[3]叶わぬ夢
広い公園をまだ抜けないうちに、さすがにちょっと疲れてきた。
見るとちょうどいい場所にベンチがあったので、私は休憩することにした。腰を下ろし、見渡す限りの
――夢をみたこともあった。彼女と結ばれ、家庭を持ち、男の子と女の子がひとりずつ。庭には犬、家の中には猫。やがて子供たちが大きくなって、それぞれ伴侶をみつけて。週末には孫たちの顔を見せに皆が集まり、一緒に食事をして賑やかに過ごすのだ。
だけど、そんなのはなにもかもただの想像、決して叶うことのない夢だった。
ただ報われぬ恋というなら、他の誰かと結婚すればそれで忘れられたのかもしれない。けれど、私にはそれすらできなかった。母に何度となく見合いをさせられ、そのたびに着たくもない振袖を着せられて、あんな条件のいい人のなにが気に入らないの、いいかげん孫の顔を見せてちょうだい、と懇願された。
しかし私にとって、男と結婚して子供を産むなど、想像もできない、まったくありえないことだった。
もしも私が女性と子をなすことができる躰を持っていたら――ふつうの男として気持ちを告げることができていたら、彼女を誰にもわたしはしなかったものを。
その決して叶わない夢を、ひとり寝床に入ってから思い浮かべる空想の物語を、私は小説というかたちにした。そして思いつきで雑誌に載っていた賞に応募すると、なんと入選してしまった、というわけだ。人々は私の書いた物語を、どこにでもあるありふれた家族の物語なのに、とても貴重で大切な宝石のように輝いている、と評した。
莫迦莫迦しいほど、言い得て妙だと思った。
と、ついそんなことを考えていた私は、ベンチに人が近づいてきていたことにまったく気づかなかった。
「――ここ、いいですか」
突然聞こえたその涼しげな声に、私は少し驚きながら顔を上げた。
そこに立っていたのは若い、整った顔をした青年だった。青年は、ベンチの空いた部分を指してにっこりと微笑んだ。
休憩もしたし、もう帰ろうかとも思ったが、追いたてられるように去るのも感じが悪いような気がした。青年が人懐こい、感じの良い笑顔だった所為もあったろう。
「もちろん。どうぞ」
ベンチにはまだじゅうぶん余裕があったが、私は少し端へ寄り、杖も反対側へ移した。
「どうも……。あの、お茶があるんですけど、よかったらご一緒にいかがです?」
青年はキャンバス地のトートバッグから缶ジュースよりちょっと高さがあるくらいの水筒を出し、云った。
「友達が今、あっちのほうでペットの里親募集イベントみたいなことをやってましてね。僕も撤収作業を頼まれて来たんですけど、早すぎたみたいで。付き合ってもらえませんか」
「ああ、譲渡会の……でも、このお茶は一人分なのじゃないですか?」
青年はにっと笑って、バッグからもうひとつ同じものを取りだした。
「自分のもちゃんとありますよ。これ、カバーを外して見てください。透明でしょ? まだただのお湯なんです。こうしてしばらく逆さまにしてるとお茶の色が出てきますから、お好みの濃さになったら戻して、蓋を外して飲んでください。淹れたてですよ」
「へえ、おもしろいですね。便利な世の中になったものだなあ」
「ほんとですね。紅茶は水筒に入れて時間が経つと酸化して、美味しくないですから」
あ、ちなみに茶葉はダージリンです、と云った青年に甘え、私は紅茶をいただくことにした。喉が渇いていたのだ。
「うん、美味しい」
「よかった。……ところで、譲渡会に行ってたんですか? 飼いたくなる子、いませんでしたか」
「いや、年寄り猫をもらおうと思ったんだけどね、独り暮らしだとだめなんだそうで、諦めたんだ」
「え、そうなんだ……おひとりなんですか。寂しいですね……そういう人にこそもらってもらえばいいのに」
「人のほうはよくても、犬猫のためにはよろしくないらしいね。せめて近所に身内か誰かがいないとって云われたよ」
「そうか、なるほど。うまくいかないもんですね」
青年はまたバッグに手を突っ込み、今度は四角いクッキーの缶を取りだした。蓋を開け、自分と私のあいだに置くと「合いますよ。どうぞ」と勧めてくれた。
「用意がいいですね。よくこんなふうに外でお茶をするの?」
「ええ、偶に。最近は秋が短いので機会は少ないですけどね。さすがに夏は暑いんで、ちょっとね」
狭いアパート住まいなものだから、開放的な気分を味わいたくなるのかもしれないです、と青年は云った。そしてぽり、ぽりとクッキーを食べ、お茶を啜ると「お宅はこの近くなんですか?」と尋ねてきた。
「ああ、バス停を二つほどの距離だよ。公園の向こう側に出たほうが近いんだ。今日はたまたま、散歩していてこっち側に来ただけでね」
「そうなんですか? じゃあ、うちから近いかも。……あの、さっきの話なんですけど、もしも俺とこれからも茶飲み友達でいてくれるなら、猫を引き取れるかもしれませんね?」
私は少し驚いて青年の顔を見た。
「ええ? いや……確かに、そうかもしれないけど……どうして?」
思いついただけなのかもしれないが、会ったばかりの人間が、どうしてそこまで云ってくれるのだろうと私は不思議に思った。
そして、不意にそのことに思い至った。
「――ひょっとして、さっき私が話した人が、なにか?」
私がそう云うと、青年はあはは、と笑って頭を掻いた。
「ばれちゃいましたか。実はそうです……片付けるのを手伝いに来る約束はもともとしてたんですけど、彼に人助け猫救けだと思って早く来いって呼ばれて。誰にも興味を示さなかった年寄り猫が呼んだ人がいる、でも独り暮らしでもらってもらえないって焦ってて――」
自分が近所の仲良しさんってことにすれば特別にオッケーが出るって云うんで、慌てて来ました。と、そう説明してくれた青年に、私はありがたく甘えることにした。
今はひとりで、ろくに近所付き合いもせずに暮らしてはいるが、別に人嫌いというわけではない。自分の性別について訊かれたり、あれこれ干渉されるのは好きではないが、この青年はそういうことも云ってきそうにないし、なにより紅茶が美味しかった。これから本当に茶飲み友達になるのもいい、そう思えたのだ。
それに、これもなにかの縁だろう――青年たちとも、あの老猫とも。そんなことを思い、私はふと気づいた。
こんな歳になって、もうあとは皆のところに行くだけ、なんて思って気にもせずにいたつもりだが……ひょっとすると、私は寂しかったのかもしれない。
お茶を飲み干し、茶漉しと茶葉入れのついた便利な水筒を返すと、私は青年と一緒にまたさっきの場所まで戻った。
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