第2章 サラリーマン、都心のど真ん中に引っ越す

 東京で新生活を迎えた北川博志の社会人1年目は、仕事と東京での暮らしに慣れるのに精いっぱいだった。職場では「営業企画部」に配属され、主に医薬品を病院に卸す業務だった。さらに経験を積んだ社員は、個人経営のクリニックを中心に経営コンサルティング業も行っていた。親身に付き合って、数ある卸業者のなかから医薬品の注文を勝ち取ろうという狙いだ。コンサルティングを行うためには、社内資格である「コンサルマスター」を得なければいけなかった。資格試験を受ける条件として「入社3年以上」というものがあるため、博志はまだ医薬品を卸すだけの外回りを行っていた。

 営業企画部には博志の同期が1人いたが、1年も経たずに退職してしまい、同じ部署には同期がいなくなった。しかし他部署には10名ほどの同僚がいたため、「同期会」と称して定期的に集まっていた。

 初めて同期会を開催したときに、横に座った女子社員がどこに住んでいるのかを博志に尋ねてきた。

「東久留米だけど」

「へ? 九州から来てるの?」

 女子社員は素っ頓狂な声で驚いた。彼女は千葉県野田市で生まれ育ったそうだが、東京都から出てしまうと東久留米の知名度は著しく低下するようだった。

 仕事から家に帰ると、博志は学生時代と変わらずテレビ番組をチェックしていたが、番組のおもしろさだけで言えば、関西のほうが圧倒的に上だった。東京は情報番組がほとんどで、お笑い芸人が中途半端にかわいい女性タレントに交じって、つまらないコメントを連発しており、芸人としてのプライドがないのだろうかと、博志は関東のお笑い芸人に厳しい評価を下していた。そのうち真剣にテレビを見なくなってしまい、休日はもっぱら平日の仕事疲れを癒すために眠る日々が続いていた。

 東京での新しい自宅は西武池袋線東久留米駅から徒歩20分のところにある。ただし、「徒歩20分」とは不動産チラシ的な時間であり、実際には信号で引っ掛かったり、駅のホームにたどり着くまでに2分ほどかかるので、「徒歩25分」と表現したほうがより正確だった。晴れた日は自転車で駅まで通勤し、雨の日はバスに乗るか歩くことにしている。ただし、バスが時間通りに来ることはめったにないので、雨の日はたいてい徒歩で駅まで向かっていた。自転車を駅前の月極め有料駐輪場に預ければいいものを、毎日乗るわけではないからと駐輪場横のコンビニエンスストアに停めて会社に向かったら、その日のうちに撤収されてしまっていた。引き取るのに1500円かかってしまい、その翌日に駐輪場の定期契約を申し込んだ。今のところ特にトラブルはなく、自転車通勤を苦痛に感じることはほとんどない。

 大阪府豊中市出身の博志が上京したてのころは、周りがほぼ全員標準語のイントネーションであることに寒気すら覚えたが、3ヵ月もすれば気にならなくなり、1年も経てば博志自身からも関西弁がほとんど抜けてしまった。ときどき、どぎつい関西弁を話す男性に出会うことがあるが、「ちゃいまんがな」とか「しておくれやす」などと、関西に住む関西人でもほとんど使わないような関西弁を大げさに話すので、「だから東京の人が関西弁に対して間違った印象を持ってしまうのだ」と、東京で大げさな関西弁を話す関西人に嫌悪感を抱いていた。

 社会人生活も2年目となり、博志が所属する営業企画部には2名の新入社員が配属された。会社全体の男女比が8:2なので、端から女性社員が来ることはないと諦めていたが、それでも営業企画部全員が男性という現実を思い返すたびに博志は吐き気を催しそうになった。上京して、社員と自分の母親以外の女性とまともに話したかどうかも思い出せないほど、女性とは縁のない日々を送っていた。仕事に精いっぱいの毎日だったので、特に彼女が欲しいと思ったことはなかったが、先日大学で同じゼミだった友人が、彼女を妊娠させてしまったが結婚すべきかと電話で相談を持ちかけてきたので、それ以来、「そもそもオレには彼女すらいない」と虚しさを感じるようになった。

 恋人を孕ませた友人には「どんな形であれ、責任は取るべきである」と誰もが答えそうな意見を伝えたが、自分は「できちゃった結婚」だけは絶対にするまいと心に誓った。

 博志は自分でもオクテなほうだとは思っておらず、今までも異性とお付き合いをした経験はある。しかし、自然消滅だったり、真剣に好きだったのにあらぬ浮気の疑いをかけられて二度と会ってくれなかったりと、酸いも甘いも経験して、現在彼女いない歴3年という状況だ。

 今は恋人が欲しいとはそれほど強く思っていない博志でも、将来一度は結婚したいと思っている。それが今である必要はないが、せめて若いうちにもう一人ぐらいは異性と付き合いたかった。異性と付き合っている時に自分の存在価値を最も感じられる気がしたのだ。

 博志が「彼女が欲しい」というオーラを放っていたのかどうか、恋人がいない虚しさを感じるようになって程なくして、合コンに誘われた。社会人になってから合コンに行くのは初めてのことだった。

 吉岡将太という、SEとして活躍している同期会の男性が5対5のバーベキューコンパに参加しないかと誘ってきたのだった。博志はアウトドア系が苦手で、中学1年生の学校行事でキャンプをし、クラスのみんなでカレーライスを作ったときに、飯盒炊さんの煙が目に入って痛くなってから、キャンプはしたくないと思っていた。カレーライスが完成してみんなで食べようというときにも、灰が風で飛んで博志の皿にひらりと舞い落ちて、カレーが食べられなかった。隣では担任の教師たちがバーベキューをしていたが、血気盛んな男子どもが肉をほとんど平らげてしまい、一方で不人気の野菜は黒焦げになってしまって、博志はほとんど何も食べることができなかった。なんでこんなつらい思いをしてまでキャンプをせにゃならんのだとブツブツ言いながら、巨大なテントに10人ぐらいのグループが寝袋で雑魚寝をすると、蚊をはじめとした虫たちがたくさんテントの中に入ってきて、博志は数ヵ所刺された。初夏のころで長袖では暑く感じられる季節なのに、風呂にも入れずシャワーすら浴びられなかったので、博志は体が気持ち悪く感じられてほとんど眠れなかった。それ以来、キャンプやバーベキューからは縁遠い日常生活を送っていた。

 今回も最初は吉岡が「バーベキューに行こう」と誘ってきたので断っていたが、じつは合コンだと知り、手のひらを返すように参加を表明した。いい加減、仕事関係や家族以外の異性と会話がしたくなってきた。「バーベキュー」というのが引っかかるけれど、女の子と話せるなら少しは我慢しようと博志は意欲的になっていた。

 合コン当日、車3台で出かけることになっていた。参加者はみんな20歳代前半の同年代なので、マイカーを持っている者は少なく、1台はレンタカーだった。ホスト役となった男子側の吉岡と今井範子という女性が大学時代からの知り合いらしく、この2人がバーベキューをしようという話になり、どうせなら合コンにしないかと今回の夢のような企画が実現したようだった。吉岡と今井以外は全員初対面なので、早く打ち解けてもらおうという吉岡と今井の計らいで、吉岡と今井の2人が車1台を使い、後の2台に4人ずつ乗車することになった。博志は普段外回りの仕事で運転慣れしているからと、レンタカーの運転手を務めることになった。

 バーベキュー会場は荒川の河川敷で、メンバーはムサシファーマシーがある池袋で集合し、博志は先にレンタカーを借りてから集合場所へ向かった。集合場所で全員が自己紹介をし、男女がうまく半々になるように分かれ、博志が運転するレンタカーの助手席に座ったのは奈良祐子という同じ年齢の子だった。埼玉県志木市出身で都内の4年制大学を卒業後、現在勤務する会社に就職、今は姉と2人で都内に住んでいるとのことだった。祐子は5人の中で一番の美人というわけではないし、博志の好みのタイプでもなかったけれど、整った顔立ちだし歯並びがきれいだし、笑顔が特にかわいらしく思え、博志は「当たり」だと思った。博志は適当に話題を振っていたが、奈良祐子が食いついてきたのは最近注目のテレビ番組の話題で、その後も子供のころによく見たアニメの話などで盛り上がった。テレビの話題以外にも他愛のない話が続いた。

「埼玉県民なのに奈良なんだね」

「ホントだねー。先祖は奈良県民だったかもしれないけどね」

「オレは奈良の隣の大阪府生まれだよ」

「へえ大阪の人なんだ。それなのに『だよ』って言うの?」

「え? あ、ちょっと気をつかったかな」

「なんで気をつかうの? 大阪の人って大阪弁丸出しのイメージがあったけど。『でんがなまんがな』とか」

「そんなこと、大阪人でもほとんど言わないよ」

 合コンの滑り出しは至って順調のようだった。

 バーベキュー広場がある荒川に到着しても、博志は奈良祐子と話しながら準備をしていた。しかし、男子は重い荷物を運び、女子は食材を切るという役割に分かれると、奈良祐子とは少し距離ができてしまった。バーベキューの経験がほとんどない博志は、荷物を運ぶことはできても、それ以降の火を起こす作業やテント張りは、後ろから見ているだけだった。

 ようやくバーベキューを始められる状態になり、肉や野菜を焼き始めると、博志の立つ位置が風下で煙にさらされているような気がして、博志は立ち位置をいろいろと変えてみたがまったく効果はなく、まるで煙が博志についてきているかのようだった。食材はそれほど高級なものではなかったので、肉はゴムのように伸びてなかなか噛みきれなかった。野菜類も網の真ん中に置くとあっと言う間に焦げてしまい、誰も手をつけず、端に追いやられて、最終的には残飯として処理された。運転手役だからアルコール類を飲むわけにもいかず、食も進まなかった。紙皿に入っている焼肉のたれは、博志のものだけ何の食材もつけられることがなく、きれいな状態が保たれていた。博志は、煙が目に入るし衣服も煙臭くなるしで、合コン相手の女の子と話すよりもこのバーベキューの状況をどうにかしたかった。

 中1のときに味わった煙による目の痛みを約10年ぶりに味わってしまい、女の子に話しかけられても上の空だった。ろくに食べ物にもありつけず、ゴムのような肉は食べる気がしなかったので、家に帰ってしっかりとご飯を食べ直そうと気持ちを切り替えて周りを見渡すと、男4名、女5名で盛り上がっているような気がして、博志は輪に入って行けなかった。河川敷に向かうまでの車中で奈良祐子と会話したのが、今回のコンパでの博志のハイライトだった。

 夕暮れに差し掛かり、そろそろ河川敷を後にしようかと片づけをし、行きと同じメンバーが同じ車に乗って帰ることになった。五月雨解散することになっていたので、別の車に乗っている女子とはほとんど会話ができなかった。同じ車でも後部座席に乗っている女子とは挨拶程度しか言葉を交わさず、後日フルネームすら思い出せなかった。途中で後部座席の2人が続けざまに降りたので、博志は奈良祐子と二人きりになった。 

「レンタカーは池袋で返すんだけど、よかったら家まで送るよ」

「あ、じゃあ近くまでお願いしようかな。中井ってわかる?」

「うん、西武新宿線でしょ?」

 中井は帰り道ではなかったし、今日のコンパでは奈良祐子以外の女性とほとんど話すこともなくて、二度と会うこともないだろうから池袋で解散しても良かったが、唯一話した女性と二人になったのだから、せめて家の近くまで送るのが男としての礼儀かと思った。

「北川くんは今日は楽しかった?」

「楽しかったけど、ほとんど女の子と話せなかったかな」

「あ、そうなの? 私とはけっこう話したんじゃない?」

「うん、奈良さんとしか話していない気がする」

「そうなんだ。もったいない……」

「奈良さんはいいなと思う人、いた?」

「さあどうでしょう。特にアドレス交換したりはしなかったけど」

「え、そうなの? じゃあ、成果なしじゃない?」

「まあそうなるのかなあ。別に連絡先を交換しなくても楽しく会話ができたから、それなりに満足なんだけどね」

「なんだったら、オレとアドレス交換する?」

「うん、いいよ」

 こうして奈良祐子と連絡先を交換できたことは、今回のコンパで唯一、そして最大の成果かもしれなかった。祐子が博志の携帯電話を取って、赤外線で互いの情報を交換し合った。

「私、じつは大阪に1回しか行ったことがなくてね。北川くんが大阪人ってわかって、いろいろ大阪のこととか奈良のことを聞いてみたかったんだ」

「奈良? どうして奈良なの?」

「いや…私の苗字が奈良だから……」

「あ…そうか。でもオレ、奈良はほとんど行ったことがないなあ」

「そうなの? 奈良公園のシカって近くの民家のインターホンを押すって本当?」

「ハハハ、それはウソでしょ。観光客の近くに来て頭を下げることはあるらしいけど」

「なにそれ。おもしろい! 今度見てみたい!」

「じゃあまた機会があったらみんなで行こうか」

「そうだね! うわあ、楽しみだなあ」

 実際には奈良祐子と奈良公園へ行くことなんてあり得ないだろうけれど、助手席で前を見つめながら、奈良行きを思って目を輝かせている彼女を見ていると、その願いを叶えてあげたくなった。

 中井駅の近くで奈良祐子を下ろし、池袋でレンタカーを返して、博志は東久留米まで電車で帰った。家に着いて、奈良祐子が教えてくれたメールアドレスに無事に帰宅したこと、また奈良県について話をしようという内容のメッセージを送った。このメール送信には、奈良祐子のメールアドレスがブロックされていないかを確かめる意味もあったが、メールがはじかれることはなかった。3分ほどで返信があり、「私も楽しかったよ! 特に行きと帰りの車の中が」と書かれていた。久しぶりに会社以外の女性と話をして、とても満足のいく1日だった。衣服は煙臭かったが、気にならなくなっていた。

 翌日、出社して合コンに参加したメンバーで昼食をとろうという話になった。ホスト役を務めた吉岡が、「誰が一番かわいかったか」というお題を出し、3人が同じ女の子の名前を挙げた。確かにその子は博志も美人だと思ったが、何せ一度も言葉を交わしていないので、気に入りようがなかった。博志の順番になり、彼は正直に「あまり話ができなくて、奈良さんという子とだけよく話した」と言い、合コンを盛り上げられなかったことへの反省の弁を述べた。すると最後に吉岡が「オレも奈良さんが一番良かったな。誰とでも話ができるし、ずっとニコニコしてたからなんかいいなあって」と、奈良祐子が気に入っていることを宣言した。

「ただ、連絡先が聞けなかったんだよね。ノンちゃんに頼んで教えてもらおうかな」

 博志は胸のざわつきを覚えた。ちなみにノンちゃんとは、女子側のホスト役を務めた今井範子のことである。

 午後から外回りの仕事だったので、博志は同僚たちと別れて営業車が停めてある駐車場へ移動した。移動しながら、携帯電話で奈良祐子にメールを送った。

『今、昼休みが終わってこれから外回りです。奈良さんはどんな仕事してるんだっけ?』

 奈良祐子からの返事は夕方だった。

『食品メーカーの人事部で働いているよ。1年中採用のことばかり考えてる感じ』

 仕事中にメールをする博志のほうが悪いのだが、なかなか返事が来ずに仕事が手につかないほどだったので、返信があったときは無性にうれしかった。昨日の時点では、好感は持ったが好意までは抱いていなかったのに、思わぬライバルの出現になぜか「彼女を他の男には渡せない」と、まだ自分の恋人でもないのに先手を打った形だ。博志は、「連絡先を知っているこちらはお前よりも数歩リードしているぞ」と、吉岡の顔を思い浮かべながらバックミラー越しの自分と目が合ってニヤッとほくそ笑んだ。

『たいへんだねえ。ところで今週どこかで会いませんか?』

 博志はいつになく積極的になり、返事があってから数分も経たないうちに奈良祐子をデートに誘うメールを送った。その後数時間返信がなく、ちょっとフライングだったかと後悔したが、夜7時ごろに返信があり、また博志の心が躍った。

『いいよー。金曜の夜だとうれしいな』

 それからは金曜になるのが待ち遠しかった。そしてようやく金曜になり、社会人になってから一度も味わったことのない清々しい朝を迎えた。ルンルン気分で出社すると、吉岡とすれ違った。思わず博志は真顔になったが、吉岡は博志の表情の変化などまったく気にしていない様子で話しかけてきた。

「おっす。ところで北川ってさ、祐子ちゃんと連絡取ってるの?」

 吉岡はなぜ、奈良祐子のことを「祐子ちゃん」と呼んだのだろうか。月曜日は「奈良さん」だったはずだ。まさかもう連絡先を聞き出して、食事に行き、お互いを下の名前で呼び合う仲になったのだろうか。

「連絡は取ってないけど……なんで?」

 博志は咄嗟にウソをついた。

「取ってないなら良いんだけどさ。連絡先はノンちゃんから教えてもらって電話したんだけど、出てくれないんだよ」

「そうなんだ。電話ぐらい出てくれてもいいのにね」

 博志は吉岡に同情するような言葉をかけたが、心の中ではガッツポーズをしていた。それにしても、いきなり電話をかけるとは吉岡も大胆なことをする男だ。これは今後、奈良祐子争奪戦の要注意人物になるかもしれないぞと、博志は吉岡への警戒レベルを引き上げた。奈良祐子が吉岡からの電話に出ない理由はよくわからなかったが、これがもしメールだったら返事をしているのではないかと思い、現時点での吉岡と奈良祐子の距離の遠さには決して安堵できないと気を引き締めた。

 仕事を月曜日に持ち越さないように金曜日は残業することが多かったが、今日ばかりは仕事が終わらなくても定時で退社するつもりだった。結局、1時間ほど残業すれば終わりそうなほどの仕事が残ってしまったが、今日残業するぐらいなら月曜日に1時間早く出社すればいいと気持ちを切り替え、退社した。

「今日は仕事よりも大事なイベントがある!」

 ビルを出るときに吉岡とすれ違い、博志は心臓が止まるかと思うほど驚いた。

「おう、お疲れー」

 吉岡のあまりにも普通の挨拶に、拍子抜けしそうになったその刹那、博志は安堵感に包まれた。

 奈良祐子の職場は新宿駅西口にあったので、待ち合わせは、新宿駅の隣にある小田急百貨店の前で18時30分と約束した。博志は10分前に待ち合わせ場所に到着したが、そこにはすでに奈良祐子の姿があった。

「あれ、早いね。だいぶ早く来たかなと思ってたのに」

「私も思ったより早く来ちゃってさ。それに人を待たすのも嫌だし」

 彼女は根が優しいのだと、博志はさらに好感を持った。

 博志は近くの個室居酒屋の予約を取っていたので、奈良祐子を連れてまっすぐ店に向かった。

 バーベキューのときは車の運転があったので、アルコールは1滴も飲めなかったが、今日は心置きなく飲むことができる。とは言っても、元々博志はあまり飲める口ではなかった。奈良祐子も酒はたしなむ程度のようで、最初は博志に合わせて生ビールを注文したが、2杯目からは梅酒やカクテルが中心だった。

「奈良さんってさ、休みの日は何してるの?」

「お姉ちゃんと一緒に住んでるから、2人で行動することが多いかな。でもお姉ちゃんは彼氏がいるから、一人で出かけることも多いよ」

「奈良さんは彼氏いないの?」

「いたらコンパなんて行かないよ。博志くんは彼女いないの?」

「おったらコンパなんか行きまへん」

 博志は意識的に大げさな関西弁でおどけて見せた。つい去年までは、意識しなくても関西弁だったのに、いつの間にか少し考えないとしゃべることができなくなっていた。奈良祐子は「あ、関西弁が聞けた」と笑顔になった。

「奈良さんはお姉さんとどこに出かけるの?」

「私ね、サッカー観戦が好きなんだ。だからよく2人で見に行ったりもするよ。博志くんはサッカー見ないの?」

「そうだなあ。サッカーは日本代表の試合をテレビで見るぐらいかな」

「じゃあ今度一緒に行こうよ! 楽しいよ」

「奈良さんはどこのファンなの?」

「特別ここを応援しているっていうチームはないんだけど、地元が埼玉だから、埼玉のチームは応援しちゃうかな。博志くんも地元のチームは応援したくなるでしょ?」

「うーん、どうだろう……え?」

 博志は、いつの間にか奈良祐子が自分のことを「博志くん」と呼んでいることに気づいた。

「え、何なの?」

「ああ、なんでもない……こともないか。あのう、Jリーグで応援しているチームはないんだけど、奈良さんのこと『祐子ちゃん』って呼んでいい?」

「ぷっ! 何それ。全然関係ない話じゃん。でも博志くんってずっと私のことを『奈良さん』って言うから、距離を置いているのかなあって思ってた」

「いやいや、そんなことないって。ガンガン行ったら逆につきまとわれてるって思うでしょ?」

「うーん、どうだろう。人によるかな」

「そう言えば、オレ以外にもコンパ連中から祐子ちゃんに連絡があった?」

「らしき人から電話がかかって来たけどね。ノンちゃんが連絡先教えてもいいかって聞いてきたからオッケーしたんだけど、相手の連絡先を聞いてなかったから、違ってたらいやだなと思って出なかった」

「誰かわかってたら出てた?」

「そうだね。出てたかもね」

 吉岡の致命的なミスは、自分の連絡先を伝えなかったことだ。やはり合コンで知り合った女性はいきなり電話をかけるよりもじわじわ攻めるに限ると、そんなに合コンに行ったことがないくせに博志は妙に自分の作戦に自信を持った。

 博志の中で、祐子に対しては高い好感度を保っていたが、吉岡が狙っていると知ってからはいつの間にかそれが好意に変わっていた。しかし祐子のほうは、博志のことをまだそこまでの男として見ていないだろうと予想し、今日は頃合いの時間になったら解散したほうがよさそうだと思った。

 博志は祐子と合コンの移動時に盛り上がったテレビの話の続きをした。どうやら祐子も博志に負けないぐらいテレビっ子のようで、一週間の視聴番組を言い合って、二人で笑っていた。祐子はサッカー中継以外にもドラマやコント番組が好きなようだった。博志は巧みに言葉を操る漫才の掛け合いが好きで、大学で言語学を専攻したのもそれがきっかけと熱を込めて説明したが、祐子にはあまり響かなかったようで、博志のオチのない話が終わると同時にトイレに行くために立ち上がった。

 時計を見ると短針が「11」を差そうとしていた。博志は祐子が戻ってくるまでに会計を済ませた。仕事で医師を接待する際にさりげなく会計を済ませておく癖が祐子とのデートでも出ることになった。しかし、戻って来た祐子は頑として割り勘を譲らず、会計は8500円だったが博志は7000円だったとウソをついて、3500円を受け取ることにした。

「年もタメなんだし、博志くんにおごられる理由がないよ」

「こんなオレのために時間を作ってくれたので」

「かー! 気障なこと言うねえ。関西人ってロマンチストなの?」

「いや別にそういうわけじゃないけど」

「じゃあ今度はもっと私に関西弁でしゃべってね」

「うん、いいよ。じゃあ今度はいつにする?」

「いつでもどうぞ」

「じゃあ明日とか?」

「明日? 明日か……。どうしようかな」

「先約があるの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「それやったら明日でもええやん」

 ついさっきまで、じわじわ攻めるに限ると自信を持ったくせに、今はガンガン行くべきだと博志は関西弁を交えて攻めまくった。吉岡にだけは取られまいと必死だった。

「あ、関西弁が出たね。わかったよ。じゃあ明日サッカー見に行こう!」

 博志の押しに祐子は屈したようだった。明日のデートの約束も取り付け、博志は合コンのときよりも大満足で東久留米まで帰った。酒の酔いも回っていたからか、電車の中にいる人たちに「オレ、明日もデートなんスよ」と自慢したくなった。


 アルコールが入った翌日はだいたい寝起きが悪かったが、今回だけは平日よりも早く目が覚めた。体はちょっとだるかったが、これからの予定を考えると心が弾んだ。

 祐子とは西武新宿線の中井駅で11時に待ち合わせた。祐子と初めて会ったのはつい先週の話で、今日はまだ3回目だったが、もう何ヵ月も前から知り合いのような感じがした。祐子は赤を基調にしたサマーセーターを着ていた。まだ夏と言うには早い季節だったが、「スタジアムは熱気がすごいから」と薄着の理由を教えてくれた。

 スタジアムの最寄り駅である浦和駅だと混雑している可能性があるからと、中井駅周辺で早めのランチにした。土曜日だったがまだ昼食には早い時間だったので、どのレストランも空いていた。

 博志は浦和へ行くのが初めてだったので、中井駅から浦和駅までは祐子についていく形になった。1時間ほどの移動だったが、祐子との会話が弾んであっと言う間に感じられた。浦和駅に近づくにつれて、赤いユニフォームを着た乗客が増えてきた。浦和を本拠地とするサッカーチームの応援は熱狂的だということは、サッカー音痴の博志でも知っていた。

「そういえば祐子ちゃんって埼玉出身だったよね?」

「そう。ダサイタマ」

「ハハハ。埼玉の話題になると、いつもそのフレーズを言うよね」

「うん、自虐的で気に入ってるの」

「こっちの人はあんまり自虐的じゃないイメージがあったけど」

「それは純粋な東京出身の人だけじゃないかなあ。東京に住んでるって言っても、私みたいに東京以外から来ている人のほうが多いらしいからね」

「じゃあ、自虐的なのは東京人じゃない、みたいな」

「勝手な私の推測、ね。埼玉とか千葉出身で東京に住んでる人は、どこか後ろめたさを感じながら『自分は東京人』と言っているかも。私も『どこに住んでるの?』と聞かれて、新宿区と答えるのに抵抗があるもん」

 関西でも神戸や京都に住む人たちが、「大阪人」とひとくくりにされることを嫌うというのは、博志もあるテレビ番組で聞いたことがある。大学時代に、京都から通っている友人に何かの拍子に「同じ大阪人やん」とつぶやいたら、「一緒にせんといてくれ!」とムキになられたこともあった。

 東京に住む埼玉や千葉出身の人が、後ろめたさを感じながら東京人と名乗っているということに興味を覚えた博志には、関東も関西も関係なく隣接県には複雑な感情を持つのだという新しい発見があった。

 浦和駅に着き、近くのショッピングモールで試合を見ながらつまめるお菓子などを購入した。祐子はトイレに行き、出てきたらユニフォーム姿になっていた。先ほどまでのサマーセーターは身体のラインがわかるぐらいの密着した感じだったが、ユニフォームは少しゆとりのある大きめのサイズを着ているようで、ずいぶん違った雰囲気に見えた。博志は祐子の新たな一面を見た気がして、ちょっとドキドキした。

「博志くんもユニフォーム着る?」

「え? もう一着持ってるの?」

「持ってないけど、買うのかなあって」

「じゃあせっかくだから祐子ちゃんとペアルックということで」

「いいねえ。じゃあそこのお店へ買いに行こう!」

 祐子は本当に何度も観戦に訪れているようで、店の位置も把握しており、一度も立ち止まることなくたどり着いた。博志が買ったユニフォームは、現在チームが使用しているもので、祐子は1つ前のデザインだったため、厳密にはペアルックではなかったが、それでもユニフォームを着てスポーツ観戦をすること自体が初めてで、しかも気になる女性と(ほぼ)同じ格好ということで、博志は試合前から満足だった。

 試合ではホームチームがゴールに近づくたびに、スタジアムがものすごい歓声に包まれていた。祐子はルールや選手にも詳しく、博志が質問しなくてもテレビの解説者のように逐一教えてくれたが、歓声にかき消されて聞き取れないことも多かった。試合はホームチームが勝利し、試合が終わっても多くのファンがスタジアムに残っていた。祐子も立ち上がってグラウンドのほうに拍手を送り続けており、まったく帰る素振りを見せなかったので、博志も一緒に立って拍手をしていた。

 残っていた観客もぞろぞろと帰り始めたころ、祐子の携帯電話から人気歌手のヒット曲が流れてきた。どうやら誰かから着信があったらしい。

「あ、この前と同じ番号。吉岡くんなのかな?」

 祐子は携帯電話の画面を見ながら博志に話しかけるでもなくつぶやいた。その言葉で博志は思わず祐子を見てしまった。祐子は携帯電話を持ったまま博志のほうを見つめ、「どうしようか」と言いたげな顔をしていた。

「出たら?」

 博志は本心とは裏腹の言葉を発していた。祐子は少し迷っていたようだったが、意を決したように通話ボタンを押して電話に出た。

「もしもし。こんにちは。うん、いいよ。今ね、友達とサッカーを見に来てるんだ。そう。夜もこれから友達とごはん食べようかなって。明日? 明日は……日曜だけど家の片づけとかしたいから、ちょっと無理かな」

 吉岡の話している声はまったく聞こえないが、祐子の言葉でデートに誘っていることがわかる。しかし、吉岡のいきなり会おうとする誘い方に、博志は吉岡があまりにも無計画ではないかと、ライバルながらも同情したくなった。その後も祐子は吉岡と電話で話をしていたが、博志は先ほど祐子が「夜もこれから友達とごはん食べようかなって」と言っていたのを思い出し、まだこれから自分と一緒にいるつもりなのだと気持ちが高ぶった。「彼氏」ではなく「友達」と言ったのは、まだまだ自分を恋人と認めてくれていないのだろうが、吉岡には何歩もリードしているという確信が持てた。

 やがて祐子は電話を切り、体温で曇った画面を手で拭いた。

「『今から会えないか』だって。無理って答えたら、『じゃあ明日は?』って」

「明日は忙しいの?」

「予定はないんだけど、2日続けて別の男の子と遊ぶのもなんだか軽い女みたいじゃない?」

「じゃあ、オレとだったら明日も会ってくれるの?」

「え? ああ……昼間だけならいいよ。月曜の朝が早いから夜はゆっくりしてたいし」

「ウソウソ。明日はお互いゆっくりしようよ」

 博志の本音は毎日でも祐子と会いたかったが、ライバル吉岡との祐子争奪戦には大きなアドバンテージがあるという自身から、祐子とは少しずつ距離を縮めていけたら良いと思った。

 スタジアムを出た2人は、試合観戦前にも訪れたショッピングモールへ行った。博志は少しでも長く祐子との時間を過ごしたくて、その口実に誘ったのだが、それ以外にも私服を購入しなければならないと思っていた。社会人になってから休日はほとんど出歩かなかったので、博志には洋服のストックが少なく、このままでは祐子と会うたびに同じ服で出かける羽目になり、祐子から「服装に無関心な男」とは思われたくなかったからだ。祐子と一緒に買いに行けば、同じ空間を共有できるだけでなく、祐子の服装の趣味もわかって一石二鳥だ。祐子の趣味は博志と大きく異なることはなく、博志が気に入った服を建前かもしれないが祐子も「似合ってるよ」と言ってくれた。

 2人は浦和駅から途中で西武新宿線に乗り換える高田馬場駅まで行き、そこで夕食を食べた。土曜日の夜の学生街でどこの飲食店も混んでいたが、目に入ったパスタ屋が待たずに入れそうだったので、そこでワインを飲みながらパスタを食べた。2人は浦和のショッピングモールのトイレで着替えたのですでにユニフォーム姿ではなく、博志は帰りの電車の中で数時間ぶりに見る祐子の私服姿に改めてかわいらしいと感じていた。パスタ屋でも博志はずっと祐子を眺めていたので、2人の間には沈黙が続いていたが、それを破ったのは祐子だった。

「そう言えばさ、博志くんはなんで東久留米に住んでるの? 親戚でもいるの?」

「いや、全然。ただ、不動産屋に勧められただけ」

「ふーん」

「なんでそんなこと聞くの?」

「珍しいところに住むなあって。大阪から出て来た人だったら、23区とかに住みたいんじゃないかと思ったからさ」

「実は23区に住みたかったんだけど、提示した条件では住めないって言われてさ」

「そうなんだ。どんな条件?」

「駅近で、新築で、2階以上で、角部屋で、家賃8万以下で、とかエトセトラ」

「家賃8万は無理だろうねえ」

「関西とは全然相場が違うんだね」

「埼玉とも違うよ。23区だけが異常に高いみたい」

「祐子ちゃんはどうして中井なの?」

「私はお姉ちゃんが住んでたから。お姉ちゃんは中野坂上というところで働いてるから、大江戸線で行きやすいっていうので。私の職場も新宿だから、ちょうどいいかなって」

「2人でも住めるような広さなの?」

「うん。お姉ちゃんは社会人になるときに一人暮らしを始めたんだけど、どうやらね、彼氏ができたら一緒に泊まれると思って、広めの部屋を借りたんだって。でも彼氏ができる前に私が住んでやった」

「ハハハ。お姉さんは嫌がらなかったの?」

「うん。そのときは彼氏がいなかったからさ。でも私が住みだしてからできたみたいで。ひょっとしたら出ていってほしいんじゃないかなと思ったりしてる」

「もしそうなったらどうするの?」

「うーん、一人暮らしできるところを探さないとダメだよね」

 博志は相槌を打ちながら、東久留米で祐子と一緒に暮らす生活を妄想してしまった。今の広さでも2人ならなんとか暮らせるのではないか、新築だし祐子もきっと気に入るだろうと現実的なことも考えたが、慌てて妄想をかき消した。

「もし探すんだったら、手伝うよ。オレ、間取り図見るのが好きでさ」

「ああ、なんかわかるかも。私も結構好きだったりするな」

 まだ恋人同士でもないのに「一緒に住もう」は禁句だと思った。

 パスタ屋を出て、二人は西武新宿線で中井駅まで移動した。博志はそこで祐子と別れ、地下鉄大江戸線に乗り込んだ。祐子を家まで送ろうと思ったが、祐子が「なんだかお姉ちゃんに会いそうな気がする」と警戒したので、素直に従った。

 練馬駅で西武池袋線に乗り換え、良いタイミングでやってきた小手指行き準急電車に乗った。車内は池袋からの乗客でほぼ満員だったが、博志はまったく気にならなかった。頭の中は祐子のことでいっぱいだったからだ。博志自身はもう祐子とは恋人関係にあると錯覚していた。祐子に今恋人がいるかどうか一度も確認していないが、姉と暮らしており、博志の翌日の誘いにも応じる状況を考えると、ほぼ「フリー」だと思われた。

 結局、翌日の日曜日は祐子とは会わず、メールのやり取りだけで過ごした。その後も毎日祐子とはメールをしていたが、次のデートに誘いだすことをためらっていた。博志自身はもう祐子のことを自分の彼女だと思っているが、祐子に真意を確認したことはないし、毎週出かけることで祐子の姉が祐子に男の影があると疑うのではないかという気遣いもあった。次の週末は結局誘うことができず、博志は「祐子ロス」のまま週明けを迎えた。

 月曜日に居ても立ってもいられなくなり、『今週どこかで会いたい』とメールを送った。祐子からは『いつでもいいよ』と返事があった。博志は火曜日の夜に食事に行こうと誘った。

 火曜日は仕事を定時で切り上げ、以前のように新宿西口の小田急百貨店前で待ち合わせる。今日は素面の状態で祐子を見ていたいと思ったので、定食屋に行った。祐子に会うのは約10日ぶりだったが、もう何年も会っていないかと思うぐらい久しぶりのような気がした。

 祐子とはほとんど雑談だったが、不意に祐子が「ねえ、私と吉岡くんのこと、気にならないの?」と尋ねてきた。博志はもう吉岡など眼中になかったので気にも留めていなかったが、祐子の口から吉岡の名が出た途端、一気に不安の帳に覆われてしまった。

「え? どうだろう。めっちゃ気になるけど、それほど気にもならないかな」

 博志としては今の自分の気持ちを正直に伝えたつもりだったが、祐子には理解不能の宇宙語のように聞こえたようだった。

「この前、スタジアムで電話がかかってからも何回か電話があるんだけどさ。私が全然誘いに乗ってこないから『彼氏いるの?』って聞いてきてね。私、めんどくさいから『実はいる』って答えちゃった」

 祐子の「彼氏がいる」発言に過剰反応し、実は恋人がいたのだと博志の思考は停止してしまった。

「あ、なんかまずかったかな?」

 博志は祐子のこの言葉も「実は恋人がいたのに、いないように装って博志と会っていたことがまずかったのかな?」と解釈してしまい、途端に食欲がなくなった。トイレに駆け込んで大声で叫びたくなった。

「もしも~し」

 祐子が博志の顔の前で手を上下に振っていることに気づくのに少し時間を要したが、博志の意識はようやく現実の世界に戻ってきた。

「ごめんね。私が変なこと言っちゃったから」

「ぜ、ぜんぜん構わないよ。祐子ちゃんはかわいいからモテるもんね」

「うーん、この前合コンに来てた友達のほうがかわいいと思うけど」

「いやあ、祐子ちゃんは性格もいいし、合コンでは一番人気だったよ」

「ほんとに!? それはうれしいけどさ」

「祐子ちゃんなら、幸せになれるよ」

「え? あ、ありがとう。博志くんも幸せになれるんじゃない?」

「オレは……。今はどん底ですよ」

「そうなの? やっぱり私が吉岡くんの話をしたから?」

 博志は祐子との会話がなんとなく噛み合っていない気がしたが、これも自分が平常心でいられないからだと思った。

「ていうかさ、祐子ちゃんはなんで合コンに来たの?」

 博志はどうせフラれたのだから、今までどうして祐子が自分と会おうとしていたのか、真実を確かめたくなった。

「え、それは……最近男の人と出会いがなかったから……かな」

 ということは、彼氏とは長い付き合いということか。マンネリ化した交際に新たな刺激でも欲しかったのだろうか。そうとも知らず自分は祐子のちょっとした火遊びに付き合わされていたということか。博志は、かわいさ余って憎さ百倍とばかりに、つい数分前まで恋心を抱いていた相手に敵意を見せ始めていた。

「それで、オレが誘った日はたまたま空いていたから来たってこと?」

「うん」

「オレじゃなくても良かったってこと?」

「今は違うけど、あの時点なら他の人からの誘いでもとりあえずオッケーしてたかも」

「罪悪感はなかったの?」

「え? 博志くんに対して? なんで?」

 祐子はとぼけているのか、単に鈍感なだけなのか。だまされる男はみじめなものだと、博志は自分を嘲笑いたかった。

「複数の男と会うことに対して、ってこと」

「ああ……まあ彼氏じゃないし良いかなって」

「そんな軽い気持ちで会われる男の身になったことある?」

「え? あ、ないかも。……ごめんなさい」

「別に謝ってほしいわけじゃない」

 博志は泣きたくなってきた。考えれば祐子と知り合ってまだ1ヵ月も経っていない。今日で会うのは最後になっても、未練は残らない……と思いたい。

「博志くんは真剣に付き合う相手を探してたってことだよね。たしかに合コンには気軽な気持ちで参加したけど、でも博志くんとは遊び半分な気持ちで会ってたんじゃないよ」

「でも本当の自分は隠してたんでしょ?」

「あ……それを言われると。だって博志くんには良く思われたかったし」

「そんなウソをついても、いつかばれるって思わなかった?」

「え……ごめん、『彼氏がいる』って言わないほうが良かった?」

 それまで直視できなかった祐子の顔を見ると、目に涙を浮かべていた。そんな演技までできてしまうとは、とんだ女狐だと博志は呆れかえった。

 しばらく沈黙が続いた後、祐子が口を開いた。

「吉岡くんもがんばって人集めしてくれたんだもんね。私ってひどいよね。そんなみんなの気持ちも考えずに適当に『彼氏がいる』なんて言っちゃって。博志くんは吉岡くんの苦労も知っているから、ウソをついた私が許せないんだよね。ホントにごめんね。もしかして先週会おうって言ってくれなかったのも、私が『彼氏がいる』ってウソをついたのを吉岡くんから聞いたから?」

 博志はだんだん話がわからなくなってきたが、祐子を恋愛対象ではなく単なる異性の友達だと思うことで徐々に落ち着きを取り戻し、現在の状況を整理する余裕ができてきた。

 どうやら自分は、同僚思いの人間だと祐子に思われているようだ。それに最重要ポイントとして、祐子には本当に恋人がいないようだ。ということはまだ自分には脈があるのか……。真相を確かめるなら今しかないと思っていると、祐子のほうが先に口を開いた。

「浦和で吉岡くんから電話があったときも、博志くんは『出たら?』って言ってたよね。あれは吉岡くんに失礼のないように、という意味だったんだね」

 博志の真意はまったく違ったけれども、自分のことを同僚思いだと思ってくれるならそれはそれで良いことだと、博志は「うん」と言っておいた。そうか、祐子にとって自分は単なる「良い人」なのだ。

「吉岡くんは、電話だと私がウソをついているかどうかわからないから、会って確かめたかったんだろうね」

 それも違うと思ったが、博志はそのままにしておいた。

「じゃあ今度、吉岡くんから電話があったら、『博志くんとイイ感じです』と伝えておくね。それとも私から連絡しておいたほうが良いかな?」

「どちらもされなくて良いと思います」

 博志には、祐子が放った「博志くんとイイ感じです」というフレーズがいつまでも耳にこだましていた。祐子は吉岡に恋人がいるとウソをついてまで断ろうとしているのか、それとも「博志とイイ感じ」というのは本心なのか……。

「そう? ま、でももう少し男の友情がわかるように努力します」

「じゃあ、その努力の一環としてオレと付き合ってください」

「え……? 何?」

「いや、同じことを2回は言いたくない」

「え、あ、本気で言ってるの?」

「それは、付き合ってほしいことか、同じことを2回言いたくないことか」

「ん? ああ、どっちも、かな」

「どっちも本気。オレは祐子ちゃんみたいにウソつきじゃないよ」

「それ、なんかひどくない? でも、博志くんの告白には『イエス』かな」


 博志にとっては人生最良の火曜日になった。今日告白するとは夢にも思わなかったが、思いがけず、しかもさりげない感じだとこんなに告白しやすいものかと思った。次に別の女性に告白する機会はないほうがいいだろうが、もしあったとしたら、またさりげなく告白しようと、博志の恋愛指南書に新たな教訓が刻まれた。

 今日が週末だったらもっとうれしかったのにと思ったが、それは「無い物ねだり」というものだった。明日も仕事だからと祐子とは地下鉄で中井駅まで一緒に帰った後、別れた。

 祐子とは知り合って1ヵ月も経たないうちに恋人同士になってしまったが、恋人が欲しいと思ってからこんなに早く成就したのも、実は吉岡のおかげかもしれないと感じられた。ついさっきまで恋敵だと思っていたが、今は祐子のイメージ通り、同僚思いの北川博志になっていた。祐子の取り合いに関しては自分に軍配が上がったが、吉岡も近いうちに素敵な出会いがあることを心から応援したくなった。でもしばらくは祐子と付き合うようになったことは吉岡には黙っておくつもりだった。


 二人は互いのことを「ゆうこりん」「ヒロくん」と呼び合った。最初祐子は「ゆうこりん」に嫌悪感を示していたが、博志がしつこく呼ぶのでそのうち何も言わなくなった。博志は親戚からも「ヒロくん」と呼ばれていたので、何の違和感もなく受け入れており、祐子がいつから呼び出しかもわからないほどだった。

 祐子との交際は順調そのものだった。職場が違うので、周りの目を気にしてこそこそする必要がない。平日はお互いに仕事で時間を作ることも難しかったので、会社の仲間との付き合いもほぼ参加できた。祐子と交際して2ヵ月ほど経ったころに吉岡が第2弾の合コンに誘ってきたが、博志はその日はどうしても外せない用事があり、楽しみにしていたけれど欠席せざるを得ないと、可能な限りの申し訳なさそうな顔で吉岡に断りを入れた。

「そうか、今回はまったく違うメンバーなんだけどな。そう言えば、前回のバーべキューコンパのメンバーとはつながってる?」

 吉岡から必ず聞かれると思っていたので、博志は事前に用意していた「いや、特に」という曖昧な返事をした。

「そうか、オレも祐子ちゃんに何回か電話をしたけれど、シカトされてるよ」

 諦めモードの吉岡を目の前にして、実は奈良祐子と付き合っていて「祐子ちゃん」ではなく「ゆうこりん」と呼んでいると言いたくなったが、祐子と博志の出会いは吉岡主催の合コンがきっかけだから、恩を仇で返すようなことはできないと黙り続けていた。

 交際開始から祐子とはほぼ毎週末に会っていた。祐子の姉が恋人を家に連れてくる目的で借りた家に祐子が住んでいるのだから、博志は祐子の姉に気をつかっているように見せかけて祐子を東久留米の自宅に誘えるのではないかと考えていた。しかし、祐子は駅から遠くて歩きたくないからと来たがらなかったし、祐子の姉の恋人も一人暮らしで姉が逆に恋人の家に入り浸っており自宅を空けることが多かったので、博志の自宅に祐子を誘う口実にはならなかった。いっぽうで博志は、祐子の姉が不在のときに家に上がったことがあり、祐子からも泊まって良いと言われたのだが、祐子の姉の生活の痕跡がある部屋で祐子と二人きりで過ごしていると、なんとなく姉に監視されているような気分になり、祐子たちの自宅で夜を明かすことにためらいがあった。

 そのため、二人はよく外に出かけた。博志は上京してからも休日は家でテレビを見ることが多く、あまり出歩かなかったため、1年以上住んでいても東京の地理をほとんど知らなかったが、祐子と付き合って行動範囲が広がり、街の位置関係などもわかってきた。博志はそれまであまり意識しなかったが、東京は大阪よりも不動産店が多いことに気づき、前を通るとつい立ち止まっていた。まるで散歩中の犬が電柱のにおいを嗅いでまわるように、数百メートル歩いては立ち止まっていた。祐子は嫌な顔一つせず、博志と一緒に不動産広告を眺めていた。

「ねえ、ヒロくんってさあ、そんなに間取り図を見るのが好きでこだわりがあるのに、住む場所にはこだわってないの?」

 ある時、不動産広告を眺める博志に祐子が質問をした。

「え? めっちゃこだわってるじゃん」

「ええ! じゃあなんで今のところはあんなに駅から遠いの?」

「それは優先順位が低かったから、かな」

「ふーん、私、駅から遠いの、やだな」

「はあ、そうですか」

 別に一緒に住んでいるわけでもないし、たまに博志が仕事で使っている営業車でドライブもして、ちゃんと祐子の家まで送っているのだから、博志の家が駅から遠くても祐子には関係ないのに、博志はおかしなことを主張する子だと思った。ちなみに、博志が休日に営業車を使っていることは会社には内緒だが、営業企画部のほぼ全員が休日に私用で使っているため、博志も祐子と付き合いだしてから使うようになった。マンションの敷地内にある駐車場には数台の空きがあり、駐車料金は月7000円だったので、1台分借りることにした。

 祐子が、駅から遠い家は嫌と言ったのはもしかして自分と一緒に住みたいからなのかと博志は考えたが、そこには論理の飛躍があるように思えた。万が一、一緒に住みたかったとしても、その話題を振ると結婚の話が出てきそうで、24歳の博志はまだ独身でいたいと思っていたのでそれ以上聞かずにいた。祐子もその時以降、博志の家に来たがらなかった代わりに、駅から遠いことの不平を言わなくなった。

 祐子と付き合うようになってから初めての冬を迎えた。昨年は東京の冬を一人で初めて迎えたが、関西よりも雪が多いことに驚いた。さらに朝は西の方角に富士山がはっきり見え、日常生活で富士山が見える関東の人たちは幸せ者だなと、特別富士山に思い入れがあるわけではないはずの博志は羨んだ。

 博志は、今年も「東京は雪が多い」と改めて実感していた。それは、博志が住む多摩地域に雪が積もったからだった。博志の実家がある豊中市も年に何回かは雪が降るが、積もることはほとんどない。そのため、博志は雪道を歩くことに慣れておらず、凍結した地面に足を滑らせて何度か転倒した。

 その日も強い寒波が日本列島に襲来して、博志が朝目覚めてカーテンを開けると、ここはスキー場かと思うほどの一面の銀世界で、さらにまだ雪が降り続けていた。出社準備をして家を出たが、マンションの正面入り口を出た途端、雪が数センチ積もっていて歩きにくかった。長靴を持っていないので、革靴で歩かざるを得ないが、1歩歩くごとに雪が靴の中に入ってきて、あっと言う間に靴下が濡れてしまった。自転車で行こうと思い、自転車の鍵を取りに戻って、自転車置き場から自転車を出したが、積もった雪に遮られてタイヤが回らず、ペダルを漕いでもまったく進まなかった。サドルをまたいで足で地面を蹴って進もうとしたが、ろくに地面を蹴ることもできず、自転車ごと転んでしまった。これでは歩いたほうが早く駅に着けそうだと自転車を諦め、再び徒歩に切り替えて最寄りのバス停まで歩いた。すると行列ができていて、並んでいた一人のおばさんが「当分来ないみたいですよ」と教えてくれた。博志はお礼を言ってその場を離れたが、あの親切なおばさん自身は当分来ないバスを待つのだろうかと不思議に思った。博志は仕方なく歩いて駅まで向かった。いつもの倍ほど時間がかかったが、それでも途中でバスに抜かれることはなかった。あのおばさんやその他並んでいた人たちは無事に目的地に着けたのだろうか。

 東久留米は数センチ積もっていたが、どうやら都心では雪は降っているものの、積もるほどではないらしい。同じ東京で数十キロしか離れていなくても、こんなに違うモノなのだろうか。電車も遅れており、始業時間までに着くことができなかった。博志以外にも遅れた社員がいたため、上司たちから特にお咎めはなかったが、祐子から『東久留米、たいへんだったみたいね。中井は雪が積もってなかったから、少し電車は遅れてたけど、ちゃんと会社には間に合ったよ』と、博志は祐子にまだ何も言っていないのに、まるで遅刻するのがわかりきっているかのようなメールが送られてきたので、博志はなんだかちょっと自分が住んでいる地域をバカにされているような気がした。

 仕事を終えて帰るときも東久留米駅周辺には解けかけの雪が残っており、博志は革靴を濡らしながら帰った。何度か滑って転びそうになったが、転ばなかった。朝は転んでいたのに、1日で自分は転ばない歩き方をマスターできたと一人喜んでいた。


 冬が終わるころ、博志が住むマンションの2年の更新を迎えようとしていた。博志にとっては初めての経験だった。ポストに更新の案内が投函されており、更新月は毎月の家賃に加えて、更新料として1ヵ月分の家賃を払うようにと書かれていた。現在の自宅は借り上げ社宅なので、家賃は会社が半分負担してくれている。更新料についても博志が入社する時には会社が負担するはずだったのに、博志が入社した翌年に半分自己負担と規則が改正されてしまった。会社の言い分としては、単身者が多くなるべく早い時期に家庭を持って借り上げ社宅をやめてもらいたくて、社員に負担させることにしたのだそうだ。博志は話が違うと抗議したくなったが、別の会社の人事部で働く祐子と仕事の話をした時に「家賃補助が少ないとかで相談してくる社員がいて、なんで人事部に聞くのってウザくて仕方がない」と、博志に八つ当たりしそうなぐらい怒っていたことを思い出し、抗議して煙たがられたら会社に居づらくなるかもと大人しく従った。

 実はこの冬に大雪を経験したことで、博志は雪の少ない地域への引っ越しを考えていた。都内での積雪は毎年あるわけではないが、それでも積雪があるたびに交通機関が乱れ、職場への通勤すら不自由さを感じる。悪天候以外にも、人身事故や車両トラブルなどで電車が遅れてしまうと、始業時間までに出社できないことがあるが、会社は遅延証明書があれば遅刻とみなさないとしていることに対して、博志はどこか腑に落ちないものを感じていた。例えば電車通勤ではなかったり、朝早く出社している従業員は、交通機関が乱れても始業時間には間に合っている。会社が住む場所を決めているのならまだしも、ほとんどの従業員はそうではないはずだ。普段は遅刻寸前の時間に出社し、電車が遅れると遅延証明書をふりかざして堂々と遅刻するのは、組織の一員としてやってはいけないことだと博志は思っていた。「迷惑をかけられたのはこっちだ」と遅刻者は言い訳するだろうが、そういう考え方を平気で表明すること自体が組織に悪影響を与えている事実に、彼らは気づかないのだろう。自営であればどこに住もうが、何時から働きだそうが自由だが、組織の一員である以上、決められたルールには従うべきで、それを了承したから入社したのではないのか。電車が遅れるたびに遅刻する従業員を見て、博志は面と向かって指摘することはなかったけれど、絶対にこんな人間にはならないと心に決めていた。それだけに積雪で出社時間が遅れたことが、自分としては許せなかった。更新月を迎えることだし、ここは更新せずに引っ越そうと考えた。

 祐子にも引っ越しの意向をメールで伝えた。

『賛成。どうせならもっと都心においでよ。私も行きやすくなるし』

 その後、1時間と経たず再び祐子からメールが来た。

『引っ越し先はどこにするか決めてるの? まだだったら、一緒に探してもいい?』

 自分は関西人でそれほど東京には詳しくないから、また不便なところを紹介されてはたまらない。博志はまさに渡りに船だと彼女の親切心がうれしかったが、実は祐子の姉が結婚することになり家を出ることになったので、祐子も引っ越さざるを得ない状況なのだった。

 祐子の姉・明実は、祐子より4歳年上で、祐子が家に転がり込むように同居し始めた直後に知り合った男性と1年半の交際を経て結婚することになった。博志は祐子と交際を初めて半年ほどだったが、その間に何度か明実と会ったことがある。初めて会ったのは、博志が休日のデートのために営業車で祐子の自宅まで迎えに行ったときだった。祐子の横に、祐子と背格好が似ている女性が立っていた。

「はじめまして、祐子の姉の明実です。北川くんに挨拶がしたくて」

 明実が自己紹介のときに見せた笑顔は祐子とそっくりだった。本当は挨拶ではなく、妹と付き合っている男がどこの馬の骨かを品定めに来たのだろうが、初対面の挨拶を無難にこなしてからは、「博志くん」「明実さん」と呼び合って、祐子を交えた3人で食事をするまでの関係になった。

 明実の結婚で祐子も家を出ないといけないということだったが、よく考えてみると、明実は結婚を機に家を出ていくのだから、祐子まで引っ越さなくてもいいのではないか。「同棲」という言葉に抵抗はあったが、祐子は中井の家に残って、そこに博志が明実と入れ替わりで住んでもいいのではないかと思った。

「たしかにそれも考えたんだけど、築30年以上経っているし、就職してからずっと住んでいて周りの人も顔見知りだし、お姉ちゃんが出て行ってヒロくんが入ってきたら、姉を追い出して男と住みだす貞操観念のない女なんて思われるかもしれないし、何よりも男子禁制だから」

 祐子は中井の家で一緒に住めない理由をまくしたてるように説明した。しかし、最後の「男子禁制」だけで理由としては十分なはずだった。どうしてそんなに祐子は言い訳がましく引っ越しをしたがるのだろうか。それにしても、祐子たちが住むアパートが男子禁制とは知らなかった。住むときに不動産屋から必ず説明があるはずだが、明実は聞き逃したのだろうか。それとも、将来的に男と住むかもしれないから広めの家を借りたというのは口実なのだろうか。何かを口実にして男と住むのであれば、まだわからなくもないが、男と住むことを口実にするぐらいの真の目的が果たして何なのか、ウブな博志にはまったく想像がつかなかった。

 それにしても、男子禁制のアパートに博志は何度足を踏み入れたか知れない。明実の婚約者も家に入っているようだったから、規則が緩いのか、偶然見つからなかったのか。あるいは見つかって出ていかざるを得なくなったのかもしれなかった。

「もしかして見つかった?」

「何が?」

「いや……なんでもない」

 博志の問いかけがあまりにも唐突で祐子は意味が理解できない顔をしていたので、博志は他の理由があるのだろうと忖度して、その場をとりなした。

「オレの家探しに付き添って、おまけにゆうこりんも引っ越すということは、一緒に住むってこと?」

 博志は、ここはうやむやにしてはいけないとストレートに質問をした。

「うーん、そう……なるかな」

 博志は「同棲ということは、将来的に結婚だよなあ」と話を結び付けたが、まだ24歳の博志に同棲・結婚は早いように思えた。周囲の友人でも結婚している男性はほとんどおらず、結婚とは別世界の話のように感じられた。

 祐子と付き合いだしてから、新たな一面を見ることもあったが、基本的には裏表のない女性のように思え、博志が背伸びをせずありのままで過ごすことができる存在だった。祐子も同棲を考えるぐらいなのだから、博志を生涯のパートナー候補として考えているのではないだろうかと、少しうれしくなった。

 博志は引っ越したい思いが強くあったが、同棲ということに少しためらいがあったし、会社の規定によると借り上げ社宅を会社都合ではなく引っ越す場合は、単身者でも補助が打ち切られることになっていたので、慎重になっていた。

 家を探すのは次の週末からになった。不動産店を巡ることで祐子をデートに誘う口実になるので、物件を即決する必要はないと思った。

 次の週末を迎える前にまず、どこに住みたいかを2人で話し合った。平日は仕事終わりで心身ともに疲れていたが、気力を振り絞って祐子と電話をした。勤務先は博志が池袋、祐子が新宿だ。祐子は新宿に近いところが希望だった。必然的に博志が現在住んでいる東久留米周辺という選択肢は消えた。一方、博志は23区内ならどこでも良かった。学生時代に抱いた自分の欲求を社会人になってからはずっと抑えてきたが、市外局番の「03」への憧れはいまだに持ち続けていた。上京してまさか市外局番が4ケタになるとは夢にも思わなかったので、いまだに「03」地域にこだわるのはその反動かもしれない。しかし、博志は上京してから一度も固定電話を引いておらず、携帯電話ですべて事足りているということにまったく気づいていなかった。

 関西出身の博志には東京の住宅事情はよくわからなかったが、うっすらと23区内でも特に山手線の内側は高いということはわかった。祐子は新しければ新しいほどいいが、建設時期が「昭和」でなければ特に住む場所にはこだわりがないようだった。

 博志は、練馬、中野、錦糸町あたりを候補に挙げた。家の条件として、新築はほぼ諦め、2階以上で2DKぐらいの間取りにしたかった。祐子に聞いてみると、練馬と錦糸町は却下されてしまった。博志は、場所にこだわりはないはずなのに却下する祐子が腹立たしく思えたが、きっと関西人にはわからない土地の事情があるのだと思い、努めて冷静に却下の理由を尋ねた。

「練馬は新宿に出るには中井より遠くなるでしょ。錦糸町は風俗街だよ。それに東側だから新宿も池袋も遠くなるよ。なんで錦糸町なの?」

 祐子から逆に質問されることになってしまった。

 博志は先日、何気なく見ていたテレビのニュース番組で、東京タワーに代わる「新東京タワー」の建設計画があることを知った。建設地の候補としてさいたま市や東京都墨田区などが誘致に立候補をしているらしい。錦糸町は墨田区だから新東京タワーが誘致されたらご近所さんになる。新宿にも総武線で1本で行けるので便利だと思った。

「新東京タワー? なんじゃそれ」

「いつできるのかは知らないけど、墨田区に誘致されるなら近くに住めたら良くない?」

「何が?」

「いや、だんだんタワーが高くなっていく様子とかさ……」

 祐子は、世界的な観光スポットになる可能性のある建造物が徐々に建って行く様子を眺めることなどには興味がないのだろうか。博志はもう少し粘ってみた。

「ほら、このへんは隅田川が近いから、夏は花火大会もあるし、新東京タワーも見えて、すごく良い景色なんじゃないかなあ?」

「ああ、花火大会か。それはいいね! 新宿にも1本で行けるし、風俗街のあたりを避ければいいのかな。じゃあとりあえず候補で」

 錦糸町がどんなところかほとんど知識もなければ行ったこともなかったけれど、首の皮1枚のところで自分の主張が認められて博志はうれしかった。

「ヒロくんは練馬以外だったら乗り換えないといけないけど、いいの?」

「うん、だって途中までゆうこりんと一緒に行けるでしょ?」

「ああ……」

 祐子は一緒に通勤することにあまり乗り気ではないようだった。

 結局、残った場所は中野と錦糸町になった。中野と錦糸町の物件を中心に、ネット上に出ている物件を物色し始めた。めぼしい物件があればお気に入りに入れ、サイト上から問い合わせることもできた。いくつかの物件にチェックを入れると、翌日物件を管理している不動産会社からメールや電話があった。電話はほぼ仕事中にかかってきたために出られなかったが、留守番電話を残してくれた不動産会社には博志のほうから折り返し電話をかけ、何のレスポンスもないところは今回はご縁がなかったということで、その物件は諦めた。

 どの不動産店でも共通していたのは、「ネットに出ている物件はたいてい埋まっている」ということだった。メールには決まり文句のように「お探しの地域で他に条件に合った物件をご紹介します。詳しくお聞かせいただけますか?」と書かれていた。一度に全部の不動産店は回れないから、博志はひとまず名前を聞いたことがある全国展開をしている不動産チェーン店に行くことにした。他方で、祐子の家の郵便ポストに投函されたチラシにも不動産のものがあり、そこには高田馬場駅徒歩10分で、築3年、2DK・7万円という破格の物件があったため、早速チラシに書かれていた豊島興産という不動産会社に電話をしてみると、まだ成約されていないということだったので、土曜日の来店予約をした。その不動産店は池袋に店舗があるようだったが、高田馬場エリアを管理できているのはなぜなのだろうか。それに、こんな破格の条件でまだ埋まっていない状況に若干の怪しさは拭えないが、チェックする価値はあるだろう。

 結局、土曜日の午前中に豊島興産へ行き、夕方に全国チェーンの加納不動産というところに行くことになった。

 午前中に訪れた豊島興産で新居が即決できてしまうかも、と博志は青写真を描いていた。祐子も高田馬場だったら新宿により近くなるし、学生街だから都心でもそこまで治安は悪くないだろうと前向きだった。

 博志の勤務先であるムサシファーマシーから歩いて数分のところに豊島興産はあった。雑居ビルの5階だったので、こんなところに不動産店があるということをまったく知らなかった。

 店内に入ると、ここはキャバクラかと見間違うほどのけばけばしい厚化粧に巻き髪の事務員がおり、来店予約をした者だと告げると、座席を立たずに大きな声で「店長~、お客さ~ん!」と事務所の奥にいるらしい店長を呼んだ。その後、何事もなかったかのように目の前のパソコンに向かってキーボードを叩きだしたが、その手の爪がまるで魔女のように長く伸びて、黒いマニキュアが塗られていたので、さぞかしキーボードが叩きにくいだろうと博志は不憫に思った。後ろに立っていた祐子のほうを振り返ると、祐子は博志と目を合わせて苦笑していた。

 厚化粧の事務員に呼ばれて出てきた店長は、身長185センチ・体重90キロほどの屈強な体つきで、真っ黒に日に焼けた顔をてからせ、髪は短髪に刈り上げていた。博志は2年前に世話になった成増不動産の大曲のような風貌を想像していたため、一瞬来る店を間違えたかと思った。

「あ、北川様ですか。豊島興産池袋本店の店長の向井と言います」

 向井はわりと丁寧に名刺を差し出したのが博志には意外だった。「わりと丁寧に」というのは「その風貌のわりに」ぐらいの意味合いで、ごく普通の対応だったかもしれないが、とにかく博志にはわりと丁寧に映った。

 博志は祐子から受け取ったチラシを見せ、「ここの物件に興味があって……」と伝えると、向井店長から驚きの情報がもたらされた。

「ああ、ここですか。居住期間が半年間だけですが、内見されますか?」

 向井の威圧感に圧されて、博志は思わず「はい」と言いそうになった。

「それって、どういうことですか?」

 横に座っていた祐子が先に疑問を投げかけてくれたので、博志が「はい」と言うことはなかった。

「分譲貸し物件なのですが、オーナーさんが長期で海外出張されるので、その間だけお貸しするということです」

 博志は半年間だけ貸す物件があることを初めて知っただけでなく、分譲貸しという言葉も初めて聞いた。向井に尋ねたら「そんなのことも知らねえのかよ、カス!」と言われそうだったので、知ったかぶりをした。

「一応、私たちは今後一緒に住もうと思っているので、半年間だけでは困ります」

 祐子がきっぱりと思いを伝えてくれた。「今後一緒に住もうと思っている」は、遠回しのプロポーズのようにも聞こえて、一人で気持ちが舞い上がった。

「失礼ですが、お二人はご夫婦ですか?」

「いえ、まだ結婚はしていません」

「そうですか。よろしければこちらのコンタクトシートにお住まいになりたい条件などを書いていただけますか?」

 向井はそれだけ告げると、奥へ消えていった。博志は向井がコンタクトシートと言った用紙に、想定している家賃や部屋の広さの範囲などを書き、キャバ嬢のような事務員に手渡した。今度はキャバ嬢が立ち上がり、奥へ消えた店長のところへ持って行ったようだった。

 5分ほど経って出てきたのは、向井とは正反対の小柄で丸々と太ってメガネをかけた色白の男性だった。

「エエ、私、宮内と申します。北川様の担当をさせていただきます」

 店長はなぜ宮内にバトンタッチをしたのだろうか。案件を抱え過ぎていて忙しいのか、それとも博志たちはチョロそうだから自分の出る幕ではないと思ったのか。向井とはギャップがありすぎて、逆に向井の威圧感のほうが安心できそうな気がしてきた。宮内という男で大丈夫なのだろうか。

「エエ、北川様は中野近辺でお探しということですが、西武池袋沿線にお住まいなので、そのへんはいかがですか?」

 宮内はコンタクトシートを見ながら質問をした。博志は無意識に祐子のほうを見ていた。すると祐子が視線を感じたのか、宮内のほうに向かって希望を伝えた。

「私が新宿で働いているので、できれば電車一本で出られるところがいいです」

 祐子が以前、「住む場所にはこだわらない」と言っていたのは何だったのかと疑いたくなるぐらい、はっきりとした要望だった。

「そうですか。エエ、そうするとやはり中野近辺ということになりますが、弊社で管理している物件が少ないので……エエ、他社が管理しているところを見させてもらう形になりますが、それでもよろしいでしょうか?」

「私は構いません」

 祐子は博志に相談することなく、そう告げた。宮内が博志のほうに視線を移したので、博志も無言で頷いた。

「そうですかぁ……あるかなあ」

 宮内は自信がなさそうに小さくつぶやきながら物件を探し出した。5分ほど待たされたように思うが、その間に博志たちと同年代らしき一組のカップルが来店し、受付嬢が博志たちの時と同じように「店長~、お客さ~ん!」と大声をあげていた。奥から出てきたのは店長ではなくて別の男性だったが、まるで店長の子分かと見紛うぐらい風貌がよく似ており、いかにも体育会系な印象だった。

 博志はどこを見るともなく、店長の子分が出てきたドアの向こうを眺めていたが、そこには数名の社員がいて、いずれも店長に負けず劣らず見事な体格だった。全員、学生時代はスポーツで名を馳せましたと言わんばかりの熱気が感じられた。そのなかで唯一、宮内のような文科系男子がいることに、博志は大いなる違和感を覚えた。博志から見えないところに文科系男子がいるかもしれないが、それでも相当な割合で体育会系社員が多い会社に行こうと思った宮内の頭の中をのぞいてみたかったし、店長の向井が宮内のどういうところを買っているのか聞いてみたかった。

「こことかどうかなあ。ああ、そうだ。ワンちゃんは飼われますか?」

 宮内からその風貌とは似ても似つかないかわいらしいフレーズが発せられたことに博志は呆気にとられ、自分への質問であると気づくのに時間がかかった。

「あ……飼いません」

「そうですか、エエ」

 宮内は質問に対する回答までに妙な間があったことをまったく気にしていないようだった。

 宮内が中野周辺でいくつか物件情報を出してきたが、どれも2DKで家賃が10万以上するものだった。博志は祐子と家賃を折半すれば12万を超えるぐらいでも問題ないと思っていたが、10万そこそこの物件は築年数も経過しており、自分たちの希望を満たすものではなかった。

 さらに宮内が物件を探し出し、東中野と大久保にそれぞれ1軒ずつめぼしいものを見つけてきた。祐子が「とりあえず現地に連れて行ってもらえますか?」と聞くと、宮内は「エエ、かしこまりました。では車を用意してきますので、1階でお待ちください、エエ」と言い、小太りの体を揺らしながら外出の支度を始めた。

 雑居ビルの出入り口のところで宮内の車を待っている間、博志は辺りを見回していたが、よく見慣れた建物ばかりだった。休日出勤している社員がいるかもしれず、万が一吉岡とばったり出会ったら、この状況をどのように説明しようかと考えていた。博志が引っ越しを考えているが東京のことをよく知らないので祐子に付き添ってもらっている。あるいは、祐子の家探しを博志が手伝っている……。どちらも不自然に思えた。やっぱりここは正直に付き合っていることを伝えたほうが良いのではないかと思ったが、そうなると吉岡が週明けに会社中に言いふらしてしまいそうだったので、正直に伝えることも得策ではないように感じられた。

 名案が浮かばないまま博志はしばらく棒立ちの状態だった。

「宮内さん、来ないですねえ、エエ」

 祐子が静寂を破るように急に宮内の口調を真似たので、博志は思わず吹き出してしまった。

「ゆうこりん、本人の前で真似したらダメだよ」

「わかってますよ、エエ」

 祐子の笑いの感性は関西人の博志よりも優れているかもしれない。

 自分の口調が話題にされているとも知らず、宮内が息を切らしながら博志たちのところへやってきて、車へ案内した。2人が車中に乗り込み車を動かすやいなや、祐子が宮内に質問を投げかけた。

「あの高田馬場の物件って借りる人はいるんですか?」

「エエ、あれはいわゆる『釣り広告』ですよね。ぶっちゃけるとあそこはほとんど借り手は見つかりませんが、マンスリーマンションが増えている状況からも、わりと需要はあるんですよ、エエ」

 宮内の口調を聞くと祐子の物真似を思い出し、博志は笑いをこらえるのに必死だった。宮内に気づかれないように下を向いており、ほとんど宮内の話が入ってこなかったが、祐子はしっかりと聞いてくれていたようだ。

「ふーん、なんか良い気分じゃないですけど、その釣り広告はあの怖そうな店長さんが考えたんですか?」

 祐子が続けざまに質問する。

「どの物件を目玉にするかはスタッフ全員で検討するので、エエ、店長の独断というわけではないですけどね、エエ。怖そうに見えますか?」

「第一印象でひ弱だと思う人はいなさそう」

「そうですよね、エエ。ゴリゴリの体育会系なので僕なんかはわりと合わないと思うことも多いですね、エエ」

 宮内が文科系というのは白豚のような体型と肌の色を見れば一目瞭然だった。宮内とも会話が弾むようになってきたので、博志は宮内の豊島興産への入社動機を聞いてみたくなったが、博志が質問するより先に祐子が別の質問を投げかけた。

「あのキャバ嬢みたいな事務の人は、店長のコレですか?」

 宮内のほうへ右手の小指を立てながらあけすけな質問をする祐子は、まるで小悪魔のような笑みを浮かべていた。宮内はバックミラー越しに祐子の顔を一瞥した。

「いやあ、どうなんでしょうねえ、エエ。普段、店長とも大島さんともほとんど話さないんですよ、エエ」

 バックミラー越しから見る宮内の表情に変化は見られなかったが、口調は明らかに動揺していた。

「いちゃついているとか、アイコンタクトをしているとか」

 祐子はガンガン攻める。

「僕は店長と目を合わせたら何か用事を言われるから、あまり見ていないんですよ、エエ。大島さんも僕の好みじゃないですしね、エエ」

「そうなんですね、エエ」

 本人の前で物真似をするなと釘を刺しておいたのに、祐子はそれを無視して宮内の口調を真似て相槌を打っていた。それは祐子が求める回答を宮内がしなかったことへの抗議の意味が含まれているのだが、そんなことは宮内にわかるはずがない。宮内も自分が語尾に「エエ」と言う癖があることに気づいていないのか、何事もないようにただ前を向いて運転していた。

 博志は先ほど祐子に先を越されて聞けなかった「どうして宮内は豊島興産で働いているのか」という質問を投げかけようと思ったが、タイミング悪く宮内が「着きました」と車を停めたので、またしても聞けずじまいだった。結局、博志は宮内に不動産のことはおろか、プライベートなことも何1つ質問できなかった。


 宮内が最初に案内してくれたのは、大久保の物件だった。総武線大久保駅から徒歩10分とのこと。築15年、2DK・45㎡、3階建ての2階。家賃は11万6000円だった。エントランスにはオートロックがなく、入口の集合ポストにはたくさんのチラシが入っており、地面にも散乱していた。玄関前には物件を管理している会社の人らしき男性が立っていた。宮内と男性が名刺交換をするのを博志は後ろで見ていたが、どうやらその男性は不動産会社の社長のようだった。

 部屋の中を案内してもらったが、2部屋はいずれも和室になっており、水まわりも少し古そうな印象があった。築15年というから一応平成になってから建てられたのだろうが、つくりはまるで「昭和」だった。

「ご質問があれば、なんなりとどうぞ、エエ」

 宮内が質問を促してくれたが、博志は特に聞きたいことが浮かばず、祐子も黙って首を横に振っていた。

「本当によろしいですか?」

 宮内がせかしても、祐子が冷静に「はい、大丈夫です」と答えた。さすがに他の人がいる前では祐子も宮内の口調を真似なかった。内見は5分ほどで終了し、宮内の車に乗って次の物件に向かって出発した。

「お気に召しませんでしたかね、エエ」

 宮内が感想を聞いてきたので、祐子が「ちょっと印象が悪すぎませんか?」と宮内を問い詰めるように少し語気を荒げた。

「すみません。僕もあそこまでとは思いませんでした」

 宮内が弁解などをする時は「エエ」とは言わないようだった。

「さっきの人も玄関先で待ってる間にチラシを片づけることもできますよね。それすらやらないってことは貸す気がなかったとか?」

 祐子も問い詰める時は宮内の物真似をしなかった。宮内はか細く「すみません」と言うだけで、車を次の東中野の物件に向かわせていた。

 その後の車中では誰も口を開かなかった。博志は一気に雰囲気が悪くなったように感じられた。博志は決しておしゃべりなほうではなかったが、こうした無言の場が好きではなかった。普段の営業でもなるべく会話が途切れないように、博志からどんどん話しかけるようにしていたが、宮内は無言にも慣れているのだろうか。車のエンジン音が適度な雑音として入るので、無言であることに意識が向かないのだろうか。博志は宮内の「エエ」が無性に聞きたくなってきた。しかし、だからと言って宮内にどんな質問を投げかけたらいいかわからなかった。祐子も宮内に興味がなくなったのか、ずっと外の景色を眺めている。

 そうこうしているうちに東中野の現地に到着した。ここは築12年、2DK・51㎡、2階建てアパートの2階。徒歩7分、家賃は12万円だった。オートロックになっていたので、エントランスに管理している不動産業者らしき男性が立っていた。その男性は宮内と挨拶をした後、博志にも名刺を渡してきた。そこには「碇不動産 代表 碇昇一」と書かれていた。この男性も「社長」だった。先ほどの不動産業者といい、このへんは個人経営に近い不動産業者が多いのかもしれない。

 部屋に入る時、碇社長が入口のドアを開くと「キーッ」と音が鳴った。内装は築12年のわりにはきれいで新しい感じだったが、リビングの奥にあるバルコニーから景色を遮るぐらいの大きな木が立っているのが見えた。今でもすでにこんなに景色が遮られているのに、夏になって葉が生い茂ってくると、何も見えなくなるし虫もたくさん出てくるだろう。もしかしたら鳥たちも集まるかもしれない。鳥の鳴き声は遠くから聞けば癒しにもなるが、間近で聞くと騒音でしかない。博志はこの木のために物件のすべてがダメになっているように思えた。

 祐子も同じことを思っていたようで、どうせこの家に住むことはないと踏んだのか、「バルコニーのところの木は切ってもらえるんですか?」と、ずいぶん野蛮な質問をした。

「いや、この木はアパートを建てる前からあったので、木を切らないという条件で建てたんですよ。だからちょっと無理ですね」

 碇社長は少し困惑気味に回答し、祐子は独り言のように「そうなんだ」と小さくつぶやいた。

 2人は宮内から部屋の説明を一通り受けたが、博志はもう頭に入ってこなかった。ほかに質問はないかと尋ねられたが、祐子もまったく興味がなくなっているようで、首を横に振るだけだった。

 東中野の物件も自分たちの条件に合わないとわかり、少し落胆しながら宮内の車に乗り込んだ。宮内が車のエンジンをかけながら「いったん店舗まで戻りましょうか?」と提案してきたので、祐子がすかさず断った。

「あ、実は午後から中野で用事があって……。東中野の駅までで結構です」

 宮内はとても残念そうな顔をしており、2人をまだ帰したくない様子だった。

「もう一軒見ていただこうかと思ったんですけどね、エエ。では新たに条件に合う物件が見つかりましたらご連絡します」

 博志は宮内の「エエ」が聞けないことが残念だったが、肝心の家探しでは希望の物件が出てきそうになかったので、諦めて東中野の駅で宮内と別れた。

 2人は東中野駅前のレストランで休憩を兼ねた昼食にした。

「1軒目の不動産店は失敗だったか……」

「まあね。ヒロくんは東久留米の家を探した時もこんな感じだった?」

「うーん、何軒かは見たけど、一応その日に決めたかな」

「そっか」

「それにしても、ゆうこりんはガンガン攻めてたね」

「だって2人で住む家だもん。真剣にもなりますよ、エエ」

「宮内いじりがすごかったね」

「『釣り広告』っていうのにムカッときてさ。家探しって不動産会社との戦いなんだと思ったから、こっちも揺さぶっていこうって」

「へえ……ゆうこりん、策士だね」

「そんなことないよ。人事の仕事をやってるからかな、駆け引きとか好きな人がいてさ」

 博志は家探しで今までにない祐子の一面を垣間見たが、けっして嫌な気持ちはせず、むしろ頼もしいぐらいだった。博志は事なかれ主義のハト派だから、争い事は極力避けて通るタイプであり、「これを聞くと相手は嫌がるだろうな」ということがあると、聞かずに済ませてしまうことがあるが、祐子にはそういう考えは一切なさそうだった。それにしても博志の知る祐子は策士というよりもむしろ「天然」だったので、どちらかが仮の姿なのかもしれないが、天然の人が策士を演じることはできないだろうから、天然が仮の姿なのだろう。

「でもこれからどうしよっか。次の加納不動産は5時からでしょ?」

「そうだね。まだ4時間あるからね。中野まで行って別の不動産店に貼られてる間取り図でも見る?」

「あ、それいいね。そうしよう」

 昼食を済ませた2人は中野駅まで行き、商店街のほうへ向かった。途中で加納不動産の前も通ったが、素知らぬ顔で素通りし(そんなことをしなくても先方は2人の顔を知らないけれども)、いかにも地元密着タイプの、チェーン店ではなさそうな不動産屋の前で立ち止まり、そこに掲示されている間取り図を眺めていた。大きく「雑誌には掲載されていない物件ばかりです!」と書かれてあり、たしかに初めて見るような物件ばかりのように思えた。ただ、同じ間取り図でも、色や書体を変えられただけで別の物件に見えてしまうので、ひょっとしたら一度見たものも含まれているかもしれないけれども、それであればこの不動産店がウソをついていることになるので、「雑誌に掲載されていない」ことを信じて見続けていた。

 5分ほど2人が会話もせず食い入るように間取り図を眺めていたので、店舗の中から一人の初老の男性が出てきて2人に声をかけた。

「あ、じつは夕方に別の不動産屋さんと約束をしているんですけど、それまでの時間つぶしで」

 祐子は正直に話した。

「それまででも結構ですよ。寒いから中でゆっくりご覧ください」

 初老の男性は笑顔で2人を招き入れてくれた。

 中に入ると、先ほどの男性が名刺を出し「新田不動産の新田です」と名乗った。年齢は60歳代前半といったところか。頭部は寂しくなっているが、ポマードのようなものでしっかりと固められており、てかっていた。ネクタイ姿に黄土色のチョッキを着ており、いかにも街の不動産屋さんといった風貌だ。博志も続いて自己紹介をすると、横の祐子が「私たち中野で家を探しているんです」と続けた。

「いいですね。新婚さんですか?」

 新田は笑顔で尋ねてきたので、博志は「あ……」と言い淀んだが、祐子が「そうです。まだ籍は入れていませんけれど」と答えた。博志は「やっぱりオレたち、結婚するんだ!」とうれしい気持ちになった。

「中野は新宿に近いし、交通の便の良いので、昔から幅広い世代に人気があるエリアです。いくつかは希望に添えないものもあると思いますけれど、不動産は7割の希望が叶えば合格と言われますから」

「へえ」

 祐子は、会ってからまだ数分しか経っていない新田の言葉に感心しているようだった。豊島興業同様、新田不動産でも祐子が率先して新田とのやり取りを進めていた。もはや「住む場所にはこだわらない」祐子の面影は一切見られなかった。

 パーティションで仕切られた事務所の奥から、50~60歳代と思われる女性が出てきて、博志と祐子に温かい日本茶を出してくれた。

「これ、ウチの家内です。ここは夫婦でやってるんです」

 礼を言う博志に新田が紹介した。新田の妻は「よろしく」と言って頭を下げ、そのままパーティションの向こうへ去っていった。博志はしばらく気づかなかったが、店内にはAMラジオが流れており、首都高速の道路状況を伝えていた。

 新田は街の不動産店よろしく、インターネット上ではなくファイリングされた物件を1枚ずつめくってめぼしいものを探していた。しばらく新田が黙々と探しているのを2人が見つめていたので、新田が「あ、おタバコ吸われるようでしたら、灰皿ありますのでどうぞ」と促したが、祐子が「2人とも吸いませんので」と制した。

 新田は10軒ほどの物件を探し出して博志たちの前に並べた。

「まあ、あるにはありますけどね。あとはお二人の条件に合うかどうか」

 祐子が並べられた物件リストを眺め、自分たちの条件に合いそうなものを何軒かピックアップし、それを博志に見せた。

「いや、オレにも全部見せてよ」

 抗う博志に祐子は一瞬鋭い視線を送ったが、何も言わずにすべてのリストを渡した。祐子の睨みつける顔を初めて見た博志は、得体の知れない寒気を覚えた。

 博志には、どの物件も一長一短で決め手に欠けるように思えた。これが新田の言う「7割」なのだろうか。正直なところ、どれを最優先させるか決めていなかったので、今ここで結論を出すのは難しかった。それに、全体的に中野エリアは割高に感じられた。祐子がそうした博志の逡巡を察したのか、同じ思いだったのかはわからないが「ほかにも物件はありますか?」と新田に質問した。

「ええ、もちろん。ただ数が多いのでね。リストを全部ご覧になりますか?」

 新田は先ほどまで自分が見ていた物件リストごと祐子に手渡した。そのリストの多さに2人は驚いたが、午前中の豊島興産の宮内は中野区の物件を探すのに苦労していたから、チェーンの不動産会社には流さない物件が相当あるということなのだろうか。

「中野と言っても、中野新橋とか中野富士見町とかいろいろあるでしょ? できればそういうところは避けたいんだよね」

「なんで?」

「駅前にそれほどお店がないでしょ? そのわりに新宿に近いから家賃も高いし」

 祐子が本音を漏らした。博志は中野周辺のことはほとんど知らないので、中野新橋や中野富士見町のイメージがつかめずにいたが、こんな都心に店がないなどという状況があり得るのだろうかと不思議に思った。

「もし気になるようでしたら、現地をご覧になったほうが良いと思いますよ。僕たちは2人しかいないから案内できないんだけど、鍵の場所を教えますんで」

 新田には祐子の話が全部耳に入っていたようで、物件の見学を勧めてくれた。しかし、見ず知らずの客に鍵の場所など教えてもいいのだろうか。

「ウチが管理しているところは、だいたいこういうやり方なんですよ。管理人がいるところは連絡するので大丈夫ですよ」

 困惑の表情を見せる博志に、新田がすかさずフォローを入れた。年齢のわりに周りの状況には敏感なようだ。

 加納不動産との約束にはまだ時間があったので、2人は中野新橋と中野富士見町の物件を見に行くことにした。歩くにはやや遠く、電車の乗り継ぎも良くなかったので、バスで移動した。

 中野新橋近くのバス停で降りると、博志は祐子が話していた「店」というのは、ショッピングモールのような大規模集中型施設を指しているのだとわかった。そこそこ大きめのスーパーマーケットやドラッグストアや個人商店が点在しているが、たしかに一度にすべての用事を済ませるためには何度か移動しなければならない。道路も込み入っており、ちょっと車を出すとかえって不便かもしれない。

 物件へは新田がくれた地図を頼りに、迷うことなくたどり着けた。築年数は15年ほどだったがリフォームをしているようで、内装はとてもきれいだった。幹線道路から1本中に入っただけで車の騒音はほとんど聞こえない。ただ、マンション前の道路が狭く、一方通行がかなり多かった。

 中野新橋の内見を終えた後、もう1軒の中野富士見町も訪れたが、似たような印象だった。住まいの印象は博志としては申し分なかったが、祐子がずっと「店がないからなあ」とぼやいていたので、このエリアもきっと候補からはずれるのだろうと思った。

 新田不動産に戻り、内見は終えたが契約はしない旨を伝えると、新田が今後めぼしい物件が出てきたら教えるからFAX番号を教えてほしいと言ってきた。博志の家にはFAXはおろか固定電話さえなかったが、幸いにも祐子の家にはFAX付きの固定電話があったため、今後はそちらに送ってもらうことになった。

 新田不動産を辞すと、祐子はドッと疲れが出たような表情を見せた。

「なんかもう今日は疲れちゃった。加納不動産ってキャンセルできないかな」

 博志も多少疲れがあったのと、加納不動産の物件に対して強い思い入れがあったわけではないので、今日はこれで帰ろうと思った。

 時間はまもなく午後5時になろうとしており、少しでも早く連絡しないと担当者の仕事に影響が出ると博志は焦った。電話をしようかと思ったが、新田不動産から中野駅に向かうまでに加納不動産があるので、直接店舗に立ち寄り、近くにいた店員に予約をキャンセルしたい旨を申し訳なさそうに伝えた。

「その担当者はただいま外出しております。別のお客様をご案内しているようですが……」

 店員は不審そうな顔で応対した。加納不動産は全国チェーンなので、博志が店舗を間違えたのだろうか。いや、加納不動産は中野区にはここにしか店舗がないはずだ。それに担当者が不在ということは、この店舗に在籍はしているということだ。

 博志の来店予約がネットからだったため、確認を怠ってダブルブッキングしてしまったのだろうか。それもあり得ない話だが、もしかしたら見込み客と思われずに目の前の「獲物」に専念したのだろうか。いずれにせよ、客をないがしろにする不動産屋が許せなくなった博志は、怒りで手が震えてきた。

「ちょうどよかったじゃん。もう行こうよ」

 祐子の声が助け舟になったのか、博志の手の震えはピタッと止まった。博志は「じゃあもういいです」と店員の目も見ずに答え、店を後にした。背後から店員の挨拶はまったく聞こえてこなかった。

 2人はいったん新宿まで出て、少し早めのディナーをとることにした。今日のデートはとても疲れた。2人はお互いの今日の感想を言い合っていたが、博志は時折気になっていたことを聞いた。

「オレたちって、結婚するの?」

「え、しないの?」

「あ、いや、結婚するんだろうなとは思ってるけど、なんと言うかこう……サプライズでプロポーズとかさ、そういう話、よく聞くでしょ?」

「ああ……私、そういうのあんまり好きじゃないんだ。そんなに勘が鋭いとも思わないけど、気づいちゃうっていうか」

「ああ、そうなんだ」

「なんか、サプライズとかってしらけちゃうんだよね。ヒロくんはサプライズやりたい派?」

「あんまり好きじゃないけど」

「だったらサプライズは不要です。それに『私たち、結婚するのかな? 彼は私のこと、どう思ってるのかな?』なんてドギマギしながら恋愛をするような関係でもないでしょ? はっきりしておこうよ。私はヒロくんと結婚を前提に付き合っています」

「も、もちろん、オレもだよ」

「ホントかな……まあいいや」

「まあいいやって……。ホントにオレでいいの?」

「うん。一緒にいてて楽しいし。それに2人で住む家を探すのに『新婚さん?』と聞かれて『そんな予定ないです』とは言えないでしょー」

 祐子の考えはごもっともなものだった。博志は自分もいつか結婚するんだろうなとは思っていたが、いざ具体的な話が出てくると、本当に良いのだろうかというためらいが生まれてしまう。もし結婚したら、これから何十年と連れ添っていくのである。まだそんなに付き合っていないのに大丈夫なのだろうか。祐子も話していたが、博志だってまだ24歳である。つい2年前までは大学生だったのだ。以前から結婚は30歳ぐらいでいいと思っているし、その間に祐子以外の魅力的な女性が現われないとも限らない。いったい博志にどんな未来が待ち受けているのか……実際は皆目見当もつかなかったので、博志は考えるのをやめた。

 中野をターゲットにした家探しは不発に終わった。まだ明確な優先順位が決められていなかったこともあり、もっと真剣に探せば見つかるのかもしれないが、家賃と部屋の大きさ・古さが見合っていないように思えた。人気エリアだから仕方がないのかもしれないが、もう少し都心から離れてもいいのかもしれないと思い直した。

 初めての家探しデートが思いのほか疲れたので、2人はしばらく家探しをしなかった。新田不動産からも1ヵ月間連絡がなく、FAXはリップサービスだったのかと少し気落ちした。祐子も無理に姉の結婚に合わせて家を出なくても良いのではないかと思いだしたようで、もう少し腰を据えて家を探そうと話し合った。


 それ以降も、博志に間取り図を見る趣味がなくなったわけではなく、新聞の折り込みチラシや通勤途中に通る不動産屋の掲示板に載っている間取り図を毎日食い入るように見つめていた。間取り図を見ると時間を忘れてしまうほどだったが、それはただ間取り図を眺めてどんな外観や内装なのかを想像するだけで、実際に自分の住む家を探し当てるところまではいかなかった。

 あるとき、テレビのニュースで新東京タワーの建設が東京都墨田区に決定したと報じられていた。完成は地上波アナログ放送が終わるのと同じ年らしく、博志にはずいぶん先の話だと思われた。その時には自分も30歳を過ぎており、祐子と結婚して子どもでも生まれているのだろうかと、なかなか自分事としてとらえられなかった。

 そういえば錦糸町の物件について、ろくに調べていなかったと、博志は不動産サイトから錦糸町の物件を探し出した。新東京タワーは東武線の業平橋駅の近くに建てられるらしい。そこから錦糸町までは自転車で10分ほどだ。歩くとちょっと遠いだろうか。業平橋から少し東に行くと、地下鉄の押上駅があった。ここは半蔵門線と浅草線の始発・終着駅で、通勤ラッシュでも座れるかもしれない。ただし、博志の勤務先である池袋へ行くには何回か乗り換える必要があった。

 いわゆる城東地区と呼ばれるこのエリアに、博志はほとんど足を踏み入れたことがなかった。池袋からも少し離れているので、通勤にはあまり便利とは言えないかもしれない。しかし、「隅田川」「浅草」といった名前は関西人の博志でもよく耳にしていたし、なじみがあった。

 池袋からの距離はともかく、物件自体は錦糸町界隈でいくつか見つかり、チェックを入れた。そのうちの半分ぐらいを「加納不動産錦糸町店」が管理していた。博志は加納不動産の管理と知って、問い合わせるのをやめようかと思ったが、断るのは実際に見てからでも遅くはないと考え直し、問い合わせてみた。その日のうちに田坂という担当者から返信があり、問い合わせた物件のうちのほとんどはすでに埋まっているが、1軒だけ空いているので内見は可能とのことで、博志は土曜日の内見を予約した。

祐子にはそのことを電話で伝えたが、ふと祐子は中野で見学をして以降、まったく物件を探していないのではないかと疑いを持った。2人が住めるところに引っ越したいと言ってきたのは祐子だったはずなのに、なぜ?

「だって、お姉ちゃんの前で家探ししていたら、自分のせいで妹が家を出ないといけなくなって申し訳ないって思わせたくなかったから。実際そうなんだけどさ」

 祐子にもいろいろと事情があったということか。

 土曜日の午前中に加納不動産錦糸町店を訪れると、パンツスーツ姿に背中まで伸びた髪を茶色く染めた女性が現れた。

「加納不動産錦糸町店の田坂と申します。このたびはご来店、誠にありがとうございます」

 メールには苗字しか書かれておらず、博志はてっきり田坂が男性だと思っていたので、名刺を渡されても目の前の女性が田坂とは信じられなかった。しかし、名刺にはしっかりと「田坂恵里菜」と書かれている。しかもまだ20歳代半ばと思しき若々しさだ。

「物件を見学する前に、お時間があるようでしたら、こちらの来店カードへのご記入をお願いしたいのですが……」

 1軒しか訪問しないのはもったいないと思っていたので、あとは田坂に探してもらおうと来店カードに条件を書いていったが、今まで不動産屋には何度もこのようなアンケートに答えてきたので、特に質問内容を読むこともなくアンケートに答え続けた。最後の自由コメント欄に「ベランダから隅田川花火大会と新東京タワーが見られるところ」と書いた。

 来店カードを田坂に渡すと、田坂は博志が書きこんだ内容を指でなぞりながら、「ふんふん」とうなずいている。「他の不動産店も回っていますか?」という質問には「はい」と回答していたので、途中で田坂が「ウチ以外にもご覧になっているということですね」と確認のようなそうではないような聞き方をした。田坂はそのまま来店カードの下へと指を進めていき、最後の自由コメント欄のところで指の動きがピタッと止まった。

「あのう、この『新東京タワー』というのは?」

「この前、ニュースで業平橋のあたりに新しく東京タワーができると言ってましたよ」

「そうなんですね。知りませんでした」

「ということはどこに建つかもご存じない?」

「はい、申し訳ありません」

 新東京タワー建設はたいしたニュースではないのだろうか。きっと新東京タワー目当てに引っ越してくる人もたくさんいるはずだが、田坂の反応の薄さを見ると、今のところ熱くなっているのは博志だけなのかもしれない。

「新東京タワーなんてホントに建つの?」

 祐子がまるで田坂の味方かのように、博志を疑いのまなざしで見つめる。

「どこに建つかは詳しく知らないけれど、必ず建つ!」

 博志は新東京タワー建設にまったく関わっていないのに、まるで関係者かのように意地になっていた。

「今度、調べておきます。申し訳ありません」

 田坂が場をとりなすように謝った。

「あと、隅田川の花火大会ですが、これは両方とも見れたほうがいいですか?」

「両方?」

「はい。打ち上げ場所は2ヵ所あります」

 隅田川の花火大会がいつ、どのぐらいの規模で行われているのか予備知識がまったくなかったので、打ち上げ場所が2ヵ所というのも初めて聞いた。

「それは、見れたら見れたに越したことはないですが、別に無理なら1ヵ所でも構いません」

 田坂からの質問は終了し、予約をしていた物件以外にも2軒、条件に合ったものを探してくれた。

 外へ案内されて、田坂が運転する営業車に乗り込む。田坂は、博志と祐子の現在の関係やなぜ錦糸町エリアで探しているのかなど、話のきっかけとなることを一切聞いてこなかった。車中でもほとんど会話がなく、虚しくエンジン音が響くだけだった。

「田坂さんって、この業界長いんですか?」

 祐子が痺れを切らしたように質問を投げかけた。

「実はまだ1年経ってなくて、出身も福島県なので、あまり東京のことを知らないんです」

 この担当者で大丈夫だろうか。博志と祐子が同じ感想を抱いたのは言うまでもない。

 その後もいくつか祐子が話題を振ったが、田坂は助手席に置いてあった地図を信号待ちのたびに広げて「次を左で、今度は右か」などとつぶやいており、問いかけにはまともに応じていなかった。博志は田坂が錦糸町の地理をよく知らないから地図を見ているのだと思ったが、車窓を流れる風景を見ると、一方通行の標識の多さが目に付いた。

 案内された物件は、JR錦糸町駅から徒歩11分のところにあった。錦糸町は風俗街という先入観があったが、案内された地域は昔ながらの下町という印象だ。この環境であれば錦糸町でも問題はなさそうだった。

 残りの2軒もそれぞれ前の物件から車で10分ほど離れたところにあるように思われたが、田坂がうまく一方通行を潜り抜けることができず、何度か同じところも通っていたため、地図を見ると実は近場だったということが後でわかった。

 内見した3軒とも、博志はなかなか良い条件だと思っていた。祐子も決して悪くないと話していた。推測でしかないが、夏にはバルコニーから花火大会が見え、数年後には新東京タワーも見ることができそうだった。だが2人とも「ここにしよう」とは言えなかった。入社して1年未満の頼りなげな田坂(こむすめ)が勧める物件を魅力的に感じられなかったのだ。これまで豊島興産の宮内や超ベテランとも言える新田不動産の新田でさえ、なかなか条件を満たす家は見つけられなかったのに、ペーペーの田坂に見つけられるとは到底思えず、一見良さげな物件にも何か裏があるに違いないと思い込んでいた。

 3軒目を見終わった後、田坂は店舗に戻るかと聞いてきた。博志は一瞬祐子のほうをチラッと見た。

「この後、他の不動産屋さんの予約があるので、駅まで送ってもらえますか?」

 田坂は「わかりました」と少し残念そうな顔で返事をした。

 帰りの車中も3人はほぼ無言だった。行きの車中では積極的に話しかけていた祐子も、一度見たはずの車窓の景色を眺めていた。

 錦糸町駅まで送ってもらって田坂と別れた後、2人は駅前のファストフード店で休憩をした。

「加納不動産ってさ、テレビCMもやってるのに、ダブルブッキングだったりお客の情報を引き出さなかったりでひどくない? それでよく会社が持つよね」

「たまたまオレたちが貧乏くじを引いたんじゃないの?」

「えーん、家が見つからないよお」

 祐子は両手で目をこするしぐさをし、無表情に不満を訴えた。

「営業担当者って大事なんだねえ」

 博志はしみじみと感想を漏らした。自分も営業職だから、商品だけでなく人柄も売り込んでいかないと、同期たちとの出世争いには勝ち残れないかもしれないと危機感を覚えた。新入社員のころに受けた営業研修で、「いくら商品が良くても営業担当者に誠意がなければ、モノは売れない」と話していた幹部社員の言葉の意味がようやくわかった気がした。

 家探しは暗礁に乗り上げてしまったかのようだった。錦糸町はまだまだチェックできていないエリアもたくさんあるが、博志は池袋へのアクセスの悪さが気になりだしていた。それに新東京タワーへの周囲の反応の薄さも、城東地区を敬遠させる理由になり得た。もっと住みたい地域の範囲を広げるべきか、条件を下げるべきか、そのままの条件で根気よく探すのか、博志は家探しの難しさに直面していた。


 博志が住む東久留米のマンションの更新が迫っていた。あと1ヵ月以内に更新するかどうかの意思表明をしないといけない。一人暮らしであれば新居を即決できるけれども、祐子と一緒に住むので、彼女の希望も満たさないといけない。と言うよりは、彼女の希望がほぼすべてなのだった。

 祐子には、1ヵ月以内には引っ越すかどうかの決断を出さないといけないことを伝えた。

「私もお姉ちゃんがいなくなった後に最悪一人で住んでもいいって言ってたけど、やっぱりちょっと家賃が高いから今は引っ越したい気持ちが強いかな」

 博志は祐子と同じ思いであることがわかってうれしかった。一方で、だったらもう少し条件のハードルを下げてほしいと思ったが、祐子には言い出せなかった。

 再スタートの気持ちで博志は豊島興産に電話をし、宮内につないでもらうようにお願いをした。するとおそらくあのキャバ嬢のような女性と思しき声で、「宮内くんは退職しました」とそっけなく答えられた。博志は思わず自分の耳を疑ったが、つっこんで話を聞くとどうやらつい10日ほど前に突然出社しなくなったのだという。博志がしばらく呆気に取られて黙っていると、電話口から「どうします?」とぶっきらぼうにせかされたので、「もう結構です」と伝えて電話を切った。

 宮内はたしかに会社の雰囲気に合わないようなことを言っていたが、突然出社しなくなって退職するだなんて、接客商売の人間がやることとは思えない。ハードな仕事なのかもしれないが、社会人としてのモラルが欠けている者に家を仲介してもらいたくないと博志は思った。

 翌日、このままだとひょっとすると引っ越すのは2年先になるかもしれないと落ち込んでいた博志のもとに、祐子から「新田さんからFAXが来たよ」とメールがあり、そこに画像が添付されていた。画像は鮮明ではなかったのでよくわからなかったが、祐子の説明によると、中野ではないが西新宿の物件を新田が紹介してくれたのだという。

「2LDKでさ、家賃11万でさ、住所は西新宿ってなんだかすごくない? 西新宿に住むOLなんて、まるでドラマみたい」

 博志は最初、新田はオフィススペースを案内してきたのではないかと思った。西新宿に人が住める家などないと思い込んでいたのである。あるのは都庁やホテルやオフィスビルばかりなのに。もしかして公園の中とか、四方をビルに囲まれてまったく日差しが当たらないところに家でも建っているのだろうか。しかも家賃が11万円である。築40年となっているけれども、エレベーターもあるし、風呂とトイレはセパレートになっていて、総フローリングと書かれており、今にも倒壊しそうなおんぼろアパートというわけではなさそうだった。

 博志は早速新田不動産に電話をかけ、翌日も仕事だが、早く切り上げて内見したい旨を伝えた。祐子も定時になったら会社を出て現地に向かうと話していた。

 その物件は西新宿5丁目にあった。最寄駅は地下鉄大江戸線の「西新宿5丁目(清水橋)」駅だが、15分ほど歩けば各線の新宿駅に行けるし、地下鉄丸ノ内線の西新宿駅や大江戸線の都庁前駅へも徒歩圏内だった。博志はこんなに利用可能駅がある物件を見たことがなかった。上京してからまだ利用したことがない路線もいくつかあった。

 翌日、博志は仕事を終えると、池袋駅から山手線に乗って新宿駅へ向かい、祐子と落ち合ってそこから現地まで地図を頼りに歩いていった。前回同様、新田は同行せず、祐子と2人で現地まで行き、指定された場所に保管されている鍵で中を見て良いとのことだった。初めての場所なので20分ほどかかってしまったが、なんとか迷わずに現地まで行くことができた。新宿駅からしばらくはオフィスビル街特有のビル風と行き交う車の走行音が騒がしかったが、新宿中央公園を通りすぎたあたりから、ほかの都市とそれほど変わらないぐらいのマシな騒音になった。

 博志が驚いたのは、民家がちらほらと見られたことだった。建物の並びが「ビル、ビル、ビル、家」となっていて、目の前の光景がにわかに信じられなかった。時折、3台ぐらいしか停められない小さなコインパーキングがあって、そこは元民家だったことを想像させた。博志は思わず住所表示の看板を見てしまったが、たしかに「西新宿」と書かれていた。祐子が住む中井と同じような雰囲気だった。唯一違うのは、視界に東京都庁や外資系ホテルなどの高層ビル群が入ってくることだった。

 お目当ての物件は、民家が何軒か密集しているところにあった。民家の中に1つだけ紹介された5階建てのマンションが建っているので、妙に目立っていたが、もう少し視線を遠くにやると都庁などのビル群があるので、ビルから見たら5階建てのマンションも民家も「どんぐりの背比べ」状態だった。このマンションの403号室が空き部屋だった。

 夜のため、暗くて外観がよくわからなかったが、築40年以上を思わせる古さは感じられた。オートロックもなく、銀色の集合ポストは誰もが簡単に開けられるような、なんの細工も施されていないタイプのものだった。表札を掲げている人はほとんどおらず、チラシであふれ返っているポストもあったので、ここだけ見ると半分ぐらい空き部屋なのではないかと勘違いしてしまいそうだが、新田によると今は1部屋しか空いていないらしい。入口のエレベーターも妙に小さく、3人乗れば身体が当たってしまうほどだった。ドアが閉まって動き出すときに、「ガタン」と大きな音を立てて揺れ、一瞬電気が消えてすぐについたので、博志はエレベーターが故障したのかと思ったが、エレベーターは何事もなかったかのように「ウイーン、キーキー」と耳障りな金属音を立てながら上がっていき、4階に到着したらまた「ガタン」と揺れ、10秒ほどの間があってからドアが開いた。

 403号室に到着すると、待っていたのは昭和の風情が漂ういかにも重そうなステンレス製の扉だった。扉のペンキはもともと茶色だったのだろうが、長年の日当たりによってカフェオレのような薄い茶色に変色していた。廊下の蛍光灯が薄暗く、古さを助長していた。鍵を開けて中に入る。玄関の上にブレーカーのスイッチがあったので電源を入れると、明かりがついた。玄関扉は古めかしいが、室内は床がフローリングになっているので、そこまで古さは感じられなかった。玄関の右手に洋室があったが、一般的な6畳程度の広さだった。トイレと浴室の床がなぜかピンク色の石タイルで、少し趣味の悪さを感じたが、決して汚いわけではなかったので、住んでいるうちに慣れるだろうと思った。また、洗面所に洗濯機を置くスペースはあったが、どうやら排水は浴室に流すようで、風呂に入りながら洗濯機を回すことは難しそうだった。

 奥へ進むとキッチンとダイニングがあり、さらにその奥がリビングで、そこからバルコニーに抜けられた。バルコニーに出る窓を開けると、網戸がないことに気づいた。また、やけに窓ガラスが分厚い印象があった。後日、新田に確認すると、どうやら外の騒音が気になるという住人が多かったらしく、分厚いものに変更したが、その代わり網戸がつけられなくなったのだという。バルコニーから下をのぞくと1階部分が駐車場になっており、10台ほど停められるようだったが、舗装はされておらず、鳥の糞が散乱していた。一番隅の駐車スペースにはマンションよりも高い木が立っており、どうやらそこに巣をつくっている鳥が糞を落としているようだった。木のせいで駐車スペースが少ないところには、軽自動車専用を表す「軽」の文字が書かれていた。物件チラシで駐車場の料金を確認すると、「4万円/月」となっており、博志は思わず目を剥いた。地方のボロアパートなら人が住める金額だ。それなのに、東京都心では糞まみれの駐車場の値段にしかならないのだ休日には(営業)車を使わない外出方法を考えないといけないと思った。

 一通り見終わって、博志と祐子は目を見合わせた。

「ヒロくんはどう思った?」

「そこかしこに昭和のにおいがするけれど、思ったより悪くないかな」

「だよね。古さに目をつむれば全然問題ないよ。西新宿という住所が一番気に入った!」

 祐子はうれしそうだった。一方で博志は呆れた。

「住む場所にはこだわらないんじゃなかったの?」

「朝令暮改って言うじゃない」

 祐子はなぜかドヤ顔で、博志は四字熟語の誤用を指摘したが、ドヤ・祐子はまったく気にしていないようだった。

 博志はマンションを出たところで新田に電話を入れた。

「良い物件だと思いましたけど、他に内見希望者はいますか?」

「今はいませんが、そこは古くても立地が良いので、たぶん明日には誰かが契約している可能性はあります」

 不動産業者特有のカマをかけられているように思えたが、新田は誠実そうなので真実を話してくれているだろう。電話を保留にして祐子の意思を確認した。

「もうここにしようよ。西新宿の物件が次にいつ出てくるかわからないし」

 祐子は相当「西新宿」が気に入ったようだった。そういえば以前にどこかで、フランスのパリは街全体が世界遺産に登録されているため、洗濯物を外に干してはいけないと条例で定められていると聞いたことがあった。パリジャンやパリジェンヌの服はきっとあの生乾きの嫌なにおいがするのだろうと博志は想像したが、そんな条例で縛られてもパリに住みたい人は後を絶たないというから、地名のブランドというのも相当なものなのだろう。祐子が西新宿を気に入ったのもわからないではなかったが、今も祐子は「新宿区」に住んでいるのに、それではダメなのだろうか。関西出身の博志は理解に苦しんだが、きっとそれを問いただすのは野暮なのだろう。博志は新田に契約の意思があることを伝えた。

「ありがとうございます。じゃあ簡単な書類にサインをしてもらいたいので、ウチまで来てもらえますか?」

「もう遅い時間ですが大丈夫ですか?」

 時刻は夜の8時になろうとしていた。

「私どものことは気にせんでください。早く手を打っておいたほうが良いでしょう」

 中野の新田不動産へ行くと、看板の照明は消されていたが、店内には明かりがあり、入口の鍵も開いていた。店内に入ると新田がパーティションの奥から出てきた。

「気に入りましたか?」

「はい、西新宿なのにたくさん人が住んでるんですね」

 祐子がうれしそうに答えた。

「あのあたりは昔『角筈』という地名で、高層ビルが立ち並ぶ前は民家や商店が多かったんですよ」

「へえ」

 祐子はこれから自分が西新宿の住民になるからか、西新宿の歴史にも興味深々の様子だった。

「じゃあ、この書類に住所と名前を書いてください。世帯主は旦那さん……でいいのかな?」

「ええ、とりあえずは」

「じゃあここに書いて。あと、印鑑は持ってきてますか?」

「はい」

「よし、じゃあこれで大丈夫です。今日のは仮契約みたいなものなので、本契約のときはまたご足労いただくことになりますけど」

「土日であれば構いません」

「じゃあ次の土曜日の朝で良いですかね。一応、そのときに大家さんの面接がありますんで」

「え、面接?」

「そう、面接」

「どんなことを聞かれるんですか?」

「まあ、お人柄とかお仕事の内容とか、ですかね」

「……」

「こちらの大家さんは企業さんなんですけどね。タクシー会社とかレジャー施設の運営とかマンション事業を幅広くされていて。ほら最近、物騒な事件とかも多いから」

「まあ、そうですね」

 博志はまさか家探しで自分が面接されるとは思っていなかったので、思わず身構えてしまった。ほんの3年ほど前に経験した就職活動での面接が頭をよぎり、あまり良い気はしなかった。

 新田不動産を出て中野駅まで帰る途中も祐子はうれしそうだった。帰路につく足取りがまるでスキップをしているようにも見えた。

「私たち、西新宿に住むんだよー」

 博志の腕を何度も叩いた。

「オレは23区に住めれば良いと思っていたけど、東久留米から一気に大都会に来ちゃったなあ」

「いいじゃん。西新宿に住んでるって自慢しちゃいなよ」

「うん」

 うなずきながらも、博志は本当に西新宿に住むことは自慢になるのか疑問だった。それよりも博志は面接のほうが気になっていた。

「面接って何聞かれるんだろう?」

「志望動機とかじゃない? あなたがこのマンションを志望した理由を話してください」

「え? 新田不動産からFAXが送られてきたから」

「そんなんじゃダメだよ。大都会・新宿に歩いて行ける距離なのに家賃が安くて、内装もまあまあキレイなところが御社を志望した動機ですって、それぐらい言わないと」

「なんで『御社』になるんだよ!」

「えへへ、そうか。でもそんなに不安だったら、私が西新宿への思いを熱く語るから任せといてよ!」

「そんなにゆうこりんって西新宿が好きだったっけ?」

「西新宿というよりも大都会に住むことへの憧れだよ。だってほら、私、埼玉だから」

「それに対して、なんて返したら良いかわからないよ」

 祐子はこんなふうに採用面接も楽しんでいたのかもしれない。その神経の図太さを自分にも分けて欲しいと博志は思った。


 面接を翌日に控えた金曜日、会社で同期の吉村と出会って、休憩スペースに行き雑談をしていた。

「オレ、明日面接なんだよ」

「え? 転職すんの、お前?」

「違うよ。引っ越すんだよ」

「なんだ。でも、引っ越しと面接がどう関係あるんだよ?」

「なんか引っ越し先の大家がどんな住人か見たいらしいよ」

「へえ。用心深い大家だな。まあでも北川1人だったら怪しむよな」

「どういう意味だよ!」

 博志はツッコミながらも余計な話題を振ってしまったと内心焦っていた。吉村にはまだ祐子と結婚を前提に付き合っていることを伝えていなかった。話の流れで言わざるを得なくなったら言うことにして、それまでは自分から話さないでおこうと決めていた

「で、吉村のほうはどうなの? 順調?」

「まあ仕事はぼちぼちだけど、プライベートがなかなか……」

「彼女できないの?」

「できないよ。こんなに女性に尽くしても、相手には伝わらないみたいだ」

 吉村は二枚目だし、おばちゃんのような世話好きなところもある。モテそうに見えるのに彼女ができない理由がわからないのは、博志もまだまだ女心がわかっていないからだろうか。

「吉村はモテるし、焦ることはないでしょ」

「どうなんだろうね。北川ぐらい彼女いらないオーラを放ってゆったり構えているほうがモテるのかもな」

 博志自身は彼女いらないオーラを放っているつもりはないが、ゆったり構えているように見えるのは、祐子という彼女がいる余裕から来ているのかもしれない。

「で、どこに引っ越すの?」

「……西新宿」

「西新宿ぅ!? すごいところに引っ越すんだな。西新宿になんて人が住めるのかよ?」

「中野近辺で探してたんだけど、不動産屋が西新宿の物件を出してきてさ。ここが良いなって」

「ふうん。北川は関西人だから『新宿』の文字に目がくらんだか?」

 目がくらんだのは埼玉人の祐子だったが、博志は「そうかも」と含み笑いでごまかした。

「オレ、たまに新宿でコンパするから、終電がなくなったら泊めてもらおうかな」

「事前に言ってくれるなら別に良いよ」

 どうせそのときに祐子の存在もばれるだろうから、同棲することを今言わなくても良いと思った。


 いよいよ大家との面接の日になった。博志は目が覚めて、まるでムサシファーマシーの最終面接を受けに行ったときのような、妙な緊張感を覚えた。もし面接で落とされたら前代未聞なのではないか、末代までの恥なのではないか、新田不動産の新田にも笑われるのではないかと悪い方向にばかり思考が進んでしまった。

 「面接会場」は新田不動産だった。大家がわざわざやってくるという。祐子とは中野坂上の改札で待ち合わせをし、2人で新田不動産に向かった。何度か来ている場所なのに、新田不動産のドアを開けるのが少しためらわれた。博志は祐子の顔をチラッと見たが、祐子は店舗に貼られている物件の間取りを眺めており、緊張している素振りも見せなかった。就職活動の面接とは違い、今回は2人だから大丈夫かと、祐子の存在を心強く思った。

 新田不動産の中に入ると、「大家」はすでに来ており、新田とともにパーティションの奥から出てきた。

「はじめまして。帝都開発の上杉と申します。今日はご足労いただきありがとうございます」

 上杉は挨拶と共に名刺を差し出し、博志が受け取った。上杉は丸刈りで生え際にそり込みを入れており、口ひげを生やし、眉毛も驚くほど細く整えられていた。180cm・100kg程度の大男で、ロングコートを着てセカンドバッグを持ちサングラスをかけていたら、間違いなく「そっち系」の人だった。

「上杉さんはね、こんな見た目だけど、とても優しいですからご安心ください」

 博志が上杉の名刺を持ったまま突っ立っていたからか、新田がすかさずフォローを入れた。

 面接に新田は参加せず、博志、祐子、上杉の3名で行われた。上杉は強面なのに笑顔がかわいらしく、しかも少し声が高かったので、博志はそのギャップで笑いそうになったが、博志たちの話を聞くときの上杉は眉間にしわを寄せて、メンチを切っているような表情をするので、博志はどちらが本当の上杉なのか、判断がつかなかった。

 それほど突っ込んだ話は聞かれず、博志たちも正直に自分たちはまだ結婚していないことを伝えた。上杉の人の話を聞くときの表情を見ると、「単なるカップルの分際でウチのマンションを借りるなんて、10年早えんだよ!」と威圧されているような気がして、博志は萎縮しそうになったが、上杉の質問に対して博志が少しでも黙っていると、すかさず祐子が回答してくれた。上杉は祐子の話を聞くときも眉間にしわを寄せていたが、祐子が話し終わると途端に笑顔になるので、この場は祐子に任せたほうが良いと思った。

 上杉は一通りの質問を終えたようで、「最後に何かご質問はありますか?」と逆に質問を求めてきた。博志は早く面接が終われば良いのにと思っていたので、「あり……」と言いかけたところで祐子が割って入った。

「敷金2ヵ月、礼金3ヵ月となってますけど、礼金はもうちょっとなんとかなりませんか?」

 博志にとってはまさかの値下げ交渉だったので、手のひらと腋に嫌な汗をかいた。そんなことをして、今晩自宅を襲撃されたりしないだろうか。家族にも遺書をしたためていないから、捜索願が出されるかもしれないなあ、もっと親孝行しておけば良かったと博志は後悔した。でも襲撃されるとしたら祐子と一緒だろうから、彼女と一緒にあの世に召されるなら何も言い残すことはないと、過去の思い出が走馬灯のように流れた。

「では、礼金も2ヵ月にしましょう」

 博志の辞書には「上杉の快諾」という言葉はなかったので、一瞬何の話をしていたかわからなくなった。しかし、徐々に状況が飲み込めて博志の焦りは驚きに変わった。祐子の交渉力に舌を巻いた。いや、無謀な勇気と言ったほうが正確だろうか。とにかく、祐子には一生ついていこうと心に決めた。

「以上でよろしいでしょうか? では、これから本契約に移りますので、もうしばらくお時間をください」

 上杉はおもむろに書類を取り出し、博志たちにサインを求めた。博志は面接ではまったく役に立てなかったので、一応「世帯主」である以上、せめてハンコをきれいに押すことだけでも契約に貢献しようと思った。しかし、ハンコを持つ手が震えていた。

「高い買い物ですものね、腕が震えて当然ですよ」

博志は「武者震いじゃなくて、お前に怯えてるだけだよ!」と言ってやりたかったが、負け犬の遠吠えのように感じられたので、グッとこらえた。祐子は博志の震えなど意に介さず、自分の携帯電話をポーチから取り出していじり出した。それを見ると、自分はいったい何に怯えているのかと馬鹿らしくなり、手の震えが止まってきれいにハンコを押すことができた。

 その後、引っ越す際の注意事項やペットの飼育禁止など、マンションでのルールの説明を受けた。面接から説明まで1時間程度だった。新田不動産を出る際に、新田が「お疲れさん」としか言わなかったのは、やはり面接が「人を落とすため」のものではなく、単にどんな人間が住むのかを確かめるものだったからだろう。

「面接、無事に通過して良かったね」

 新田不動産を辞すると祐子が話しかけてきた。

「ゆうこりんって度胸あるよね。よく値下げ交渉なんてできたよね」

「え、値下げ交渉は関西人の基本なんでしょ? ヒロくんが礼金はゼロにしろとか言いやしないかと心配だったから、先に言っちゃった」

「え、俺はそんなえげつないことはしないよ。それはともかく、上杉さんって怖くなかった?」

「別に。新田さんが『優しい人』って言ってたじゃん」

「そうだけど、話を聞いているときもメンチ切ってるし」

「たしかにあの見た目で接客しているのはどうかと思うけど、実際に問題が起こって困るのはあっちだし、お金を払うのはこっちだし」

 祐子はどこまでも冷静だった。ときどきネジが外れたかのように天然キャラが暴走することもあるけれど、普段の祐子はどれぐらい修羅場を乗り越えてきたのだろうかと思うぐらい、何事にも動じなかった。博志は同じ年なのに、祐子のほうがだいぶ「お姉さん」のように思えた。

 正式に新居の契約が決まり、引っ越しの段取りを進めていくことになった。しかし、ちょうど新年度を迎える時期だったので、引っ越し業者も超繁忙期だった。そのため、土日の引っ越しは難しく平日ならかろうじて空いているということで、博志は有給休暇を取って引っ越しを行うことにした。金曜日であれば、その後の土日で荷ほどきができるし、その前日の木曜日は日付が変わるぐらいまで残業することになりそうだけれど、なんとか耐えられそうな気がした。

 祐子も同じ日に引っ越しができるよう、引っ越し会社をそろえ、うまく融通を利かせてもらうことができた。祐子の姉の明実は、「結婚する私よりも先に男と一緒に住むってどういうこと?」と皮肉っていたそうだが、妹との同居が終わってしまう寂しさと新生活へのエールが混じった言葉なのだと、祐子は自己解説していた。博志には明実の皮肉が本心のように思えたが、特に何も言わなかった。

 引っ越しの日取りも決まり荷物もほぼ詰め終わったころに、博志は祐子の両親に挨拶をしていないことに気づいた。自分の両親には同棲はもちろん、彼女ができたことさえ伝えていなかったが、さすがに祐子の両親には挨拶をしておかないとまずい気がした。付き合うだけならまだしも、結婚を前提にした同棲である。博志の存在はすでに明実の口から知らされているらしいので、「いつになったら挨拶に来るのか」と思われないうちに済ませておいたほうが良いと思った。

 祐子に挨拶のことを伝えると「別に良いよ、結婚するときで」と遠慮していたが、それでは博志の気が済まないと、半ば強引に会いに行く日を決めた。

「だったらさ、ついでにヒロくんのご両親にも挨拶に行こうよ」

 博志の実家への挨拶……。やはり避けて通れないだろうか。特別に疎遠というわけではないが、なんとなく両親に自分の彼女を紹介するのは恥ずかしかった。今まで自分の彼女を紹介したこともないし、親のほうからも博志の恋愛事情を尋ねられたことはない。聞いてこないということは興味がないのだと勝手に解釈をして、どうせなら結婚するギリギリまで言わないでおこうかとも考えた。しかし一方で1回済んでしまえば、あとは会わせなくてもいいだろうから、とりあえず1回だけ我慢すれば楽になれるとも思えた。2つを天秤に掛け、博志は腹をくくることにした。

「じゃあ、ついでに今度、奈良へ行こう。ゆうこりんのルーツがあるかもしれない」

「うん、いいよ。でも奈良に私のルーツがあるって、どうやって調べるの?」

「……」

「それに、奈良家が本当に奈良県から来たのかもわからないし」

 博志は時折、自分が祐子以上の意味不明発言を行っていることに気づいていなかった。


 引っ越し当日までに、仕事終わりの時間や休日を利用して荷造りを行った。大学を卒業して社会人デビューのときに上京して以来の引っ越しだったが、思いのほか荷物が増えていることに気づいた。調理器具や家具などは上京してから購入したし、本や衣類も増えていた。タンスには祐子のお泊りセットも入っていたので、荷造りをするときになんだか胸がドキドキした。胸の高鳴りだけでなく性欲の高まりも感じた博志は、タンスにある祐子の下着のにおいを嗅ごうとしたが、もしこの瞬間に心臓麻痺が起こって自分が死んでしまったりしたら、下着のにおいを嗅いだ姿勢で倒れてしまうことになるので、「青年の病死」ではなく「変態の悶絶死」になってしまうことを恐れ、下着ではなくせめてTシャツのにおいにしようと、Tシャツを鼻に押し当てた。しかし、Tシャツは洗剤の香りしかせず、祐子の残り香は一切なかった。博志は舌打ちをして祐子のTシャツと下着をダンボールに放り投げた。

 テレビや冷蔵庫といった大きな家電や照明類は当日に作業員が荷造りをしてくれるというので、そのままにしておいた。冷蔵庫の中にある使いかけの野菜や冷凍の豚肉などは処分した。これらは博志が調理するものではなく、祐子が家に泊まりに来たときに調理してくれていた食材だった。次の家ではもう少し料理ができるようになろうと思った。

 荷造りは順調に進んでいたが、3日後に引っ越しを控えた日のこと。お互い仕事を定時で終えて、西新宿で待ち合わせをした。新居には行かなかったが、今後お世話になる西新宿の街を散策しようと博志が提案したのだった。大きなオフィスビルの1階にあるバーで食事をした。

「そういえばさ、ヒロくんってタンス持ってたよね?」

最近は2人が顔を合わせると、決まって引っ越しの話題になる。

「うん、持ってるけど」

「引っ越しのときに捨ててね」

博志は思わず祐子を二度見してしまった。

「はあ? じゃあ、服はどこにしまえばいいのさ?」

「プラスチックのケースを買えばいいじゃない?」

「ケースはどこに置くの?」

「押し入れしかいないでしょ?」

「布団も入れるのに、さらにケースなんか入るの?」

「それを工夫するのが生活の知恵ってもんでしょ!」

 博志と付き合い始めてから、祐子はとても短気になったように博志には思えた。実際は元々短気だったのかもしれないが、少なくとも知り合った当初はとても温厚な人当たりの良い女性という印象しかなかった。裏を返せば、博志の前では素の自分を出せるということなのかもしれなかったが、博志には「今のは怒るところなのだろうか」と疑問に感じる場面も多々あり、今度のタンスの件もまるでタンスを所持していること自体が悪いかのように聞こえた。

「家を探すときにどうして収納スペースを気にしなかったんだろうって後悔してるの」

「仕方がないよ。いくつか物件を見たけど、収納の広さをアピールしているものはなかったように思う」

「2人で住んでるうちは良くても、もし子供でもできたらタンスが本当に邪魔になるよ」

 一見、祐子は博志にタンスを捨てさせるために大げさに言っているのかと思ったが、冷静に考えると家族が増えれば、子供の衣類やおもちゃを収納するスペースが必要になるので、至極まっとうな意見だった。博志は素直に祐子の意見に従いたくなかったが、彼女の言い分にも一理あるので、タンスの処分を真剣に考えようと思った。

 引っ越し当日は金曜日だったので、平日にいつもよりも遅くまで寝ていられることがとてもうれしく思えた。とは言え、前日は日付が変わるころまで仕事をしていたので、睡眠時間は普段とあまり変わらなかった。それでも、いつもより遅い時間に起きるというだけで、目覚めはスッキリしていた。トースターなどの小さな家電はすでにダンボールに詰めていたので、今日の朝食はコンビニで購入したパンと野菜ジュースだった。

 東久留米を離れることへの特別な思いは込み上げてこなかった。市外局番が4ケタから夢の2ケタになることの喜びのほうが大きかった。1台のトラックに乗って2人の作業員がやってきた。2人は会話をすることもなく、黙々と作業をしていた。博志は2人をねぎらうためにせめてお茶でも差し入れをしようと、作業員に少しだけ不在にすると声をかけ朝食を買ったコンビニに行った。お茶の種類が多く、緑茶にすべきか、烏龍茶のほうがぐいぐい飲めるのではないかとか、こういうときはほうじ茶がいいのだろうかとか、力仕事だからお茶よりも糖分があったほうがいいのではないかとか、いろいろ考えた末にミネラルウォーターを2本買って帰った。博志はコンビニで相当迷っていたらしく、家に戻ると荷物はほぼトラックに積み込まれていた。

「荷物は以上で全部積み込まれたでしょうか?」

 作業員の問いかけで博志は部屋中を見渡し、ダンボールがなくなっているのを確認して「はい」と答えた。

「では、15時にご新居のほうにうかがいます。お水はありがたくいただきます」

 作業員はてきぱきと話し、もう一人の作業員も帽子を取って博志に一礼し、2人は駆け足でトラックに乗り込み、足早に去って行った。前よりも荷物が増えたと言っても所詮単身者の住まいだから、2トントラックで十分荷物が積める量だった。作業も1時間程度で終わってしまい、今はまだ午前10時過ぎだった。これから午後3時までどうやって時間をつぶそうかと博志は考えを巡らせた。池袋は会社の人間に会うかもしれないし、新宿の街を散策することにした。2年以上もの間、毎日のように玄関の扉に鍵をかけたが、もう二度とこの家に来ることはないのだと思うと、鍵をかけるという何気ない行為にも感慨深さを感じた。意味もなく何度も開閉作業を繰り返した。廊下を歩き、階段に差し掛かったところで、どこかで自転車のブレーキが「キーキー」とかまびすしく鳴っているのが聞こえた。この時間帯だからどうせじいちゃんかばあちゃんが乗っている自転車だろう。それにしても、どうして彼らのブレーキは全国的にあんなに不快な音を立てるのだろう。もう年老いて耳が遠くなって、ブレーキ音も気にならないのだろうか。自分の自転車はまったく音を立てないのになあ……。

 そこまで考え事をして初めて、博志は自分の自転車がマンションの駐輪場に置きっ放しになっていることに気づいた。完全に忘れていた。業者に積み忘れがないかと聞かれたときに、室内ばかりを気にしていた。自転車は毎日乗るわけではないから存在自体が脳から消去されていた。引っ越しの見積もりの際にも自転車があることを伝えていなかったかもしれない。どうせならこのまま置いていこうかとも思ったが、マンションの共同の駐輪場に停めるために必要な部屋番号のシールが貼られているので持ち主が特定されるし(防犯登録されているので、部屋番号のシールがなくても持ち主は特定されてしまうことに博志は気づいていなかった)、西新宿でも乗るかもしれないので、仕方なく東久留米から西新宿まで自転車で移動することにした。幸いにも自転車の鍵は家の鍵などとともに同じキーチェーンに取り付けられており、引っ越しの荷物と一緒に入れるという失態は免れた。。

 博志は時間を持て余すと思っていたから、自転車で移動するのはちょうどいい時間つぶしになると思ったが、どのぐらいの時間がかかるのか皆目見当がつかなかった。以前、新宿方面に営業車で回ったときに青梅街道を通り、それが東久留米の自宅からそう遠くないところを走っていることは知っていたので、青梅街道に出て方角さえ間違えなければ新宿に到着できるだろうと博志は予測した。

 青梅街道は自宅の南側にあったという記憶だけを頼りに南に進むと、程なく「新青梅街道」と書かれた標識を見つけた。新宿で見たのは「青梅街道」で「新」は付いていなかったように思ったが、記憶違いの可能性もあったので、博志は新青梅街道を左に曲がった。最初の行き先案内で自分の進んでいる方向の先に「新宿」と書いてあったので、そのまま進んだ。ひょっとしたら午後3時には新宿に着けないかもしれないから、博志は一心不乱に自転車のペダルを漕ぎ続けていたが、気づいたときには「青梅街道」を走っていた。きっと新青梅街道が途中から青梅街道に変わるのだろうと言い聞かせ、気にせずに先を急いだ。まだ桜が咲き始めたころで、晴れてはいたものの肌寒い日だったため、博志はコートを着ていたが、いつの間にか青梅街道に入っていたころにはうっすらと汗ばんでおり、コートは早々に脱いで自転車のかごに入れた。

 青梅街道はそれほど急な坂もなく、午前中のうちに23区内に入ることができた。ただ、西新宿があとどれぐらいなのかはまったくわからなかったので、途中で休憩を挟んで食事にするよりも中野あたりまでは行ってしまおうと思った。中野の隣は新宿ということぐらいは、関西人の博志でもわかった。

 ずっと自転車をこぎ続けていると、会陰部が痛くなってきた。空腹感や尿意も覚えたので休憩しようと思ったが、せめて中野区に入るまでは我慢することにした。やがて「中野区」と書かれた標識が見えてきたので、中野区に入って最初に見えたコンビニに入って、トイレを済ませ、パンと野菜ジュースを買った。東京はラーメン店が多いから、行列ができているラーメン店を見つけたらそこで休憩しようと思っていたが、そんな余裕はなさそうだった。引っ越しとはいえ、せっかくの有給休暇なのに、普段の平日よりも慌ただしい昼食だなんて、ひどく損をした気分になった。自転車のペダルを漕ぎながらパンを食べていたが、ふと朝もパンだったのに、どうして昼はおにぎりにしなかったのだろうと激しく後悔した。

 祐子もこの日は仕事を午前中で切り上げて、午後から荷ほどきをすると話していた。博志が本日2度目のパンの食事を終えたころ、携帯電話に祐子からの着信があった。

「仕事終わったんだけど、お昼食べた?」

「うん、もう食べちゃった」

「えっ、そうなんだ。せっかくだから一緒にラーメンでも食べようと思ったのに」

「ごめんごめん。ゆうこりんが仕事が延びるかもって言ってたから、ラーメンがのびないうちに先に食べちゃおうと思ってさ」

「たしかに言ったけどさ。で、今どこにいるの?」

 「仕事が延びる」と「ラーメンがのびる」のシャレは祐子にスルーされてしまった。無視をされた虚しさに包まれた博志は、しばらく無言だった。

「ねえ、聞いてる?」

「ああ……ごめん。実はまだ東久留米にいてさ。ゆうこりんが新居に向かうならオレも行くよ」

「うん。まあご飯食べてからだから、まだ1時間以上はかかるけどね」

「ゆっくりしておいでよ」

「ありがとう。ていうか、東久留米で何してるの?」

「え? あ、まあ、もう来ないかなと思って名残を惜しんでました」

「まあどうでもいいけどさ。じゃあ15時に現地でねー」

 博志は自転車で移動していることは一切伝えなかった。自転車を積み忘れたことを、なんとなく祐子には知られたくなかった。だから「(東久留米にいようが、いまいが)どうでもいい」と言われても、自分の失態を隠し通せたことで満足していた。だが、最後まで隠し通すには、なんとしてでも15時までに新居に着いて駐輪場にこの自転車を置いておかねばならなかった。

 中野坂上の交差点までたどり着き、信号待ちの際に時計を見たら14時7分だった。どうやら15時までには間に合いそうだった。しかし、博志は「新宿」の看板を頼りにしていたので、中野坂上交差点で右折すべきところを直進してしまい、新宿西口まで来てしまった。新宿は平日でもビジネスマンや買い物客でごった返しており、自転車に乗っていてもなかなか前に進めなかった。結局、新居まではほとんど徒歩で向かうことになり、新居に着いたのは14時48分だった。最後には走りだしていた博志は、コートを脱ぎたくなるぐらい汗をかいていた。若干息も切れていた。

 どうやら祐子はまだ来ていないようだった。ただし、引っ越し業者はすでに来ていたようで、博志の姿を確認し程なくマンションの前までやってきた。

「お疲れさまです。あれ、自転車買われたんですか?」

「いや、実は駐輪場に自転車を置いていることをお伝えし忘れてしまって……。ここまで乗ってきました」

「マジですか! 確認しなかったこちらのミスです。申し訳ありません」

「いやいや、僕もすっかり忘れていました。あのう、もうすぐ奥さんが来るんですけど、自転車で来たことは内緒にしておいてもらえませんか?」

「ええ、いいですよ。ウチもそのほうが積み込み忘れがあったことを隠せますんで」

 男同士の約束だね、と博志は心の中でつぶやいた。隣にいたもう一人の作業員もにっこりと微笑んでいた。荷物を積み込むときはしっかりと見なかったが、目の前の2人は博志よりも若いのではないかというぐらい、あどけなさが残る顔立ちだった。

「じゃあ、荷物を入れていきますので、ドアの鍵をお願いします」

「はい。ちょっと先に自転車だけ駐輪場に置かせてください」

「ええ、もちろん!」

 博志はマンションの駐輪場に自転車を停め、作業員はトラックの後ろの扉を開け、荷物を積み下ろす準備をし始めた。自転車を停めた博志はエレベーターで403号室まで行き、ドアの鍵を開け中に入った。なんとか汗を引かせようと、博志はバルコニーに出て外気で身体を冷やしていた。程なくして祐子から電話がかかってきたので、バルコニーにいることを伝えると、まだ身体はほてっていたが「アリバイ工作」のためにコートを羽織った。祐子は2分ほどでやってきて、博志と同じようにバルコニーに出た。

「おつかれー」

「とうとう引っ越したね」

「うん、同棲するんだよ、オレたち」

「なんか夢みたい。しかも西新宿で」

「興奮するよね。なんだかオレ、汗かいてきちゃった」

「ええ!? 今日はけっこう寒いよ」

「だってほら、汗出てるでしょ?」

「もう、わかったから汗をつけないで!」

 じゃれ合うカップルのようにおどけて見せた博志だったが、本来の目的はもちろん自転車で来たことを隠すためだった。祐子は微塵も疑っていないようだった。

「ヒロくんとの同棲、西新宿での生活……。どんな未来が待ってると思う?」

「どうだろうね。まあ結婚することだけはわかってるけど」

「ええ、そうなの? 別れるかもしれないよ?」

「結婚を前提に、って言ったの、ゆうこりんでしょ?」

「今はそうだけど、心変わりするかもしれないし、ヒロくんが浮気するかもしれないしね」

「オレは大丈夫だよ」

「男のそのコメントは信用できません。……あれ?」

「え? どうしたの?」

「あそこ……」

 祐子が指さした方向には、駐車スペースから生えている大木だった。よく見ると、枝の間に青いハンガーのようなものが幾重にも積み重なっていた。

「ハンガー、かな?」

「ねえ、もしかしてあれってカラスの巣じゃない?」

「うそ? こんなところに巣を作るの?」

「知らないけど、よくカラスって針金のハンガーを取って行くって言うじゃん」

 博志はそんな話を聞いたことはなかったが、カラスならなんでも持って行きそうなのであり得る話かもしれない。

「それに、木の下のところが白くなってるのって、糞じゃない?」

「ああ、たしかに」

「大家さんに言って駆除してもらおうよ」

「そ、そんなこと、大家さんにできるのかな?」

「じゃあそのままにしておくの?」

「そもそもカラスの巣かどうかもわからないでしょ。今は姿が見えないし」

「カラスじゃなくても鳥の巣であることは間違いない」

 この後の対応はとりあえず荷ほどきが終わってから考えようと祐子に提案し、博志はその話題は終えた。祐子は巣らしきものを見つけてからというもの、ずっと不機嫌そうな顔をしていた。

引っ越し当日は2人の寝具とアメニティグッズを取り出した以外は荷物に手を付けず、翌日以降本格的に荷ほどきをすることにして、2人は寝ることにした。今まで2人で同じ布団に入るときには、手をつなぐなりカップルらしいことをそれなりにしていたが、今日は初めて何もせずに、ただ布団を並べて眠っただけだった。博志は夜中に何度か目が覚めたが、それは祐子が横に寝ているという緊張からではなく、単に新しい環境に慣れていないためだった。

 荷物が増えたとはいえ、2人がそれぞれ土日をかけて黙々と片付けを行ったことで、週明けにはほとんどダンボールは解体された。博志が旧居でタンスに入れていた衣類も、新宿駅近くのホームセンターで購入したプラスチックケースに入れ、その上に布団を入れるための仕切り板を設置し、布団を収納したらうまく押し入れスペースに収まり、さらにまだ荷物が入りそうなほどの空きができた。

 博志はこれまであまり収納術について考えてこなかったが、祐子の手際の良さには思わず舌を巻いた。「すごいねえ、全部収まっちゃった」と言葉を漏らした博志のほうを見て、祐子は無言のまま、右手の人差し指で自分のこめかみあたりを何度か叩いた。

 その翌日には、新宿西口にある家電量販店に行き、固定電話機と念願の東京03の電話番号を手に入れた。加入権というもの入らねばならず、数万円を払ったが、これも「03」を手に入れるためなら安いものだと気にならなかった。その後、博志が方々に電話番号を伝えまくったのは言うまでもない。


 新宿から祐子の実家がある埼玉県志木市には電車で1時間程度で行けるため、引っ越しをした翌週に行くことになり、博志の実家がある大阪府豊中市には5月の連休を利用して帰省することにした。

 博志は祐子の両親に会うのは初めてだったが、結婚の挨拶ではないし、両親も同棲には反対していないということをあらかじめ聞いていたので、それほどの緊張感はなかった。山手線で池袋まで行き、そこから東武東上線に乗り換えて、志木駅まで移動した。志木駅から徒歩10分ほどで着くということだったが、博志には15分にも20分にも感じられた。ようやく到着した祐子の実家は、昭和時代に建てられた屋根瓦のある2階建ての建物だった。玄関の前には車を停めるスペースと門扉があり、門扉の横には白い大理石に黒字で「奈良」と彫られた表札が石柱に嵌め込まれていた。祐子はそれを指さし「ここは埼玉だけどね」と、博志に話しかけるでもなく独りごちた。博志は笑えなかったので、多少なりとも自分は緊張しているのだと感じた。

玄関に入ると、特に誰も迎えに来ず、祐子に導かれるがまま、廊下の奥にあるリビングへ通された。リビングのソファには祐子の両親らしき男女が腰掛けており、博志の姿を確認するやいなや、立ち上がった。

 祐子の両親はそれぞれ「昇」「寿美江」と名乗った。祐子の容姿は父親似だと思った。母の寿美江は初対面にもかかわらず、もう何度も会ったことがあるかのように「博志くん」と気軽に話しかけてきた。祐子の性格は母親似のように思えた。父の昇は寡黙なタイプで、博志も自分から積極的に話しかけるほうではなく、寿美江と祐子が何度かキッチンへ移動することがあったので、リビングに2人だけになると、まるで座禅を組んで修業をしている僧のようにうつむいて無言になっていた。祐子の実家近くには東武東上線が走っており、無言のときに電車が通り過ぎると、車輪が線路をこすって咬む音が響いた。寿美江と祐子がリビングに戻ると、花が咲いたかのようにいっぺんに賑やかになった。昇は寿美江と祐子がいるとそれなりにしゃべりだすので、博志は祐子の父に気に入られていないのかと不安になったが、後日昇が「ウチの家系にはあまり関西の人がいないから、もっと賑やかな家系になるだろうね」と話していたと祐子から聞き、博志はホッと胸をなでおろした。

 5月の連休を迎え、今度は豊中市の博志の実家を訪れた。母・美智世には事前に紹介したい人がいると電話で伝えていた。

「その人、東京の人とちゃうの? そんな人とホンマに結婚するの?」

 美智世は相手が東京の人間かどうかをえらく気にしていた。まだ「結婚するつもり」であることも話していないのに、気が早っているようだった。博志が「埼玉の人」と伝えると、美智世は「やめとき、あっちの人とは」とあからさまに反対した。父の義弘も関東の人間でも構わないが同棲には反対のようだった。しかし、すでに同棲は始めているので、言いたいことがあれば会ったときに詳しく聞くと伝え、一刻も早く電話を切ろうとした。美智世が「あんた、同棲したら相手を妊娠させてしまうで」と、まるで息子を獣か何かと勘違いしているかのような忠告を発したので、博志は何も言わずに受話器を置いた。

 博志も「できちゃった結婚」には否定的だったし、祐子と同棲しても「妊娠したから結婚」ということにだけはならないように心掛けるつもりだった。しかし親の世代にはまだまだ「同棲」が市民権を得られていないようだった。5分と経たずに美智世から電話がかかってきて、「息子が彼女と同棲しているだなんて親戚にもご近所にも伝えられない」と悲観的になっていた。博志は大阪に帰るのはやめようとまっとうな理由とともに祐子に提案したが、祐子まで「それは私を結婚相手として紹介したくないからか?」と怒り出す始末で、博志は諦めて大阪に向かうことにした。

それにしても、美智世の東京に対する過剰なまでのアレルギー反応はいったい何なのか。まだ何も始まっていないのにすべてが終わったようなことを言われ、大阪へ向かう新幹線の中では、まるでこれから得意先に謝罪しに行くかのような憂鬱な気分だった。


博志の両親と祐子の顔合わせが終わり、祐子がトイレに行った。

「東京にもあんなにええ子がおるんやねえ」

「うん、奈良さんっていうぐらいやから関西と縁のある人なんかねえ」

両親は先日とは打って変わり祐子を大歓迎し、1日でも早く結婚して孫の顔を見せてほしいと、同棲の許可も出した。博志は自分の親の変わり身の早さに呆れていたが、祐子をはじめ、東京の人間への偏見が少しでもなくなってくれたのなら、会わせた甲斐があったと感じていた。

 せっかく関西に来たので、博志と祐子は実家を出た後、奈良市内の観光に出かけた。

「自分の苗字と同じ駅に来た感想はどうですか?」

近鉄奈良駅に降り立って、博志は祐子に尋ねた。

「別に」

それっきり、奈良家のルーツ探しも行われることはなかった。博志はなんとなく気まずくなり、自分から話題を振ることができなくなった。

「まあでも、ヒロくんのご両親が私のこと、認めてくれたみたいで良かった」

 奈良公園を歩いているときに前を通りかかった鹿の背中をなでながら、祐子がボソッとつぶやいた。肝が据わったような性格の祐子でも緊張していたということか。彼女にとっての一大イベントを経験した日に、横でシャレを言って笑いを取りに行き玉砕した自分の馬鹿さ加減を反省した。


 5月の連休も終わり、本格的に新居での生活が始まった。博志は職場がとても近くなり、祐子にお腹のたるみを指摘されたこともあって、自転車で職場まで通うことにした。東久留米から新宿まで自転車で移動したことで、博志は心地良い疲れと自転車に乗る楽しみを同時に味わい、以来近場への移動は車から自転車に変わった。新居の駐車場代が月に4万円ということも、切り替えの理由だった。駐車場に生えている大木にある巣らしきものは、カラスが住処にしていることがわかり、早朝に目覚まし時計がいらないぐらいうるさく鳴くので、博志は大家である上杉に電話で苦情を訴え、1週間以内に除去してもらった。博志は大木ごと切ってくれるものかと思っていたが、巣だけが除去された。上杉の話では、ご神木なので切ることはできないということだったが、それであればご神木があるところにそもそも駐車場を作ること自体がおかしいのではないかと博志は疑問に感じた。それでも巣が除去されたのであれば、ご神木であろうがなかろうが、博志にはどちらでも良かった。

 ご近所への挨拶も欠かさなかった。このマンションは1LDKなど、単身者用の間取りもあり、博志のようなカップルで住んでいるところもあれば、独り暮らしをしている人も多いようだった。両隣は何度インターホンを鳴らしても応答がなく、下の階の住人は老夫婦のようで、ほとんど外出することはないらしく、一度の訪問で挨拶を済ませられた。不在の両隣はそのうち会うだろうからそのときに挨拶をすればいいと思い、これ以上訪問はしなかった。表札に名前が出ていないので、誰が何人で住んでいるのかまったくわからなかった。

その後、どうやら右隣は単身者のようだと推測でき、夜勤の仕事をしているのか、ほとんど人の気配が感じられなかった。左隣は博志たちと同様にカップルのようだったが、電気がついているときにインターホンを鳴らしても居留守を使われたことがあり、姿を確認することがしばらくできなかった。東京は他人に無関心と言われるが、隣が引っ越してきたことぐらいはわかりそうなものだから、せめて挨拶ぐらいはさせてほしいと思った。博志はこれが新宿の厳しさだと勝手に解釈していた。

 引っ越して1ヵ月ぐらい経ったある日、博志は残業で帰りが遅くなり、家に着くのが日付が変わってからになった。会社から家が近くなって自転車通勤に切り換えたことにより、終電を気にしなくて良くなった。東久留米時代も終電がなくなりそうになったら営業車で帰っていたが、今度は家までたった数キロという安心感からか、仕事がついつい遅くなりがちだった。

 祐子は0時前に「もう寝ます」とメールを送ってきていた。博志も早く帰って眠りたいと思っていた。自宅のマンションに着き、自転車を駐輪場に停め、エレベーターに乗ろうとすると、後ろから走ってくる足音が聞こえた。博志はエレベーターの中に入って「開」ボタンを押したまま、足音の主がやってくるのを待った。

 程なくやってきたのは背中まで伸びた長く茶色い髪にウェーブをかけ、派手に着飾ったいかにも水商売風の若い女だった。うつむき加減だったので顔ははっきり見えなかったが、見えないのはまるでカラスが羽を広げたかのように幾重にも盛られた付けまつげやマスカラのせいかもしれなかった。さすが西新宿だけあって、多様な職業の人が住んでいるマンションだなと、博志が東久留米とのギャップを感じながら、博志は「閉」のボタンを押そうとした。

「……5階」

 思わず博志のボタンを押そうとする手が止まった。間があったので、エレベーターのドアは勝手に音を立てて閉まりだした。博志はそのまま階数表示ボタンを見つめていた。

「だから5階」

 博志は反射的に「5」のボタンを押した。エレベーターはすでに上昇を開始していた。博志は思わず後ろを振り返ったが、水商売風の若い女は博志の視線をまったく気にすることなく、ハンドバッグから取り出した手鏡で自分の顔を見ていた。女の顔を正面から見ると、真っ黒に縁取られた目の奥にうっすらと青い瞳があった。付けまつげのせいで瞳がほとんど見えないのにカラーコンタクトなど入れても仕方がないだろうと思うと、博志は吹き出しそうになったので慌てて前を向き、笑いをせきでごまかした。エレベーターは4階で停まり、ドアが閉まると同時に「さすが新宿だなあ」と上を向いて息をついた。

 エレベーターから自宅のドアまで歩いている間に、上の階からハイヒールで地面を叩く不快な足音が聞こえてきた。そして、こちらも大きな音で玄関の扉を閉める音がした。東久留米とは同じ東京都の出来事とは思えなかった。東京にはすっかり慣れたと思い込んでいたが、新宿はまるで「別の国」だった。ていうか、あんな女も上杉は面接したのだろうか。やはり「面接は形だけ」と話していた新田が正しかったのかもしれない。だったら、面接をする意味なんてないのではないか。いや、そもそも女のパトロンなどが代わりに面接をして、あの女を住まわせているのかもしれない。いや、それだったら賃貸のマンションなんかにするだろうか……。

 博志は自分の家の玄関の前でしばらく考え込んでいた。エレベーターが下に向かって動き出す音がしたので、博志は我に返って家の中に入った。祐子は寝室で博志に背中を向ける格好で眠っていた。寝室の電気をつけるわけにはいかないので、玄関の灯りを頼りに博志はぼんやりと見える祐子の寝顔を眺めた。少し口を開いていたが、さっきのエレベーターの女と同じ人種とは思えないほど、かわいらしい顔をしていた。


 5月も中頃に差しかかり、日中は汗ばむ日も出てきた。祐子との同棲生活は順調で、祐子は極力家事を担当してくれたので、博志は今まで全部自分でやっていた家事から解放され、恋人の存在の大きさを感じるとともに、今まで実家では母親がすべて家事をやってくれていたのだと、ようやく親のありがたみを噛みしめられるようになった。

 一緒に住むようになって「オフ」のときの祐子を初めて見たが、これまでの「オン」のときと大差はなく、自分の目を疑うような奇行は見られなかった。そのうち、博志の前でも堂々と鼻をほじったり、放屁したりするのかと思っていたが、まだ恥じらいがあるのかどちらも見られなかった。着替えでさえ、博志の見えないところで行っていた。博志も祐子に気をつかって、なるべく裸(パンツ1枚)で過ごさないようにした。

若い男女が一緒に住めばある意味当然の成り行きかもしれないが、博志は平日の仕事で帰りが遅くなっても、毎日のように祐子の身体を求め続けた。祐子も日中は働いているので疲れて嫌がる日もあったが、ほとんどは受け入れてくれた。

 あるとき、博志の帰りが0時を回っていたにもかかわらず、博志は眠っていた祐子を無理やり起こして、事に及んでいだ。すると、誰かが玄関の外からドアノブをガチャガチャとひねり、扉を強く叩き出した。「おい、開けろ!」という中年男性の大声も聞こえた。聞き覚えのない声だったので、博志と祐子は布団の中で見つめ合っていた。そのうち、インターホンが何度も押されるようになった。

 博志はひょっとすると、事に及んでいるときにガタガタと音を立てていて、それに対する住民からの苦情かもしれないかと思った。しかし、そんなに周囲に響くような声や音を立てているとは思えないのに、どうしてこの家が発信元だとわかったのだろう。博志は不思議に思いながらも、外の男はいつまでも「おい、早く開けろ!」と叫んでしつこくドアを叩き、インターホンも鳴らし続けていたので、身の危険を感じた。着衣を身につけずにそっと玄関先まで歩いた。祐子も全裸のまま掛け布団を身体に巻いてついてきていた。

「誰?」

「わかったら苦労しないよ」

博志は祐子の耳元で囁いた。博志は玄関の電気を付けようとしたが、祐子が制した。

「強盗かもしれないよ」

 博志はまさかとは思ったが、ここは大都会・新宿である。何が起こってもおかしくない。博志は祐子の忠告通り灯りは一切つけず、キッチンから包丁を取り出し、両手で握りしめてそっと玄関に近づいた。もちろん、着衣はつけていない。

 博志は息をひそめたまま外の男の動きに注意を払っていた。いつまでもドアを開けようとしているのなら、どこかのタイミングで内側から開けて捕まえるのが良いか、穏便に何の用かと尋ねるか、警察に電話にするか、どれかにしようと思った。こちらは包丁を持っているが、相手は拳銃を持っているかもしれない。まずは扉の魚眼レンズで相手の様子を確認すべきだとのぞき込んだ。

「あ、やべ!」

 博志がのぞき込むのとほぼ同じタイミングで外から声が聞こえ、声の主は音を立てて走り去って行った。博志はドアを開けて廊下を見渡したが、誰も見当たらなかった。しばらくして上の階のほうでドアがバタンと閉まる音が聞こえたので、外の男はどうやら真上の住人だと推測された。すぐにでも苦情を言いに行こうかと思ったが、もしかしたら真上ではなく斜め上かもしれないし、「怖い系」の人だったら返り討ちに遭いそうである。博志は犯人捜しはやめて包丁をしまい、そのまま寝室へ戻って服を着た。祐子もすでに服を着ており、布団の上に座っていた。

「上の人?」

「たぶんね。酔っぱらって階を間違えたんじゃないかな」

「迷惑な話よね」

 2人はその後、灯りを消したまま何をするわけでもなく布団に寝そべっていたが、神経が冴えわたってしまい、眠れなかった。

「ヒロくんが全裸で包丁を握ってるシルエットが、あまりにもおもしろくてさ。相手は強盗かもしれないっていうのに、笑いそうになってた」

「こっちは必死だったのに、ひどくない?」

「しかも全裸で外に出たでしょ? そのときに誰かに見られたらどうするつもりだったの? 露出男に遭遇して逃げる酔っ払いになっちゃうよ」

たしかにその状況だけを見ると、怪しまれるのは博志のほうだったかもしれない。最初は外に出て捕まえるという選択肢もあったので、そうしなくて正解だったと別の意味でも胸をなでおろした。いっぺんに緊張から解放されたのか、その後2人はすぐに眠りに落ちた。


 引っ越して数ヵ月が経過しても、両隣の住民と顔を合わせることはなかった。博志も隣人が在宅中であるとわかっても、挨拶には行かなかった。東京にはそういう習慣がないと思うことにした。

 6月になって梅雨入りし、蒸し暑い日が続いていた。7月最初の日曜日、博志は半袖・短パン姿でくつろいでいた。祐子が学生時代の友人とランチに出かけたので、博志は一人きりだった。

 西新宿は交通量が多いため、騒音がひどい。窓を開けていると、家の中にいても常にタイヤがアスファルトをひっかく音が聞こえてくる。騒音対策でこのマンションの窓は防音ガラスが使われており、その分厚さのせいなのか網戸用のレールがない。だが、これから本格的な夏を迎えるにあたり、窓を閉め切ると暑くてたまらないので、博志は仕方なく窓を全開にしていた。エアコンは電気代節約のため、できるだけ使いたくなかった。

ある程度の騒音は徐々に慣れてきた。フローリングの床に寝そべっていると、地面から電車が走るような音が聞こえ、音に合わせて身体が揺れるように感じられた。4階でこの振動ということは、1階だったら地震のように揺れるのかもしれない。新宿区の地図を見ると、たしかに博志が住むマンションの下には地下鉄が走っていた。都会の喧騒が苦手な人にはこのような生活環境は耐えられないだろうが、博志は図太いのか鈍感なのか、都会への憧れが強いのか、そんな騒音・振動にも慣れてきて、昼食後に寝そべったりすると、振動が心地良い午睡を誘ってきていた。

この日も博志は見どころが何もない関東ローカルの情報番組を見ながら寝そべって、地下から聞こえる電車の音と振動で意識が徐々に遠のいていった。

 数十分は寝てしまっただろうか、博志は遠くから聞こえる動物の鳴き声で目が覚めた。どうやら鳴き声の正体はネコのようだった。徒歩10分ほどの距離に新宿中央公園があるから、そこを住処にしている野良ネコがマンションの周囲にいるのかもしれない。このマンションに来るまでに大きな道路もいくつか越えないといけないのに、よく無事に来れたものだと、姿が見えないネコに感心していた。それにしても、いつまでも鳴き声が聞こえるのはどういうわけだろう。ここは4階なのに1階からよほど大きな声で鳴いているのだろうか。

博志は起き上がってバルコニーに出た。すると、得体の知れない物体が動いたのが見えた。あれはいったい何だったのだろうか。少し寝ぼけていて正体をしっかりと確認できなかった。博志は諦めて中に戻ると、また鳴き声が気になりだした。今度は寝そべったままバルコニーに目をやると、小さな白いネコがチリンチリンと首輪についた鈴の音を鳴らして、博志の家のバルコニーを横切り、隣のバルコニーのほうへ消えていった。

「え?」

 博志はまだ完全に目が覚めていないのだと思い、目をこすった。鈴をつけたネコがなぜ4階のバルコニーにいるのだろうか。それとも見間違いだろうか。このマンションはペット飼育が禁止で、子ネコは問題ないという例外もなかったはずだ。もしかしたら、近くの家で飼われているネコが迷い込んだだけなのかもしれないが、何度も繰り返すようにここは4階である。あんな小さなネコがどうやって4階まで上がってくるのだろうか。

 それでも博志は「どこかの飼いネコが横切っただけ」と割り切って、再び寝そべってテレビを見ていた。するとまた「ニャー」という鳴き声が聞こえた。鳴き声のするほうを見やると、先ほどと同じ白い子ネコが今度は明らかにこちらを向いていた。博志は動物が嫌いというわけではないが、動物アレルギーがあるのでイヌやネコには近づかないようにしていた。このままネコに居つかれてはアレルギーが出るかもしれないと思い、ネコを追い払った。すると、ネコはまたしても隣のバルコニーに逃げた。隣に住むのはまだ姿を見たことのないカップルだった。それから間もなく隣から「どこ行ってたの? 外に出たらダメって言ったでしょ!」という女性の声が聞こえてきた。

 これで隣人がネコを飼っていることが判明した。夕方、祐子が帰ってきて、博志が祐子の留守中に体験したことを話したが、祐子は信じようとしなかった。

「えー、だってこのマンションはペット禁止じゃん!」

「じゃあ、隣の女性は誰に『外に出たらダメ』って言ったのさ?」

「そんなの知らないよ。テレビの音だったんじゃないの?」

 そんな偶然があるだろうか。「外に出たらダメって言ったでしょ!」は人間に対して言う言葉だが、ペットも家族の一員だから人間扱いをする飼い主も多いだろう。それはペットを飼育したことがない博志も想像がついた。でも祐子はなかなか信じようとせず、「今度、昼間にバルコニーに注意しておいて」と告げるにとどまった。しかしその後は、祐子の在宅中にネコがやってくることはなかった。隣人のしつけの効果があったのだろうか。それでも1ヵ月後の祐子が1人で外出をした日に、白いネコがまたやってきたのである。鈴のついた首輪をしていたので、この前と同じ飼いネコだろう。しかも今回は、博志が手を伸ばせば届きそうなぐらいの距離にいる。人間にも慣れているのだろう。ネコは「ニャー」とか細い声で鳴いた。

 博志はネコを驚かさないよう、そうっと手元にある携帯電話を向けて撮影した。自分でも驚くほどの愛くるしいネコのスナップショットが撮れた。ネコ好きにはたまらない1枚だろうが、もちろん博志は写真を眺めるためではなく、大家に苦情を言うための証拠として撮影したのである。あとはネコが隣家に逃げていくのを確かめるだけなので、博志はそっと立ち上がったが、動物アレルギーのせいでくしゃみが出てしまった。ネコは驚いて鈴をチリンチリンと鳴らしながら、隣家のバルコニーへ逃げていった。

「本当なんだ。なんか残念だね。お隣さんはインターホンには出てくれないし、ペットは飼うし」

「やっぱり都会って怖いね」

「う~ん、良い人も多いはずだけどね。だってここの住人はみんな面接されてるんでしょ?」

「新田さんは形だけって言ってたじゃん」

「だったらやらないほうがマシじゃんねえ」

 博志は翌日、大家の上杉に電話をかけ、隣人がネコを飼っていること、その証拠となる写真も持っていると伝えた。上杉は住民からの苦情に焦っているようだった。

「早急に住人に注意します」

その日の晩に上杉から電話がかかってきた。電話に出たのは祐子だった。一通り、上杉が報告をしているようで、祐子はうなずくだけだった。

「ていうか、あの面接は意味あるんですか?」

祐子の鋭いツッコミに上杉が平謝りしている姿が目に浮かんできた。

「ふーん、何でも良いですけど気をつけてくださいね」

 祐子は電話を切ってから大きくため息をついた。

「隣の人は、ネコの引き取り手を探すんだって。面接ではちゃんとペット禁止だと伝えているはずだけど、彼が面接したわけじゃないからわからないってさ」

「オレはペットを飼ったことがないから、ルールを破ってでも飼う人の気持ちがわからないよ」

「私も飼ったことがないけど、好きな人はめっちゃ好きだもんね。私たちが気持ちよく過ごすためのクレームだったけど、隣人トラブルとかにならないよね?」

「大丈夫だと思うけど」

 引っ越してから数ヵ月という短期間で、数々の珍事件が発生した。これは西新宿だから起こり得たことなのかは博志にも祐子にもわからなかったが、これからの生活に一抹の不安が残ったのは確かだった。

 隣人とのトラブルはその後、幸いにも起こらなかった。と言っても、引っ越してからいまだに一度も顔を合わせていないので、博志たちのことをどう思っているのか知り得ないが、あの日以来ネコの姿を見かけなかったし、博志や祐子が嫌がらせの被害に遭うこともなかったので、ネコの件は解決したのだろう。


 夏ももうすぐ終わるという時期に差しかかり、新宿での暮らしにもようやく慣れてきた。車や地下鉄の騒音もまったく気にならなくなった。相変わらず博志の仕事は忙しく、帰宅は日付が変わるころになることもあった。しかし、たまに早く帰れる日もあり、そういうときを狙って同僚たちから飲み会の誘いがあったが、体よく断っていた。

ようやく仕事も落ち着いたころ、週に一度は定時退勤ができるようになったので、飲みの誘いに応じられるようになった。

 同期の吉岡と会うこともなかなかできなかったが、ある日休憩所でばったりと出くわし、お互いの近況を報告し合った。

「最近どうよ?」

 これが吉岡の口癖である。

「やっと落ち着いたかな。また飲みに行こうよ」

「そっか。オレも最近コンパやってないんだよね」

「へえ、どうして?」

「いや、実はさ、彼女ができて……」

「おお! それはめでたい。コンパで見つけたの?」

「うーん、まあコンパっちゃあコンパだけどね」

「だけど、何?」

「ん? えっと、その、ノンちゃんなんだよ」

「マジ!? やばくない?」

 ノンちゃんとは吉岡と常にコンパのセッティングをしていた今井範子のことである。

「でも、お似合いかもな」

 博志は本心から感想を述べた。

「うん、北川はぜんぜん参加してくれなくなったけど、あれからも何度かコンパを開いてさ。それなりにかわいい子はいたんだけど、ふと冷静になったときに、ノンちゃんと比較している自分に気づいてさ……」

「ふむふむ。それで?」

「ノンちゃんを上回る子がなかなかいなくてね。この子だったらノンちゃんのほうがいいなってばかり思ってたんだよ。それこそ、ノンちゃんより良いなと思ったのは、北川も来てたときの、奈良さんだっけ? あの子ぐらいで」

 吉岡の口から祐子の名前が出てきて、博志は胸の高鳴りを感じた。

「それで今度はどんなメンツにしようかって2人で飲みながら話してたらさ、なんか妙にノンちゃんがかわいく見えてね。で、『ノンちゃんはなんでこんなにコンパを開いてくれるの?』って聞いたらさあ……」

 吉岡は目をつぶって首を横に振った。博志は吉岡のじらしに軽い苛立ちを覚えた。

「『なんでだろうねえ』って遠くを見るような目になったんだよ」

 そこはもったいぶるところではないと、博志はズッコケそうになった。

「そのときの顔が今でも忘れられないわ。ノンちゃんが『吉岡くんのほうこそなんでなの?』と聞いてきたから、オレは酒の勢いもあって、『ノンちゃんがいるからだよ!』って言ったんだよ」

 この先が本来ならもったいぶるところではないかと博志は思ったが、吉岡は矢継ぎ早に言葉を続けた。

「そしたら『え?』って真顔でこっちを見るからさ。追い打ちをかけるように『もうコンパなんか企画しないでオレたちだけで遊ぼうよ!』って」

「それは遠回しの告白だねえ」

「そう。ノンちゃんも『うん』と言ってくれた。それ以来、コンパは開いてません!」

「そっか。しばらく会わない間にそんな進展があっただなんて」

「北川はどうよ?」

「せっかく吉岡が話してくれたからオレも言うけど、実は奈良さんと付き合ってます!」

「……そうなのか。薄々つながってるんじゃないかと思ってたけど、まさか付き合ってるとは……」

 吉岡は先ほどまでのハイテンションから一転、急にうつむいてしまった。

「もう長いの?」

「もう1年ぐらいになるかな。実は最近引っ越して一緒に住んでるんだ」

「同棲してるの!? やるなあ。だからコンパに来なくなったのか。でもどうやって奈良さんを落としたの?」

「改めて聞かれるとよくわからないなあ。話が合ったから、かな?」

「ふ~ん」

 吉岡は無表情だったので、博志と祐子の交際を歓迎しているのか反対しているのかを判断しかねた。

「まあでも一緒に住んでるってことは、一緒に家探しとかもしたんでしょ?」

「そうだね。ほとんど向こうの言いなりだったけどね」

「そっか。まあオレらも実は半同棲中みたいな関係だからさ、真剣に2人で住む家を探そうとか話してたんだよ」

「じゃあ、いろいろアドバイスできるかもね」

「頼むよ。北川が奈良さんとくっついたのは不本意だけど、今のオレの本命はノンちゃんだから」

 博志は吉岡に、祐子と交際していることをいつ、どうやって伝えようかとずっと考えあぐねていたが、思いも寄らず吉岡のほうからプライベートについて話してくれたので、博志はそれに乗っかることにした。吉岡とはこれからも公私ともども、付き合いが続きそうな気がした。

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