寡黙なBARTENDERはかく語りき

橘 遊

第1話 ようこそ「Raison d'etre」へ

 約30年前にはタクシーさえ途中で引き返した未開の山地に「湖北ニュータウン」と名付けられた街はどんどんと開発されて、コンクリートとアスファルトの面積を拡げ続けている。大規模なマンションが建設されている中、既存の緑を最大限に残して活用する街づくりを推進しているため、幼い子供を育てる環境を考える若い夫婦が都内から移り住んできている。この辺鄙な場所から既存の大手私鉄までの交通手段として急ピッチで造られた地下鉄は年々、混雑度を高め、今や車内では新聞を広げて読めなくなった。

 仕事から帰宅する途中に、おいしいジントニックが飲みたくなったときに立ち寄るお店がまだ見つからなかった。

 街にも人にもネクタイを締めている時間とシャツのボタンを外す時間とのバランスは大切だ。でも、この街には社交的な人が求める、開放的で健康的なお店はあるけれど、自分を解き放つための非日常的で陰湿な空間を求める人にとっては優しいお店がなかった。


 ある日、この街で都内の有名なケーキ&カフェを見つけてお邪魔をした。入るとすぐに目につく大きなケーキのショーケースの下段には、野菜が並んでいた。一見してそれは商品ではなく料理用だとわかった。ランチタイムが終わったころで店内は閑散としていて従業員同士のおしゃべりだけが響き、誰かが席へと案内する気配さえない。席に着くと、金髪で、かなり短いスカートをはいて、きっちりとお化粧をした女子高校生が制服のままでプラスチック製のコップでお冷を持ってきてくれた。ケーキを買うだけにするべきだったかと後悔の念さえ芽生え始めた。

 注文をした冷たいカフェオレは小さくなった氷が2,3個ほどプカプカと浮いている。もちろんとても薄くて、とても水っぽい。残っていたホットコーヒーと牛乳を混ぜて氷で急冷してそのまま提供された残念極まりない代物。あとから運ばれてきたケーキは持ち帰らせてもらった。

 飲食店で提供する商品は自分の芸術作品であることを忘れてはいけないのに、この店の従業員は商品に真摯に向き合っていない。粗悪な商品を提供していると信用を失くしますと伝えたところで、せいぜい、お代は結構ですとあしらわれ、僕の背中に向かって、聞こえないように暴言罵声が飛んでくるだけだ。

 自分の機嫌を自分で取るためには、感情が乱れるような会話は避けることだ。

 雄弁は銀なり、沈黙は金なり。

 ただ、偽物の商品を提供した従業員が、カフェオレを半分も残して文句も言わずに金を払った僕の沈黙に、なにかを語る以上の意味があることには気がつかないだろう。

 お店を出たとき、小洒落た居酒屋やイタリアンは幾つかあるものの、この街にはまだ、僕が求めるジントニックはないと断言できた。 


 結論として、自分でお店を創ることにした。

ようこそ「  Raison d'etre 」へ。

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