第2話 明鏡止水

 500年という歳月を重ねたと言われている巨木から造られた重厚で大きな扉が音もなくすっと引かれた。

 丸みを帯びた明るいブラウンカラーのミディアムボム、身体のラインが綺麗に見えるタイトな紺のワンピースの上に白いカーディガンを羽織り、少し顎を引いて上目遣いに僕を見る女性が玄関扉にもたれかかるような姿で立っていた。

「いらっしゃいませ」

 僕は静かに、かつ、厳かなる歓迎の挨拶を述べる。 

 その女性は僕の言葉を待っていたかのように、右手でVサインをした。切れ長の涼しい目とすっと通った鼻筋と肉感的な唇は一度でも近くでお話をしたことがあるなら忘れないはずだが、思い出せないってことは知らないってことだ。

 じゃあ、このVサインはなんだろうか。野球かサッカーでごひいきのチームが勝利したのか、長年の念願がかなったのか、試験に合格したのか。

 だが、その仕草の意味することは経験から想像はついている。

 僕は静かに女性の次の言葉を待つ。その女性は右手を降ろしてなにも言わずに店内へと歩を進めて振り返って扉を閉めた。

「お席、空いてるかしら?」

「はい、テーブル席でよろしければすぐにご案内できます」

「あら。カウンターは?」

「残念ですが、すでに一杯になっております」

「そうなんだ。じゃあ、しかたないわね。テーブル席へお願い」

「かしこまりました。お一人のご利用でよろしいですか?」

 明鏡止水の接客精神が壊れた瞬間だ。たかがVサイン如き、些細なことで感情を乱してついつい余計なことを言ってしまった。

 無理に時間に逆らわないで現実を真正面から受け止めたらもっと可愛い女性になれる残念なこの女性に、心の奥で少し興味が湧いた自分に気がつく。清々しいドライフラワーになる花は、水分が身体中を駆け巡っていた頃には張ち切れんばかりの美しさが必要だ。かつての華やかなる若かりし頃の自分の姿を忘れたくない気持ちもわかるけれど、首や膝の皺は隠せないのはご本人もご存知のはず。

 僕がそう言うと女性はやれやれと言いたそうな表情を見せたかと思うと軽いため息をついた。そしてまた右手でゆっくりとVサインを作った。

「かしこまりました」

 まだまだ修行が足りない自分を戒めながら軽く頭を下げる。私の言いたいことくらい察しなさいと言わんばかりの上から目線を、今回は自省の念で受け止めます。

「あとから同じくらいの年齢の男性が来るから」

「はい。では、ご案内いたします」

 カウンターにきっちりと並んだ10人が僕の後ろから歩いてくる女性の顔を伺っている。女性も見られることには快感を覚えるタイプだからまんざらではない様子。

 僕はこんなBARには必ず犬客と猫客が存在していると定義している。男女問わず、人に付くのが犬、店に付くのが猫だ。カウンターの犬客は扉が開いた瞬間に一斉に振り返って誰が来たのかを確認する行為が常だ。猫客はそんな犬客の反応を見て面白がっている。

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