鷹城屋の絆 肆

「……ただいま帰りました」


 凛は小さく口の中で呟くと、生家の敷居を跨ぐ。

 その後ろをぞろぞろと少年が、壮年の男らが続いた。


「お帰りなさい、凛。──あら、皆様も」


 丁度雪子が庭先に出ており、すぐさま凛や他の面々に気付く。


 出掛ける前はしていなかった襷掛けを見るに、周囲の掃除をしていたと見受けられた。


「蒼馬は部屋か?」


 いち早く有楽が雪子に聞く。その表情はどこか慈愛に満ちていた。


「ええ。何度も起き上がろうとしているのですけど、まだ身体が痛むようで。褥で退屈そうにしております」

「左様か。……本当に彼奴は図太い奴だ」


 一度決めれば出来るまでやろうとする蒼馬を見ているからか、有楽は深く嘆息した。


(出掛ける前、兄上は起きていらしたけれど……)


 しかし、凛は知っている。

 総司と手合わせした翌日を除き、雪子やお種を含めた人間の見えない所で、蒼馬が物音を立てない程度に稽古をしていた事を。


 一日でも稽古をしないと感覚が鈍る為、身体が少しでも動く時は動けと教えたのは有楽だ。

 それを有楽は思い出したのか、『いずれ大物になるかもな』と小さく呟いたのを凛は聞き逃さなかった。


「皆、蒼馬のお見舞いにいらしてくれたの?」


 雪子はやや膝を折ると、こちらに視線を向ける。

 凛の後ろに居た秋生を除く少年らは、やや砕けた口調になった雪子にしどろもどろしつつも、事前に言うことを決めていたらしい千寿郎が口を開いた。


「はい。蒼が心配で……彼奴に会うのは大丈夫ですか?」

「ええ、是非いらしてくれるとあの子も喜ぶわ。それにしても」


 雪子はそこで言葉を切り、千寿郎の瞳をじっと見る。


「──美しい瞳ね。私とも、他の方々とも違う貴方だけのもの」

「……っ」


 背後で微かに千寿郎が息を呑むのが分かる。

 千寿郎には異国の血が流れているらしく、それもあってか目の色が違うのだと凛は聞き及んでいた。


 自分だけ普通の人間とは異なり、苦労した経験から『高みを目指したい』と思うようになったのだと。


(千寿の兄様は歌舞伎の道に進む前、観衆の見世物にされたとも仰っていたっけ)


 それはどれほど苦痛で、どれほど惨めだったかは凛には分からない。

 ただ、今の千寿郎には仲間がいる。


 切っても切れない強い絆で結ばれた仲間が。


「さぁ、早くお入りになって。きっと蒼馬も喜ぶわ」


 雪子は微笑みながら言う。


「母は夕餉の支度をするので、何かあれば厨においでなさいね」


 そして凛の頭を撫で、雪子は厨のある勝手口に歩いて行った。


「なぁなぁ、千寿郎」


 凛を先頭に蒼馬の部屋に向かっていると、秋之丞の声が足音に紛れて響く。


「煩いよ」

「まだ何も言ってへんやろ!?」


 間髪入れずに遮られ、秋之丞は悲鳴じみた声を上げた。


「一応病人が居るんだ、あまり声を出さない方が良い……そう習わなかった?」

「──っ、ほんっま可愛くないやっちゃな! 口悪いお前がなんで蒼に好かれとるんか納得出来でけへん」

「……二人とも煩い」


 千寿郎に言われた言葉の裏の意味を汲み取ったのか、秋之丞は声を落として一人でぶつぶつと文句を垂れる。


 ただ、二人の後ろを歩いていた雪之丞だけは、ぽそりと聞こえない程度の声で悪態を吐いた。


 蒼馬の部屋は庭に面しているからすぐに着く。

 しかし、そう長くない部屋までの距離は主に千寿郎と秋之丞、時々雪之丞も交えての口喧嘩で長引いてしまった。


(静かになったと思えば、立ち止まって口論してるなんて……皆のお声で兄上は起きてらっしゃるんだろうな)


 はぁ、と小さく凛は溜め息を吐いた。

 念の為にと着いてきた秋生は、どういう訳か庭に視線を向けている。


「……風流だな」


 やけに間延びした声に止める様子は微塵も無かった。


「お前達、止めんか!」


 反して有楽だけは事あるごとに窘めているが、三人に聞く耳を持つ様子は無い。


(皆様自由過ぎるし、伯父上の負担が大き過ぎる……!)


 ひくりと凛は知らずのうちに頬が引き攣る。

 このままでは、やかましいと蒼馬が床を抜け出して来るのも時間の問題だった。


 そうこう考えているうちに、いつの間にか蒼馬の部屋の前に着く。

 後ろに居る少年達の口論は未だに白熱していたため、凛は全てを無視した。


 こちらが止めに入ろうとお構い無しに喧嘩し、このまま何度となく堂々巡りになってしまうのが見えている。


 凛は板に正座し、少年らに負けない大きな声で蒼馬を伺う。


「兄上、凛です。入っても大丈夫ですか!」

「……ああ、おいで」


 瞬き一つした後、蒼馬の笑いを堪えた声が聞こえた。

 思ったよりも大声が出てしまい、背後の人間らの声が止まる。


「失礼します」


 それに凛は気付かないふりをし、そっと障子を開けた。

 蒼馬は褥の上に座っていたが、何かの書物を読んでいたようだ。


 凛の姿を目に留めると、蒼馬はにこりと微笑んだ。


「おかえり、凛。師匠に千寿郎の兄さん、雪之丞の兄さんも来てくれたんですか。……あと秋之丞も居たのか」


 順にそれぞれの顔を見て名前を呼び、しかし秋之丞を呼ぶ時だけ蒼馬は眉根を寄せた。


「俺はついでか蒼!」


 明らかに他とは違う自分の対応に、秋之丞はきぃきぃと声を上げる。


「俺もいるよ〜」


 ひょいと顔を覗かせた秋生が、蒼馬に向けて手を振った。


「秋生さん! すみません、こんな格好で」


 秋生の姿を見つけると、蒼馬は慌てて褥から出ようとする。


「大丈夫大丈夫、病人って聞いたからゆっくりしてな」


 じゃないと雪子さんに怒られるよ、と秋生は続ける。


 蒼馬は秋生を敬愛しており、何かがあれば相談するほどの仲だ。

 逆もまた然りで秋生も蒼馬を弟のように思っており、時々二人で何処かに出掛けているという。


(兄上……)


 凛は人知れず苦笑した。

 人によって態度を変えるのは関心出来ないが、それはそれで蒼馬なりの愛なのだと思う。


 未だ秋之丞にだけは心を開いていないのにも理由があり、蒼馬はこれから年を経るにつれ変わっていくのだ。


(それを間近で見れないのが悔やまれるけれど)


 あと十年足らずで蒼馬は上京し、その後を追うように凛は新選組の面々とともに京へ上る。

 それまでに過ごした日々と何が違い、何が同じなのか凛はそれとなく気を配っていく必要があった。


(知っている事と違う夢は見たくはない。……八郎さんに会えないのはもっと嫌だから)


 先日見た夢の続きを見られるかは分からないが、近いうちに何かがある──そんな予感がした。


「兄上」


 気持ちを切り替え、凛は蒼馬の方ににじり寄った。


「これ、伯父上の所で頂いたんです」


 言いながら風呂敷を差し出す。


「師匠の? ……変なものじゃないでしょうね」


 もしや、と言ったふうに蒼馬がじとりと有楽を睨む。


「仮にも伯父をなんだと思っとるんだ! いいから開いてみろ」


 ほら、と有楽が急かし蒼馬は渋々包みを開ける。


「あ」


 風呂敷の中に入っていたのは凛が食べていた落雁と金平糖、その他には凛の手の平ほどな小さな木箱が一つ。


(なんだろう、これ)


 なんの変哲もない木箱は中に何かが入っているのか、蒼馬が手に取るとカタカタと小さな音を立てた。


 蒼馬は箱をじっと見つめたかと思えば、有楽と箱とを何度も交互に見る。


「……変なものではないから安心しろ」


 有楽の再三の言葉にやっと覚悟を決めたのか、蒼馬が意を決して箱を開ける。


「……根付?」


 それは龍の形をしたもので、職人の手によって作られたであろう細かな細工がされていた。


「ああ、これから先に要ると思ってな。ほら、あるだろう。あれ……」


 もごもごと有楽は口を開いては閉じてを繰り返すと、秋生に助けを求めた。


「あ、成程!」


 ぽんと手を打ち鳴らし、有楽が何を言おうとしたか察したらしい秋生がにこやかに告げる。


「お前が一時期物珍しそうに見ていたやつがあるだろう? 今はまだ駄目だが、煙草たばこ入れに使えと」


 くすくすと秋生がさも可笑しそうに続ける。


「そういえばあったな。じっと見てるから、何だと思えば『何を食べてるんですか?』って言ってな。いやぁ、あれは今思い出しても──」

「いつの話をしてるんですか!?」


 秋生に被せるように蒼馬が声を荒らげる。

 どうやら蒼馬の数年前の話をしているようで、凛にはとんと分からない。


 しかし怒りつつもどこか楽しげな蒼馬を見ていたら、次第にこちらまで楽しい気持ちになった。


 それでだ、と有楽は秋生の言葉に付け足すように言うと、蒼馬の部屋に足を踏み入れた。


「巾着は雪子に頼むか、快復したら俺と市井へ行こう。金は俺が出す」


 蒼馬の傍に胡座あぐらをかき、ポンと肩を叩いた。


「だからしっかり治せ。まぁ既に治ってるとは思うが──少しはうちに顔を出しに来い」


 あそこはお前の家でもあるのだからな、と有楽はやや語調を強めて言う。


 実際、蒼馬は有楽の屋敷で日々稽古を積んでいる。

 生家とそう距離は遠くないが、蒼馬の稽古に身が入るよう有楽の屋敷に住んでいるのだ。


「そうだよ。俺も雪之丞も、……多分秋之丞もお前が戻るのを待ってるんだから」


 千寿郎が色の違う瞳を細め、ついでにと言ったふうで秋之丞の名を唇に乗せる。


「多分ちゃうわ、俺はめちゃくちゃ待っとるからな!」


 秋之丞がキィキィ千寿郎に突っかかりつつ、隣りにいた雪之丞の肩をぐいと組む。


「蒼馬がいないと呆けた奴を突っ込む役が減っちゃうしね」


 此奴とか、と雪之丞がぶっきらぼうに顎をしゃくる。


 さも面倒臭そうに雪之丞が「離せよ」と肩に回された手を外そうとするが、秋之丞が腕の力を緩める気配はない。


「皆……」


 蒼馬は一人一人の顔を見て、最後に凛に視線を向けた。


「凛」


 蒼馬は小さく名を呼ぶ。

 黒曜石の瞳はほんの少し恥ずかしそうな、けれど確かな意志が瞳に宿っていた。


「明日から母上の説得、手伝ってくれるか?」


 それは蒼馬が床から起き上がるという事で、もう隠れて稽古をしないという事だった。


「え、でも母様はもう少し……」

「早く戻らないと身体が鈍る。それに、あれだけじゃあ到底足りない」


 安静にしていろ、と言われたのは蒼馬とて分かっているのだ。

 しかしそれ以上に熱いものが身体を駆け巡っており、自分で制御するのは難しい──そう凛は察した。


(本当に兄上は……この時から歌舞伎がお好きなんだな)


 早く稽古をしたい、早く皆と騒ぎたい、という年頃の少年らしい顔が現れている。


 凛が覚えている限りだが、蒼馬は常に己を律して歌舞伎だけに打ち込んでいた。

 一人の妹として兄を心配する感情も含め、良い意味で尊敬の念を覚えるほどだ。


「矢張り稽古をしておったか……本当にお前という奴は」


 はぁ、と傍で静観していた有楽が溜め息を吐く。


「だって師匠が言ったんじゃないですか、毎日稽古をしろって」


 ご自分で仰ったのに忘れたんですか、と蒼馬はじとりと睨み付ける。


「やめろ、そんな目で俺を見るな。一応伯父だぞ」


 有楽は言葉を詰まらせ、蒼馬を諭すように言う。

 実際に身内だが、二人の関係は身内以上なのではないかと凛は思った。


「じゃあ見舞いに来てくれたお優しい伯父上に言いますけど、俺が可愛いなら母上を説得してください。貴方なら多分、いや確実に説得出来るはずで……」

「少しは母を敬え、蒼馬。雪子とてお前を縛り付けるのは本意ではないのだろうて」


 暗に「雪子は蒼馬を心配してくれている」と言う有楽に、今度は蒼馬が黙る番だった。


「うっ……けど俺は」

「──楽しそうですね、お二人とも」


 不意に聞こえてきた静かな声に、その場に居た全員が障子から顔を覗かせる。


「蒼馬と有楽様の声が庭にまで聞こえてきたのですが……有楽様、それで私をどう説得されるのですか?」


 にこりと手本のような微笑みをした雪子が、厨の方角から茶や菓子を盆に乗せてこちらにやって来ていた。


 それまで蒼馬と有楽のやり取りを見守っていた人間らは、素早い身のこなしで全員蒼馬の部屋に入ると、蒼馬の近くに固まった。


「え、ちょ、あれほんまに雪子さんか? はん……ぶふっ」

「秋、それ以上は言っちゃいけない」


 秋之丞が続けようとした言葉を、すんでのところで雪之丞が手で口を塞ぐ。


「雪之丞も黙っておいで。あまり言っては聞こえてしまうから」


 千寿郎が軽く二人を諫めるが、その声はいつになく震えていた。

 秋生は秋生で雪子の怖さを分かっている為、正座をしてじっと瞑想している。


「ど、どうしましょう兄上……」


 凛は堪らず蒼馬に助けを求めた。

 蒼馬は安心させるように頭を撫でてくれたが、黙っているだけで何も言わない。


「有楽様? いらっしゃるのでしょう、応えてくださいませ」


 ひくりと凛だけでなく全員の顔が引き攣り、視線を有楽に向く。


 有楽はただ腕組みをして瞑目するだけで、言葉を発そうとはしない。

 男らは勿論のこと、雪子が空恐ろしいのだ。


(母様は一度怒ると怖いから……)


 雪子の豹変ぶりをよく知っている凛と蒼馬は手を取り合う。

 静かな口調で正論を吐き、それはどれほどで矛を収めるのか分からない。


「……皆様を連れて来るべきじゃなかったかも」


 凛がぽつりと呟いた言葉は部屋に居た全員に伝わったのか、皆が皆ごく僅かに頷く。


「貴方はまだ無理をしてはいけないと言っているでしょう。起き上がってはまた痛みますし、治るものも治りませんよ。だからと言って──」


 雪子が蒼馬の部屋の前まで来ると、傍らに盆を置いて板の間に直で正座した。


 そこからずっと唇が動き、凛は冷や汗が背中に伝うのを感じながら蒼馬の手を握っていた。

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凛と咲き誇る花よ、誠の下に咲く華よ -幕末異聞譚- 櫻葉月咲 @takaryou

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