のうとしてると思った?」


 少女のようなあどけない笑みを浮かべながらも、僕はその目の奥につめたさを感じた。海月の纏っていた空気が一瞬にして変わった気がしたのだ。


「響は残酷だね」


 か細く、消えいるような声だった。それを必死に掻き集めてなんとか文章を組み立ててはみたが、海月にどうしてそんなことを言われたのか僕には分からなかった。


「自分が生きる意味を見い出す方が難しいって感じたこの世界に、私を引きずり戻したの?」

「違う。僕は、そんなつもりじゃ」


 遠くの方から聴こえてくる電車の走行音と、蝉のあげる産声がひどく不快に感じた。


「分かってる。響は仮に本気でそう思っていたとしても、心の奥底ではどこかでまた希望を抱いてるはず。この世界は、そんな世界じゃないはずだって。いつか、生きていて良かったと思える日がくるんじゃないかって」


 僕は何も言い返すことが出来なかった。あんなことを考えていながら一度も死のうとしたことはない。その勇気が無かったから。それに、海月の言う通りどこかで希望を抱いていたのかもしれない。


「もう二度と、私の前でそれを口にしないで」

「分かったよ。僕が悪かった。とにかくそこから今すぐ離れて。もうすぐ電車がくるから」


 既に二回目のアナウンスが流れていた。電車の走行音がどんどん大きくなっていく。手を伸ばした。昨日のように。海月はそれをみてから左手を持ち上げ、指先から順に僕の手と組み合わせた。海月の手は氷みたいにつめたくて、そのつめたさに導かれるように気付いた時には口走っていた。


「海月は、どうして死のうとしてたの?」


 それは、聞いてはいけないと思っていた。どんか事情があるにしろ死を決意する程の理由だ。僕から聞くのではなく、海月がその答えを提示するまで待つべきだ。きっとそう考えていたのは僕だけじゃない。静香も、拓馬も、昨日は誰一人としてその話題には触れなかった。なのに、どうして僕はそんなことを口走ってしまったのだと焦っていると、そんな僕の心配をよそに海月は笑った。


「一ヶ……あげ」


 ホームへと侵入してきた電車の轟音が海月の放った声を掻き消したせいで、ほとんど聴き取ることが出来なかった。


「なに? 全然聴こえないっ!」


 吹き抜ける風に負けないように、電車の放つ轟音に負けないように、声を張り上げた。


「一ヶ月あげる!」


 海月も僕と同じく、口を大きく開け声を張り上げた。夏のひかりが電車の窓ガラスに反射している為に、目を眇めながらそれをみた。ブレーキ音、それから空気が抜けていくような扉の開閉音へと続き、雪崩のようにそこから人が溢れ出ていく中、海月はそれに背を向けたままこう言った。


「今から一ヶ月。この夏が終わるまでに、私が死のうとしていた理由を見つけて」


 至る所で夏のひかりが泡みたいに弾けるその中で、海月は何よりも綺麗な笑みを咲かせた。

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