雛鳥たちの向かう先
カーテンの隙間から溢れた初夏の陽光が、僕の胸元から顔にかけてを強く照らした。寝る前にクーラーは付けていたはずだが、陽の光を浴びて体温が上がったのか、寝間着に使っているシャツは汗で張り付いていた。アラームが鳴るより先に目を覚めしたのは、それが原因だった。
とりあえずシャワーを浴びよう。
心の中でそう呟き部屋をあとにした。一階まで降りると、母が朝食の用意をしてくれていて、テーブルの上には既にトーストとサラダが並べられていた。
僕のことをちらりと見た母は、「ご飯もうすぐ出来るから早く座りなさい。」と言ってテーブルに視線を送る。
僕は先にシャワーを浴びると母に告げ、急いでお風呂場へと直行した。時間もないので水でさっと身体だけを洗い流し、身支度を一通り終わらせてからテーブルへと戻った。先程のメニューにスクランブルエッグとソーセージが追加されていた。
椅子に腰を下ろしたあと、フォークでスクランブルエッグを掬い上げトーストと一緒に口に運ぶ。向かいに座る母は、コーヒーを啜りながら携帯に指を滑らせていた。
咀嚼音に混じって、明るい声が鼓膜に触れる。
テレビの向こうでは、笑顔を貼り付けたお姉さんが今週の天気予報を涼しげな表情で読み上げていた。僕はトーストを咀嚼しながら、ぼぅっとそれを見る。今週はずっと晴れマークが続き、気温はまだまだ鰻登りに上がるらしい。夏がくれば、待ってましたと言わんばかりに太陽はやる気を出すが、少しは手を抜いてくれたらいいのに。
そんなことを切に願っていると、顔をあげた母が唐突に口を開いた。
「あっそうだ。お母さん、今日は練習があって遅くなるから一応カレーは作っておくけど、ちゃんとサラダも食べるのよ?」
「……分かった。」
僕は蚊の鳴くような声でぽつりと言った。
母は今年の春からチェロ奏者としての活動を始めた。僕が生まれる前は本気でプロを目指していたが、子育てを優先する為に一度は夢を諦めたらしい。
母がもう一度夢を掴もうと決意したのは今年の初めのことだった。僕の入学する高校が決まった日、母は自分のことのように喜んでくれていた。
そんな母に対して父はこう言った。
「響も高校生になるってことは自分で考えて人生を歩める年だ。子育ては落ち着いたことだし、また夢を追いかけてもいいんじゃないか?」
あまりにも唐突の発言だった為に、少しの間母は固まっていた。でも、次第にその言葉が心に染み渡ったのか「…ありがとう…ありがとう…。」と言って何度も父に頭をさげていた。
目を潤ませた母をみて、僕ももらい泣きしてしまったことを覚えてる。
あの時は、心から応援しようと思った。
いや、今だって応援はしてる。
ただ、夢に向かって真っ直ぐに歩む母の姿は僕にはあまりにも眩すぎて、時々目を背けたくなる。母の夢を、夢に向かおうとする姿を。
僕には、何もない。
将来したい仕事も、やりたいことも、何一つ。
遠い未来の目標を描けないのは、今日一日ですら描けないからだろう。
「ちょっと、響聞いてるの?お父さんも遅くなるみたいだし、戸締まりもちゃんとするのよ。」
「うん、分かったよ。じゃあ練習頑張って。」
シンクへ食べ終えた食器を運び、その足で玄関へと続く扉を開けた。
「……行ってきます。」
家の中に置いてきた小さな声は、母にどんな感情を灯したのだろう。まだ大人には到底なりきれない僕にはその考えが及ばなかった。
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